行きつけの鮨屋で、たまたまカウンターで隣り合はせたひとり客がやけに騒がしい。
「オヤヂ、やつぱりいいねえ。鮨は美しいねえ」
白い檜材の鮨ゲタにオヤヂがポンと置いた鯛の握りを、上から横から眺めてゐる。早く食べないと乾燥するのにと気になるが、こちらが口出しする話でもない。
「このほんのりとした少女のやうな紅さ、色つぽいねえ。鮨は色がいいよね」
オヤヂは黙つて、別の客からの握りにかかつてゐる。
「オヤヂ、この美しさが和食の良さだよねえ。これだから世界遺産になつたんだらうねえ」
オヤヂがなかなか応じてくれないので、恐れてゐたことだが、ひとり客はぼくに話を振つてきた。
「ねえ、お客さん。和食はスゴイよねえ。世界遺産だつて言ふんだから。それにしても、よく世界の人に和食の美しさが分かつたよねえ」
「まあ、美しさばかりでもないのでせうけど」
とぼくはいい加減に応へる。
「もちろんね、食べて旨いのはもちろんだけどさ」
相手は正面に向き直つた。
ひとり客が言ふのは、ユネスコの無形文化遺産に「和食」が登録されたことを指すのだらうが、ぼくはもともと「食」を「文化」とみることに疑問を持つてゐる。
「食」といふのは、人間に限らず生物が生存するために必要な行為であり、人間の行為の中でもきはめて動物的、原始的な行ひだ。
生存に必要な行為は「欲望」につながる。金銭欲も権力欲も性欲も、生きるため、子孫を残すための欲望である。
もし「欲望」が「文化」ならば、カネ儲けの方策に頭を遣ふことも、性欲を満足させるための技巧も、権力を求めての永田町の暗躍も「文化」になつてしまふ。
第一、鮨は美しいかもしれないが、それを食ふさまは決して美しくない。大口をあけて、握りを口中に放り込んで、むしやむしやと咀嚼する。大草原でライオンがキリンを倒してむしやむしや食ふのとどこが違ふ。口のまはりに血の滴りがないだけぢやないか。
「欲望」の充足は元来、「文化」とは対極にあるものだらう。
「文化」といふのは必ずしも生存のために役に立たなくても、場合によつては生存目的に逆行するかもしれないことでも、または明らかに「無駄」と分かつてゐても敢然と為す行為である。
「欲望」充足のための行為を「文化」といふなら、「有名になりたい」「おカネを儲けたい」「虚栄心を満足させたい」一心で世間を騙しつづけたペテン師「日本のベートーベン」まで「文化」になつてしまふ。
鮨は文化ではない。急いでゐるときに簡便に胃を満たすことのできる日本食の一つに過ぎない。オヤヂが握つてくれたら、早く食ふに限る。
