小林秀雄の――
「Xへの手紙」を読む。
ぼくは小林秀雄の本をいつごろから読んでいたのだろうか。
なんだか遠いむかしのような気がする。小林秀雄が亡くなったのは昭和58年3月1日だった。「八十歳の若死に」と称したのは、恩師中村光夫だった。80歳になっても、彼は老人ではなかったという。何かやりはじめるだろうとおもわれていたらしい。水上勉はいっている。
「汲めども尽きぬ達道の芸」をもち、「先生という人はあの痩身のなかに言葉の井戸をお持ちで、いくら汲んでも水の切れないようなお方だったという思いを強くする。文学の話でも食い物の話でも、みんな達道の芸につながり、すべて小林というつるべから差し出された気がする。その水は私のようなものの頭にも、からっぽにしていると一つ一つ心にしみたのである」と。
とてもいい表現だ。このように小林を褒める人は多い。
だが、彼を徹底して批判したのは花田清輝だった。小林秀雄からフランス語の個人教授を受けていた大岡昇平にしても、思想的には対立した。ランボー、ボードレールから出発して、ヴァレリー、ジッドをへて、最後には本居宣長へとすすみ、その間、音楽芸術ではモーツァルト、絵画芸術ではゴッホというふうに、文芸のフィールドにとどまることはしなかった。一流主義をつらぬき、二流、三流を排斥した。
ぼくは小林が亡くなったときの記憶はほとんどない。いつの間にか過去の人になっていたに過ぎない。
それにしても、彼のドストエフスキー論は衝撃的な論文だった。
ぼくが、シェストフのドストエフスキー論に導かれていたころ、小林の本を読んだ。シェストフの「ドストエフスキーとニーチェ,悲劇の哲学」(1901年)は,ぼくに新しいドストエフスキー像を提供してくれた。そしてさらに、小林のドストエフスキー論を読み、なんという深読みをする評論なのだろうとおもった。彼のドストエフスキー観をずっとささえてきたのは、小林自身が書いた「Xへの手紙」のなかですでに醸成されていたものであることを知った。
しかし、ぼくは、小林秀雄という人物を好きになれなかった。
中原中也の愛人だった女優長谷川泰子を奪った男というイメージがつよいのである。中也はまだ子供だったけれど、当時、小林秀雄はキスのじょうずな若きサムライだった。泰子はたちまち小林のトリコになった。彼はまだ東京大学仏文科の学生だった。
この話は、「中原中也の愛人、長谷川泰子」にくわしく書いた。
小林秀雄は、およそ14年間、明治大学文学部の教授をしていた。そのころのことは、くわしく知らない。何を講じていたのかわからないが、そのころから小林秀雄は、「ドストエフスキイの生活」を雑誌に連載している。ドストエフスキーほど日本人をトリコにした作家はいないかもしれない。けれども、日本人の多くは、ドストエフスキー文学を知らなさすぎた。
小林がドストエフスキーに挑んだのは、そのような理由があったのではないか、とおもえる。彼がテキストにしていたのは、おそらく米川正夫という稀代の翻訳家が訳出したものだったに違いない。ぼくは学生のころ、米川正夫訳で読んだ。おそろしいほどの硬質な文体で、ドストエフスキー文学にはぴったりだった。多くの読者は、米川正夫訳の岩波文庫で読んだとおもわれる。
なんどか改訂版を出しているので、米川正夫訳とはいっても、いろいろある。
日本に多くのドストエフスキーファンを持ったのは、おそらくこの人の功績によるものとおもわれる。わが国の翻訳文化の水準の高さは、世界的にみてもたいへん優れているとおもわれる。
さて、「Xへの手紙」。――そのなかに登場する「きみ」というのは、河上徹太郎氏のことである。彼は先に出てきたシェストフの紹介者でもあったし、音楽家でもあった。「Xへの手紙」は、とても難解な文章である。朋友に向けて思いのたけを縦横無尽にのべた文章で、若き日の小林秀雄の姿がしのばれておもしろい。