2015 C m が偶数になる最小の m を求めよ。

巷では2進法などで解く、という解説がありますが、もっと簡単に解いていきます。

f(m) = 2015 C m と置きます。

いま最小となる m=g を仮定すると題意より f(g-1) は奇数になります。ので

f(g) = f(g-1) × (2016-g)/g

ですから、 (2016-g)/g が偶数になればいいんですよね。 つまり k を整数とすると

(2016-g)/g = 2k

2016-g = 2kg

2016 = (2k+1)g

になります。(2k+1) は奇数ですから、この値が最大のとき、偶数の g は最小になります。

2016=63(奇数)×32(偶数)

ですから、g = 最小のm = 32

現場で2進法が思いつかなくても(普通は思いつきませんよね!)

f(g-1) が奇数であることを利用すれば、こんなに簡単に解けるのです。以上。

 
世の中、様々な学説がありますが、
この新無効論ほど「珍奇な」学説も珍しいのではないでしょうか。
ところが一定層の支持を受けているのも事実です。

憲法無効論について、以前、解説しました。
改正に瑕疵があるため、現行の日本国憲法は無効、という説です。
まぁ、わかりやすいと言えば、わかりやすいですよね?

新無効論というのは、その点、シンプルさのかけらもありません。
まず無効論の流れを汲んでいますから

大日本国帝国憲法 = 有効

は大前提なのですが、

+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++

日本国憲法 = 講和条約として有効

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と認識しています。

「え、サンフランシスコ講和条約は?」
「え、講和条約なんて当時の史料に書いてあるの?」

そんな無粋なツッコミを入れては元も子もないので、
なぜそんなことを言い出したのかを説明すると、

+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++

法的安定

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を確保するためです。戦後約70年、日本は日本国憲法の下、
様々な法律を制定して来ました。ただの無効論では
日本国憲法の一切合切が否定されてしまいますから、

戦後に制定された法律はすべて無効

になってしまいます。これは、もはやテロですよね。
社会全体がパニックになってしまいます。
それを回避し、戦後の法律が無効にならないようにしながら
かつ、帝国憲法の現存を主張する…それが新無効論です。


思うに、こういう意見をすっと受け入れられる人は、
少なくとも保守的ではないですよね。
新しいものに懐疑を持つのが保守的な人間です。

「むむ?」

と思った人はきっと良い意味で保守的です。
良い意味で、新興宗教などにも嵌り辛いタイプです。

次回からは、これが流行った理由と、
新無効論の論理的な欠点を書いていきますね。


授業がありますので、今日はここで!

 
 
前回、「クレームが宝の山になる」ための簡単に考えられる必要条件を書きました。

・顧客の怒りが収まるのを待たず、素早く対応する
・許容されるコストの範囲で対応する
・個人のせいにせず、チーム、あるいは全社的で対応する

ちょっと問題から逸れてますよね。「クレームは宝の山か」と聞かれているのに、YES(またはNO)の条件を示すだけという回答。でも、俺にはこの辺りが限界ですw

今日は、そこからも外れて、具体的なロードマップのようなものを考えていきたいと思います。

はい、クレームが入りました。お客様は怒っています。まず、これが「宝」となるように行動しなくてはなりません。お客様のお怒りが「ごもっとも」の場合も、「的外れ」な場合もありますが、このケーススタディでは極論、そんなことはどうでもいいのです。

なぜかわかりますか?

このいま起きているクレームが「どうあれ」「結果的に」、ステークホルダーすべてにとって利益あるものになれば良いわけですから、どっちの言い分が正しいかなんて関係ないのです。問題はなぜ怒っているか。何に対して怒っているかです。

少し話が逸れますが、「社員個人のせいにしない」というのは、社員個人に対応を任せないということでもあります。社員はどうしても「自分のせいではない」という考えが先行してしまいがちなので、「どっちが正しいか論」になってしまいがちです。「なんだ、この客」と。しかし、それでは宝の山になりません。

怒っている理由をしっかり話し合う。そしてそれを言わせる。それが大切ですよね。凄い簡単な例として、飲食店で待ち時間が長くて怒っているお客様がいたとします。待ち時間が長いのは、うちの料理の評判が良いからで仕方ないだろ、バカ・・・というのはダメですよね。お客様には、想定されていた待ち時間より長くて申し訳ない、という旨をしっかり伝えるべきです。

仮にですよ、「30分くらいですかね」と先に待ち時間を告げていたのに、「60分待っても席に案内されない」というのであれば、なぜ「30分と言ってしまったのか」の原因を究明する必要がありますが、出来れば、上司が「部下の目算が不正確で申し訳ない」と謝るべきところです。間違って伝えてしまった社員は、モチベーションが下がるところですから、本人より上司が出ていくところでしょう。

ここで上司のモチベーションは下がらないのか、というのが問題になると思いますが、言っても自分のミスではないわけですから、本人よりは気が楽なはずです。また自分のミスはさらに上の上司が庇ってくれると思えばこそ、組織的な信頼感も生まれてくるでしょう。謝るべきは本人ではないのです。原因究明はすべてが終わったあとのフィードバックの段階で十分ではないでしょうか。

問題は「誤り方」ですよね。許してもらうためのコストです。ハンターハンターに拠れば

・悪かったことを詫びる
・それを二度としないと誓う
・その誓いを守る

それが許してもらう条件ですが、それでも許してもらえない場合があります。そうなるとお金で解決です。これは本来、民事裁判をしないことには「金額」が確定しません。しかし、クレームの度に裁判をするというのは日本の文化ではないと思うので、金額をこちらから提示する必要があります。そのための予算というのは、予め組織として用意しておくべきでしょう。決裁権を権限委譲しておいてもいいと思います。

ただ、難しいのは「ゴネ得」になってしまうような、そういう状況設定は経営を圧迫しますよね。顧客の良心に頼るのも立派ですが、統計的に良心を持った人がどれだけいるかもわからない状況下での判断は、暗中模索でしかありません。

現状のこの文章のルール下では、お客様のクレームの質は問わない...というものでしたが、本当に問わなくていいのか、それを問わないことはコスト面での判断を誤らせるのではないか、と思ってしまいます。となると、そもそも「宝の山」を「ステークホルダーすべての利益」と設定した前提に問題があるように思います。

背理法

ですよね。ああやって仮定したものの、あの仮定内ではコスト面での精査がうまく行きません。ということは、前提が間違っていたのです。

これは・・・やり直しですねw

難しい課題です。また時間を置いて頑張りたいと思います!!

 
 

追加です。

「ステークホルダー」という概念ををシンプルに「経営者」+「社員」+「顧客」と設定します。それぞれ利益がある状態を

経営者・・・この企業の利益が上がり、経営がうまくいく(利潤の創造) -(A)
社員・・・この企業で働きたいと思う(労働意欲の向上) -(B)
顧客・・・この企業とずっと付き合いたいと思う(購買意欲の向上) -(C)

と定義しましょう。

さて、ここで場合分けをして考えます。解答がYESでもNOでもあり得るような気がする場合は、どういう条件のときにそうなるかを調べていくことが大切だと思います。

◆「クレームは宝の山か」・・・YESの場合

(1)
まずCの観点から調べます。これは実際に、今、お客様が怒っているわけですから、これを無視して、怒りが風化するのを待つというのは、その時点でCに反します。ですから、クレームを言っているお客様に「何かしらのアクション」を働きかけ、その怒りを「ずっとこの企業と付き合いたい」と思わせるようにしなくてはなりません。

(2)
次にAの観点です。クレームに対応している時点で、実費であろうが機会費用であろうが、コストが発生しています。「何かしらのアクション」が追加のコストを要求し、それが経営を圧迫するようでは、Aを満たしません。反対に、「何かしらのアクション」が経営を圧迫せず、将来の利益となり得るのであれば、経営者は「何かしらのアクション」を積極的に支援していくでしょう。

(3)
最後に、Bです。普通に考えて、社員は「お前のせいでクレームが起きた」と責められれば、労働意欲は減退するでしょう。しかし、「お前は何も悪くないよ」という姿勢は、次のクレームを生み兼ねません。顧客の怒りを招いたのは事実であり、一人にせよ、チームにせよ、次のクレームを生まない対策は取らなくてはなりません。「何かしらのアクション」も、そういう対策と整合性のあったものであるべきです。


以上のことから、必要条件をまとめます。

顧客からの「クレームが宝」になるためには「何かしらのアクション」が必要で、それは

・顧客の怒りが収まるのを待たず、素早く対応する
・許容されるコストの範囲で対応する
・個人のせいにせず、チーム、あるいは全社的で対応する

を満たす。この条件を(D)とします。

「クレームが宝の山」になるというのは、Dを一度きりではなく、再現できる体制が社内にある場合、可能になり得ます。


◆「クレームは宝の山か」・・・NOの場合

Dを満たさないとき、NOになります。


次回はYESの場合のより具体的な対策、さすがに十分条件までは難しいと思いますが、を考えていきたいと思います。


 
先だって、近しい知人がどこかのスクールで「クレームは宝の山か」という問題を出されたと言っていたので、私もそれについて考えてみたいと思います。お前は暇なのか、というツッコミは甘受します。

まず「クレーム」とは何か、ですが、ここでは、通常の「お客様から企業側へダイレクトに伝わる苦情」と定義します。つまり、「お客様からダイレクトに伝わる好意的な助言」(もっとこうした方がいい等のお言葉)はクレームに含みません。さらに苦情というからには、クレームを言うお客様は、その企業の提供したサービスや商品が原因で「怒っている」ものとします。

というのも、ここでクレームの解釈を「好意的な助言」まで広げると、問題設定である「クレームは宝の山か」の意図に反していると考えるからです。企業側が提供したサービス・商品に、すべてのお客様が満足してくれれば、企業は成長を遂げていくことでしょう。ですから、通常、苦情があるということは、そのような良い状態を実現できていないという意味で、マイナスに評価されるところと言えます。

しかし、そのクレーム(=苦情)をして「宝の山か」と逆説的に問うていることこそ、この問題を問題として成立させています。逆説ゆえに「イエス」「ノー」のどちらでも論を作ることができます。反対に、クレームにお客様からの好意的な助言を含めてしまうと、それは対価ゼロのコンサルティングの意味合いも含み、確実に企業にとってプラスのことですから、問題が逆説を含意しづらくなります。よって、ここでのクレームは「苦情」に限定します。

次に「宝」を定義します。「宝」というからには、その企業にとってとても重要な利益を指します。ですから、「経営者、社員、顧客などといったステークホルダーすべてに利益をもたらす」と定義します。自動的に「宝の山」は「ステークホルダーすべてに利益をもたらす可能性を持つ場合が多い」となります。

つまり、問題を以下のように書き換えます。

ある企業が提供したサービス・商品が原因で、対価を支払ったお客様が怒り、そして直接伝えてきたその<苦情>には、その企業のステークホルダーすべてに利益をもたらす可能性がある場合が多いか

です。さて、ここで思ったのですが、論を構築する前に、「イエス」にせよ「ノー」にせよ、前提条件というものが必要になります。例えば、ここではある企業を想定していますが、第一に、当然ですが、その企業には一定数のクレームが来ています。そしてそれに対応する企業側には実際の費用(クレーム係の人に給与を支払う等)や機会費用(本来他に仕事がある社員がクレーム対応でその仕事に手が回らない等)のコストが発生しています。

また第二に、苦情自体は少ない方が良いとします。つまり企業側はどうあれサービスや商品の品質を高めて、苦情を減らす方向で努力しています。苦情の減少はサービスや商品の品質が高まった証左とするわけです。これは、電話線を切って「苦情を届かなくする」などの努力は行わないことも含意します。

こういうのを考えるのはちょっと楽しそうですね。ですが、さすがに眠らないといけない時間なので、次回以降、いろいろと考えていきたいと思います。

それでは!
 
最近、聖徳太子の非実在説というものが教科書でも取り上げられているようです。古代史にはまだまだわからないところがたくさんあるわけですが、このように


誰もが知っている存在


までが否定されるというのは、さすがにセンセーショナルですよね。私も少し興味を持ちました。


さて、聖徳太子の件にかかわらず、古代史ではよく問題になるのが…


日本書紀の信憑性


です。日本書紀はその編纂の段階で「政治的な意図」が入っています。編纂者である舎人親王は天武天皇の子供です。ということは「天武天皇寄り」になっているのは想像に易いところです。


例えば、天武天皇はまだ大海人皇子の時分に、壬申の乱で大友皇子と天皇位を争った、そして勝って天武天皇になった、と日本書紀は説明しています。


しかし天皇位に「空白」はありません。それが「即位」ではなく「践祚」と呼ばれているもので、天皇位は天皇が崩御されたその瞬間、時間差ゼロのタイミングで、次期天皇に移るのです。


つまり大友皇子は天智天皇が崩御された瞬間、天皇になっていたのです。大海人皇子は天皇に逆らった逆賊であり、武力でもって天皇位に就いたのですが、日本書紀にはそんな風には書いてありません。政治的な意図とはそういうことです。


誰かにとって都合の悪いことはその歴史書の文章が改竄されたり、あえて書かれていなかったりするのです。


さて、そんな日本書紀ですが、その後も政治的な意図で改竄されていることがわかって来ました。なんでわかるかというと「文法」なんですね。昔の日本語に詳しい方がそれを指摘し、今では多くの研究者に支持されています。


聖徳太子の非実在説はここから来ています。


誰かがある目的を持って、日本書紀を改竄した。「誰」に関してはほぼわかっていて、それは藤原不比等です。平城京に都を遷した元明天皇の御代に、その改竄が行われたこともほぼ確定です。


非実在説は、およそ藤原不比等が聖徳太子を「デッチ上げた」という説です。なぜそんなことをしたかというと、聖徳太子の業績がもともと「蘇我氏」のものであるから、というのがその理由になります。蘇我氏の業績を消すために、藤原氏が聖徳太子を必要としたのです。


蘇我氏は大化の改新で滅ぼされるのですが、その滅ぼした側は「中大兄皇子」(=天智天皇)と「中臣鎌足」です。後者である中臣鎌足はその功績から「藤原姓」を賜ります。つまり...


藤原氏が蘇我氏を滅ぼした。


これは歴史的な事実でしょう。藤原氏が蘇我氏の否定の上に政治の実権を握っているとすれば、そんな「蘇我氏すごい!」みたいな文章は消したくなりますよね。そこで厩戸皇子(うまやどのおうじ)という皇族を聖徳太子(これは死後に送られる諡号です)として、蘇我氏の業績を一人でやったことにしたわけです。


「蘇我氏すごい!」→「聖徳太子すごい!」


これで奈良時代の藤原氏は満足した、というわけです。また、もっとアクティブな説によれば、聖徳太子の業績はすべて蘇我馬子個人のものだった、というものもあります。


当時、蘇我氏が大きな権力を持っていたのは事実です。


(1) 聖徳太子(=厩戸皇子)は蘇我氏と協力しながら、自らの才覚で日本をリードした。

これが普通の教科書にあるような説明ですね。


(2) 厩戸皇子は、権勢を誇った蘇我氏の言いなりになって政治を行ったが、藤原不比等によって聖徳太子というスーパースターに改竄された。

これが一般的な聖徳太子非実在説です。


(3) 厩戸皇子は、特に何もしていないのだが、藤原不比等によって蘇我馬子の業績をすべて与えられ、聖徳太子というスーパースターになった。

これはかなり踏み込んだ聖徳太子非実在論です。


最近では十七条憲法も、藤原不比等らによって作られたという指摘もあり、というのも、文法だけではなく、奈良時代に作られた官位の名前が、なぜか聖徳太子の十七条憲法に入っているからです。


とはいえ、これら非実在論説には、超えなくてはならない壁があります。この壁を突破しないことには、なかなか「いなかった」という難しい証明は出来ません。壁というのは、改竄説に共通する

厩戸皇子はマイナーな存在

というところです。この推古時代のとき、いわゆる遣隋使が支那の王朝「隋」に送られます。小野妹子、超有名人ですよね。隋の煬帝はそのお返しに、裴世清を日本に遣わします。この辺は日本書紀にも隋書にも記述があります。信憑性は増しますよね。


この裴世清は誰に会ったかというと、「男」の誰かです。推古天皇は女帝ですから、推古天皇には会っていない。日本の天皇ではないが「有力な誰か」と会っています。


もしこれが厩戸皇子なら、厩戸皇子はマイナーな存在ではありませんから、非実在論は厳しくなります。これが蘇我馬子なら、厩戸皇子はマイナーな存在かもしれません。この辺はまだわかっていないのでしょうが、この裴世清を出迎えた人が冠位十二階の「小徳」に当たる人という記述から

遣隋使
冠位十二階

はまず聖徳太子の時代で間違いありません。そして冠位十二階なり遣隋使は、それまで国政のあり方を大きく変えたものですから、何かしら強力なリーダーシップがあったことも確かでしょう。そうすると、この時点で、先に(2)として紹介した...

一般的な非実在説

はちょっと弱い感じがします。厩戸皇子であれ蘇我馬子であれ、結構に独裁的なスタンスで政治に臨まないと、こういう大きな改革は出来ないのではないかと。特に外交では、隋に対等の立場を要求しています。国際情勢に目を配り「隋に日本を攻める余裕はない」と見越していたとはいえ、そもこと自体すごいことですが、きっといたであろう反対派を黙らせて、小野妹子を隋に遣ったわけです。


厩戸皇子であれ、蘇我馬子であれ、スーパースターはいたのではないか、と私はそう思います。


さて、そして、そのスーパースターですが、どっちなのでしょうか。今度は法隆寺に目を移してみます。日本書紀に拠れば、法隆寺は一度、火災で燃えて建て直しています。それが奈良時代です。非実在説は、法隆寺はこの奈良時代に建てられた、と主張しています。燃えたのは嘘で、元々そんな法隆寺なんてなかった、と。聖徳太子なるものをデッチ上げるために作られたのだと。


さらに、日本書紀に法隆寺が建てられたときの記述はないそうです。そして法隆寺のある場所は、厩戸皇子が住んでいた斑鳩宮(いかるがのみや)の敷地内にあります。デッチ上げるには絶好の場所ですね。


しかし、それは実在説にしても絶好の場所で、厩戸皇子=聖徳太子が自分の敷地内に法隆寺を建てたというのは、とてもわかりやすい説明です。なので問題はいつ法隆寺が建てられたかに拠ります。


非実在説→奈良時代に建立
実在説→飛鳥時代に建立



結果だけを観ると、法隆寺に使用されている木材は飛鳥時代のものでした。今は科学も進歩しそういうのもわかるんですね。


厩戸皇子は当時から実力者であり、巨大な斑鳩宮に住み、その敷地内に法隆寺を建てた。彼が聖徳太子だ。


現状、なんとなくですが、上記より実在説の方が有力であると私は思います。ですが、まだ他にも色んな説があるでしょうし、これからも出てくるでしょう。古代史はまさにミステリーですね。私はどちらかといえば近代史の方が好きなのですが、いろいろ調べてみる作業はとても面白かったです。


長かったですか? 今日はここまでです!!
  
中学受験の勉強をしているとき、あまり入試には出題されないわりに、覚えるのが面倒と言われているのが「面積の単位」です。

1a=100㎡

こんな風に覚えていると、確かに大変ですよね。

1ha=10000㎡

数が大きすぎるんです。それは混乱もします。

1a=0.0001㎢

こんなのはもはや使い勝手としても最悪です。わかりづらい。


そうではなく、まずaやhaがなぜ必要になったかを考えてみましょう


長さにおいて、1mの次の単位は1kmです。それをそのまま平方して面積にすると、

1㎡=1m×1m

1㎢=1km×1km=1000m×1000m=1000000㎡

その差は実に「100万倍!!」です。

そこで新しい単位が希求されたのです。たぶん。たぶん、と書いたのは証拠がないからですが、おそらく正しいと思います。使い勝手の問題です。

そういう観点で、もう1度、a(アール)とha(ヘクタール)を見直してみましょう。

1㎡=1m×1m

1a=10m×10m

1ha=100m×100m

1㎢=1000m×1000m

おわかり頂けたでしょうか。先に書いた100万倍の差が大きすぎたので、なんのことはない、1辺の長さを10倍ずつ大きくして、新しい単位を2つ作っただけです。。

そして覚えるときも、このかけ算の形で覚えるべきです。

せっかくmとkmは長さで既に習っているのですから、それを使って空隙を埋める!

さらには、すべてをm表記で統一して覚える。必要なときだけ、覚えたかけ算を計算すればいいのです。

わかりましたか?


余談ですが、L(㍑)もそうです。

1L=10cm×10cm×10cm

こうやって覚えます。繰り返しますが、計算するのは必要なときだけですね。


以上です。