玄関で待ち構へてゐた若女将が、「これ、つまらないものですけど」と紙袋をぼくに持たせた。「何かな」と中をのぞきこむと、若女将は花模様の黄色い小箱を4つ取り出した。
 
 ラベンダー、オレンジスイート、ローズマリー、レモンと書かれた4箱で、それぞれフランス、イタリア、チュニジア、イタリアが原産の、「100%ナチュラル」のエッセンシャル・オイルとある。要するに芳香剤らしい。
 
 「使ひ方は中に入つてゐますから」
 帰宅するとさつそく書斎に上がつて中を開ける。小箱の中には10㏄づつの小瓶が入つてゐて、そのほかに干菓子の落雁のやうな見かけの、小さな皿状の焼き物が付き、説明書を読むと、その上にエッセンシャル・オイルを数滴垂らすのだといふ。
 
 その数滴がまたややこしくて、「昼用」はローズマリーとレモンが2対1、「夜用」はラベンダーとオレンジが2対1と決まつてゐる。
 
 ワインが好きなくらゐだから嗅覚には自信があつて、初めてのバーに入つて気に入らない匂ひのする店だと引き返したりするほどだけれど、室内でもトイレでも風呂でも、芳香剤といふものを使用した経験がない。
 
 さういふところはできれば「無臭」がいい。さういへば整髪料なども「無香料」のものを選んでゐる。
 
 しかし、次に若女将に会つたときに感想を述べなければならないから、その晩から「夜用」を試してみた。ことさら「夜用」などときくと、なんか妖しい効用を期待する向きもあるかもしれないが、ぼくは純朴に「どんな香りがするのか」を知りたかったのである。念のため。
 
 枕もとの灯りのわきに、皿状の焼き物を置く。「夜用」はラベンダーとオレンジだから、いづれにしても悪い匂ひのわけがない。
 
 横になるとすぐ、枕のまはりに最初オレンジの清涼な、といふより美味しさうな香が降つてきて、つぎにラベンダー畑を行くやうな、鼻孔の奥を軽くなでる刺激臭が、地面から舞ひ立つやうに上がつてきた。
 
 朝、目覚めて時計をみるといつもよりかなり遅い。といふことはそれだけ熟睡したといふことか。かをりを嗅いで寝るといふのは、どうやら体に悪いことではないらしい。
 
 居間に下り、こんどは「昼用」のローズマリーとレモンを調合する。玄米フレークと牛乳、バナナの朝食や、食後の珈琲を邪魔することもなく、ふと外から居間に入つたときに顔の前を流れるレモンの清爽な気は、生活の中のかをりの意味を意識させてくれる。
 
 医師の友人にこの話をした。
 「ああ、そのアロマオイルの話、このごろ患者さんからよく聞く。夜用と昼用の組み合はせも、混合比率もまつたく同じだよ。それ、最近、テレビの健康番組で実験データ付きで紹介されたらしいよ」
 
 「何の実験データ?」
 「認知症予防だつて。本当に効果があるかどうかは知らないけどね」
 若女将はそのことを承知してぼくにプレゼントしてくれたのだらうか。