最近、聖徳太子の非実在説というものが教科書でも取り上げられているようです。古代史にはまだまだわからないところがたくさんあるわけですが、このように
誰もが知っている存在
までが否定されるというのは、さすがにセンセーショナルですよね。私も少し興味を持ちました。
さて、聖徳太子の件にかかわらず、古代史ではよく問題になるのが…
日本書紀の信憑性
です。日本書紀はその編纂の段階で「政治的な意図」が入っています。編纂者である舎人親王は天武天皇の子供です。ということは「天武天皇寄り」になっているのは想像に易いところです。
例えば、天武天皇はまだ大海人皇子の時分に、壬申の乱で大友皇子と天皇位を争った、そして勝って天武天皇になった、と日本書紀は説明しています。
しかし天皇位に「空白」はありません。それが「即位」ではなく「践祚」と呼ばれているもので、天皇位は天皇が崩御されたその瞬間、時間差ゼロのタイミングで、次期天皇に移るのです。
つまり大友皇子は天智天皇が崩御された瞬間、天皇になっていたのです。大海人皇子は天皇に逆らった逆賊であり、武力でもって天皇位に就いたのですが、日本書紀にはそんな風には書いてありません。政治的な意図とはそういうことです。
誰かにとって都合の悪いことはその歴史書の文章が改竄されたり、あえて書かれていなかったりするのです。
さて、そんな日本書紀ですが、その後も政治的な意図で改竄されていることがわかって来ました。なんでわかるかというと「文法」なんですね。昔の日本語に詳しい方がそれを指摘し、今では多くの研究者に支持されています。
聖徳太子の非実在説はここから来ています。
誰かがある目的を持って、日本書紀を改竄した。「誰」に関してはほぼわかっていて、それは藤原不比等です。平城京に都を遷した元明天皇の御代に、その改竄が行われたこともほぼ確定です。
非実在説は、およそ藤原不比等が聖徳太子を「デッチ上げた」という説です。なぜそんなことをしたかというと、聖徳太子の業績がもともと「蘇我氏」のものであるから、というのがその理由になります。蘇我氏の業績を消すために、藤原氏が聖徳太子を必要としたのです。
蘇我氏は大化の改新で滅ぼされるのですが、その滅ぼした側は「中大兄皇子」(=天智天皇)と「中臣鎌足」です。後者である中臣鎌足はその功績から「藤原姓」を賜ります。つまり...
藤原氏が蘇我氏を滅ぼした。
これは歴史的な事実でしょう。藤原氏が蘇我氏の否定の上に政治の実権を握っているとすれば、そんな「蘇我氏すごい!」みたいな文章は消したくなりますよね。そこで厩戸皇子(うまやどのおうじ)という皇族を聖徳太子(これは死後に送られる諡号です)として、蘇我氏の業績を一人でやったことにしたわけです。
「蘇我氏すごい!」→「聖徳太子すごい!」
これで奈良時代の藤原氏は満足した、というわけです。また、もっとアクティブな説によれば、聖徳太子の業績はすべて蘇我馬子個人のものだった、というものもあります。
当時、蘇我氏が大きな権力を持っていたのは事実です。
(1) 聖徳太子(=厩戸皇子)は蘇我氏と協力しながら、自らの才覚で日本をリードした。
これが普通の教科書にあるような説明ですね。
(2) 厩戸皇子は、権勢を誇った蘇我氏の言いなりになって政治を行ったが、藤原不比等によって聖徳太子というスーパースターに改竄された。
これが一般的な聖徳太子非実在説です。
(3) 厩戸皇子は、特に何もしていないのだが、藤原不比等によって蘇我馬子の業績をすべて与えられ、聖徳太子というスーパースターになった。
これはかなり踏み込んだ聖徳太子非実在論です。
最近では十七条憲法も、藤原不比等らによって作られたという指摘もあり、というのも、文法だけではなく、奈良時代に作られた官位の名前が、なぜか聖徳太子の十七条憲法に入っているからです。
とはいえ、これら非実在論説には、超えなくてはならない壁があります。この壁を突破しないことには、なかなか「いなかった」という難しい証明は出来ません。壁というのは、改竄説に共通する
厩戸皇子はマイナーな存在
というところです。この推古時代のとき、いわゆる遣隋使が支那の王朝「隋」に送られます。小野妹子、超有名人ですよね。隋の煬帝はそのお返しに、裴世清を日本に遣わします。この辺は日本書紀にも隋書にも記述があります。信憑性は増しますよね。
この裴世清は誰に会ったかというと、「男」の誰かです。推古天皇は女帝ですから、推古天皇には会っていない。日本の天皇ではないが「有力な誰か」と会っています。
もしこれが厩戸皇子なら、厩戸皇子はマイナーな存在ではありませんから、非実在論は厳しくなります。これが蘇我馬子なら、厩戸皇子はマイナーな存在かもしれません。この辺はまだわかっていないのでしょうが、この裴世清を出迎えた人が冠位十二階の「小徳」に当たる人という記述から
遣隋使
冠位十二階
はまず聖徳太子の時代で間違いありません。そして冠位十二階なり遣隋使は、それまで国政のあり方を大きく変えたものですから、何かしら強力なリーダーシップがあったことも確かでしょう。そうすると、この時点で、先に(2)として紹介した...
一般的な非実在説
はちょっと弱い感じがします。厩戸皇子であれ蘇我馬子であれ、結構に独裁的なスタンスで政治に臨まないと、こういう大きな改革は出来ないのではないかと。特に外交では、隋に対等の立場を要求しています。国際情勢に目を配り「隋に日本を攻める余裕はない」と見越していたとはいえ、そもこと自体すごいことですが、きっといたであろう反対派を黙らせて、小野妹子を隋に遣ったわけです。
厩戸皇子であれ、蘇我馬子であれ、スーパースターはいたのではないか、と私はそう思います。
さて、そして、そのスーパースターですが、どっちなのでしょうか。今度は法隆寺に目を移してみます。日本書紀に拠れば、法隆寺は一度、火災で燃えて建て直しています。それが奈良時代です。非実在説は、法隆寺はこの奈良時代に建てられた、と主張しています。燃えたのは嘘で、元々そんな法隆寺なんてなかった、と。聖徳太子なるものをデッチ上げるために作られたのだと。
さらに、日本書紀に法隆寺が建てられたときの記述はないそうです。そして法隆寺のある場所は、厩戸皇子が住んでいた斑鳩宮(いかるがのみや)の敷地内にあります。デッチ上げるには絶好の場所ですね。
しかし、それは実在説にしても絶好の場所で、厩戸皇子=聖徳太子が自分の敷地内に法隆寺を建てたというのは、とてもわかりやすい説明です。なので問題はいつ法隆寺が建てられたかに拠ります。
非実在説→奈良時代に建立
実在説→飛鳥時代に建立
結果だけを観ると、法隆寺に使用されている木材は飛鳥時代のものでした。今は科学も進歩しそういうのもわかるんですね。
厩戸皇子は当時から実力者であり、巨大な斑鳩宮に住み、その敷地内に法隆寺を建てた。彼が聖徳太子だ。
現状、なんとなくですが、上記より実在説の方が有力であると私は思います。ですが、まだ他にも色んな説があるでしょうし、これからも出てくるでしょう。古代史はまさにミステリーですね。私はどちらかといえば近代史の方が好きなのですが、いろいろ調べてみる作業はとても面白かったです。
長かったですか? 今日はここまでです!!