行き付けのブラスリーで、夕方、ひとりでワインを飲んでゐると、店に集団客が入つてきて、奥のコーナーに陣取つた。
もともと結婚式場に併設されてゐる店なので、結婚披露宴の流れの酔つ払ひ客が押しかけるのは仕方ない。静かだつた店内が彼ら十五人ほどの喧騒にひつかき回されるのは目に見えてゐたけれど、ぼくもまだ赤ワインを一杯飲んだだけだから、すぐ立ち上がるわけにはいかない。
「なあ、トシオ。新郎挨拶は良かつたぞ。トシオも立派なことが言へるやうになつたな。涙が出た」
顎ひげを伸ばした老人が大声で話しはじめた。
「ほんと、感謝の心は大事だな。あの挨拶通りだ。なあ、トシオ。あんな立派な挨拶をしたのだから、トシオもけふから、両親や親戚やまはりの人間に対する感謝の心を忘れちやあいかんぞ。人間、感謝の心が基本だからな」
親戚の中の長老なのだらうか、顎ひげの退屈なお説教にみんな聴き入つてゐる。となりにゐた七十女が、機をみて口をひらいた。
「よく言ひますよ。あなたの口から『感謝の心が基本だ』なんて言葉が出るとは思ひませんでしたね。結婚以来、妻に感謝一つしたことのない人が」
老人の妻らしい。彼女は笑ひを取らうとして言つたのだらうが、この一言で座のざわつきが急に静まつた。
披露宴で交はされた祝辞の美辞麗句に慣らされた人たちの耳に、老人の妻の思ひがけないホンネは、「聴いてはいけない一言」のやうに響いたにちがひない。自由奔放な生き方をしてきた老人なのかもしれない。
「いや、コレには感謝してゐますよ」
顎ひげは七十女を顎でしやくり、
「でも、日本男子たるもの、感謝してるよなんて女房に言へるはずないぢやないですか。分かつてもらへないんですよねえ」
相変はらず一同がしらけてゐるのをみて、老人は窮余の一策にでた。
「いかに私が女房に感謝してきたか。それは私たちの家を見れば分かるのです。私たちはずつと官舎住まひだつたのですから」
おそらく何度も遣はれたこの駄洒落に、親戚筋の人間たちは救はれたやうに手を叩いて笑つた。それまで抑圧されてゐただけに、笑ひは翔りあがり、竜巻のやうに渦を巻いた。
その後は型どほりの二次会で、新郎新婦を囲んで年配の男女が三つほどのグループに分かれ、席を移動し合つては深々とお辞儀をしたり、ビールを注ぎ合ふ。軽口と爆笑が絶え間なく興つた。
だれかが「新幹線の時間があるので」と立ち上がり、それを潮に座が崩れて、顎ひげはみんなを引き留めたが、数分のうちに全員が店を去つた。
ーー嵐のあとの静寂が訪れた。
ぼくはこの時間が好きだ。この店でよく飲むのも、うるさい団体客が去つたあとの、白い宝石のやうな無音に惹かれるからだ。よしなしごとを考へるのも、何かの構想を練るのも、この時間がいちばん充実する。
