何年ぶりでせうか、近所にある旧官幣大社の「夏越の祓(なごしのはらへ)」に参拝しました。
途中に三つの鳥居を擁する約2キロの参道には、この日、朝顔や鬼灯やハイビスカスの鉢花などを商ふ花屋がならび、反対側には焼きそばやお好み焼き屋が鉄板の上でじゆうじゆうと音を立てる露店がつらなつて、まるで夏祭り気分です。
白い玉砂利が敷き詰められた境内にはいると、正面に紅い欄干の太鼓橋がみえ、橋の中央に丸い茅(ち)の輪が設置されてゐます。行列ができるほどではありませんが、気をつけないと前の人にぶつかりさうになる程度の混み具合です。
「いい? 左から8の字に、3回まはるのよ」
家人のうしろに随いて、「分かつてるよ。初めてぢやないんだから」と輪をくぐり、左に回り込まうとすると、ぼくの背後の老女が毅然とした声で、
「右です。右から回ります」
と小学校の教師のやうに教示します。
左から回らうとしてゐた家人はこれを聞いて、「あら、右からなんですか」と右回転でやり直します。
「さうだつたかなあ。右からかなあ」
家人は納得してゐません。折よく前から神社の巫女さんがふたり来ました。
「あのう、輪くぐりは右から回るのですか」
巫女さんは即答しました。
「いや、左回りです」
「さうですよねえ。やつぱりさうだ。ありがたうございました」
家人は晴れ晴れとした顔になつて、うしろを振り返り、 「ねえ、どの人だつたかしら。あの人かしら」とぼくに確認します。言ひ方は際立つてきつかつたけれど、ぼくは老女の顔に覚えはありません。
「いいぢやないか、右だつて左だつて」
「でも、あの人、間違へたままぢやあ困るでせう」
「知らなくても誰も困らないさ。輪くぐりの正しい作法なんて」
そのとき、ぼくは全く別のことに頭を奪はれてゐました。
輪を回るとき、階段の手すりに手をやるやうに、思はず左手が輪を作つてゐる茅(ちがや)の束に触れたのです。
それは既に枯れてはゐますが、密に束ねられた断面には切断した刃先の跡がけざやかで、掌が触れると、それは痛いほど不当に荒々しく、凶暴で、この冬まで放恣に伸び盛つてゐた野草そのままの感触です。
かういふ粗野なものに、ぢかに手を触れることはふだんの生活ではほとんどありません。物も人も、みんな角を削られ、ヤスリをかけられ、丸められ、うはべにニスを塗られたやうな姿が多い。神社で神の本質に触れたやうな気がしました。
