また理研のスキャンダルである。オボカタ不正を摘発した理研幹部が、まさにオボカタ流の不正、「画像の移し替へ」をやつてゐたといふのだから笑ふしかないが、2件ともコトの発端がネットを通じての指摘だというところに、顔をしかめたくなつた。
友人の医者に聞くと、オボカタ事件以降、その筋のサイトでは研究者の論文の疑惑を取りざたするのがブームになつてゐるといふ。のぞいてみた。
誰それの論文のこの部分と誰それの論文のこの部分は酷似している。この論文はアメリカの研究者の論文のコピペではないか。誰それの論文に掲載されてゐる写真は以前、有名医療雑誌に掲載された写真と同一だーー。
門外漢には投稿内容の真偽はまるで分からないが、今回の理研の件もさういふ多くの密告の中の1件に過ぎないらしい。オボカタ不正もさうだつた。
科学論文はだれもが目にするわけはないし、不正を発見するにはそれなりの専門知識が必要だから、投稿をしてゐるのは専門家に限られる。つまり、仲間内で「刺しつ刺されつ」してゐるのである。
うつかりミスは「悪意がない」場合もあるが、不正にはかならず背後に、「何かを目的とした」意思、すなはち「悪意」がひそむ。
それが万一「善意」から発した意思にしろ、世の中には「善意」を食ひ物にする「悪意」もある。
不正はもとよりいいことではない。しかし、重箱の隅を突つつく、ではないけれど、他人の研究論文の微細な不正発見に日夜血眼になつて、「悪意を持つて」そのことを指摘、投稿するといふのは、場合によつては最初の「悪意のある不正」よりも、人間として卑しい行為ではないか。
不正は時に法に触れ、犯罪であるかもしれないが、それは名誉欲や金銭欲や野心に裏打ちされてゐる点で、より「人間的な行為」とも言へる。人間として、ある程度は分かる。
一方、卑しさといふのは人格の根本にかかはる問題である。
論文で不正を犯すことよりも、そのことを匿名で横から刺す行為は、全人格が問はれるといふ意味で致命的だ。
不正を犯した人間は社会からも法廷からも罰せられるが、それを「ツーした」人間は知らん顔して生き延びる。不正には足がつくが、密告には足がつかない。
科学者だけが卑しいと言ふつもりはない。他人の芝は濃く見える。それを内緒で引き抜いてやらうと思ふのが人情かもしれない。
だがそのとき、人間の最低限のモラルとして、自己の卑しさを自覚しなければならない。卑しさを自覚しない卑しさほど救ひ難いものはない。
ネットでの密告ブームをみると、科学者のなかには自己の「みつともない姿」が見えてゐない輩が多いやうな気がする。
