ある種の音(おん)は、ぼくを悲しくさせます。
 その音を聴くと、飛んでゐた蝶々がふと花弁にとまるやうに、悲しみの感情がふいにぼくの頭にとりついて、その場の状況や理性的な抑制もものかは、涙の流出を要求します。
 
 コンサートやカラオケにも不用意には行けません。いつその音が登場して、涙腺が麻痺し、熱いものがこみ上げて来て、やがて頬を伝ひ落ちるか分からないからです。
 
 「歳をとつて涙もろくなつたのね」
 外から見たら、それでおしまひです。
 
 それはどうみても異常な光景だし、問はれても論理的に説明がつかないし、さういふとき、人は歳とか病気で片づけるのですが、ぼくのこの「ある種の音に対する反応」は二十代の頃からで、それも決まつて「ある種の音」が流れたときだけなのです。
 
 それはどんな音かーー説明するのは、じつは簡単です。
 ヴァイオリンのやうな弦楽器でもテナーサックスのやうな管楽器でもいいのです。裏山が地滑りを起こしたやうな、といひませうか、路地裏のバーの錆びついたドアが鳴らすやうな、といひませうか、アンティーク家具のもつ重厚と暗欝を音であらはしたやうなといひませうかーー。
 
 少し恥づかしいのですけれど、分かり易く例を引きませう。
 演歌でいへば、四十年くらゐ前に流行した森進一の「命かれても」の前奏です。
 歌そのものではありません。カラオケの順番がきて、画面と曲が流れ出し、さてマイクを持つて立ち上がらうかーーといふその数十秒間に演奏されるイントロです。
 
 クラシックでいへば、ブラームスの第3番。その第3楽章の出だしのアダージョです。楽章のはじまりですから、場内は咳払ひもない静謐。そこへ交響楽団の荘重な調べが流れだします。
 
 展覧会で泣いたことはありません。色彩とか造形をみて胸が締めつけられた経験はありません。正直にいへば、文章を読んで涙を流したこともありませんし、演劇を観て泣けたこともない。音に弱いのです。しかも「ある種」の傾向の音だけに。
 
 コンサート会場で涙を流してゐる人はたまに見ますが、それぞれ思ひ出や人生経験がその曲に付随してゐるのでせう。
 
 ぼくの場合、事情はもう少し単純で、その音によつて過去や人間が蘇るわけではなく、純粋にその音(正確には音の羅列)が神経のある部分を刺激し、頭がしびれてきて、無条件に悲しくなつてしまひ、それが病的な涙を呼ぶのです。
 
 親しい人の葬儀に列席して、みんなが泣いてゐるのに涙が出なかつたら、「命かれても」のイントロを思ひ出すことにしてゐます。イントロに続いて歌ひ出してしまつたら、「あいつもボケたな」と言はれるのがオチですから注意しますけれど。