アメリカの大統領選挙では、政治経歴も政策もない大金持ちのトランプ氏が、共和党の大統領候補になりさうな勢ひですが、トランプ人気が意外に長もちするのは、あのやうな突飛な言動がアメリカ人気質にことのほか新鮮な感動を与へてゐるからでせう。
 
 アメリカ人の就職口をうばふ移民はもう受け入れない、イスラム教徒は締め出す、メキシコとの国境に「万里の長城」を築くーーといふやうな発言は、いくら「何でもありの自由の国」とはいへ、アメリカ国民の大半を占める良識人への挑戦状です。
 
 トランプ氏はことしの6月14日に70歳になります。(民主党のクリントン前国務長官も現在68歳。サンダース上院議員は75歳!アメリカも日本に劣らず高齢化社会なのです)
 
 70翁のあの「トンがり方」は、もちろん選挙向けの意識的な演出でせうが、そのファッションもふくめて、日本人の同じ年齢層にくらべたらかなり若々しいし、痛快だし、刺激的であり魅惑的です。
 
 既成の秩序や常識に挑戦しようといふ人間が大向ふをうならせるのは、古今東西、変はりません。いはば今のアメリカ社会のヒットラーであり鼠小僧次郎吉なのですね。
 
 トランプ氏は、このところ快感にしびれる毎日にちがひありません。何ものかに刃向ふといふのは、こちら側の情念と、あちら側の抵抗が人を酔はせます。目のまへの壁と衝突することそのものが快感なのです。
 
 ぼくがリタイア後さびしいのは、周囲に戦ふ相手がゐなくなつたことです。現役のころは、先輩のぼくの言つたことに一人の若い記者が反論し、彼の同志が徐々に加勢して、1対3、1対5といふ具合に敵が膨らんでくると、心中、なんともいへず嬉しくなりました。
 
 さうやつて相手が真剣勝負を挑んでくれること自体が楽しく、同時にそのとき、相手の目にこちらが確固とした存在として映つてゐるのが喜びでした。
 
 もともとトンがつて生きるのが好きです。こんな歌詞の演歌があつたやうに記憶してゐます。
 「まるくはなるな。尖つて生きろ」
 そんな叫びが、昔から心の奥に響いてゐます。
 
 これも古くて恐縮ですが、チェッカーズの「ギザギザハートの子守唄」をよく歌ひました。
 ♪ちつちやなころから悪ガキで
 ♪15で不良と呼ばれたよ
 ♪ナイフみたいに尖つては
 ♪当たる物みな傷つけた
 
 いまはトンがる相手がゐません。飲み屋で客仲間に論争を仕掛けても、男も女も適当に相槌をうつだけで、「いい年をして、よくそんな青臭いことを言つてられるわね」といふ顔をされます。そろそろ、すべてを受け入れる「好々爺」になつたら、といふことでせう。
 
 どこにも喧嘩相手がゐないので、たまに家人にそれを求めると、そこは40年以上も一緒にゐるだけに相手の方が一枚上手で、こちらの振り上げたこぶしを、あれやこれやと真空のビニール袋のやうなものの中へ導いて終はりです。
 
 アメリカの不動産王の振り上げたこぶしも、ぼくの予想では、アメリカ大衆に同じやうな扱ひを受けて終はる気がします。トランプのテーブルにジョーカーが投げ出される場面は見られないのではないでせうか。
 公園を散歩してゐると、短い坂の上を横切つてゐる舗装道路のさきに、ボート遊びに丁度いいくらゐの池があつた。池を迂回するのも面倒だから、服のまま、革靴のまま、まつすぐ水のなかに入つて行く。
 
 古い池のやうだが、底はあんがいしつかりしてゐて、沼土に足が沈んで歩きにくいといふことはない。
 しばらく進むと、池の端まで来たので水から出て、周囲の細い道を辿りはじめた。池のほとりに、白い美術館があつた。
 
 ずぶぬれで、濡れた靴のまま館内に入るのはためらはれ、受付で風呂に入りたいと言ふと、女性事務員が風呂場へ案内してくれた。
 風呂を出て、美術館を見物することもなく、ふだんと同じやうに自宅への道をあるいた。
 
 眼下に見えるのはおそらく神戸の街とおもはれる、住宅地のあいだの道を車で走つてゐるのだが、さつきから何度も同じ道を行つたり来たりしてゐる。街へ下りて行きたいのに、どの道を行けば下りていけるのか分からない。
 
 昔の女友だちが社長になつたと知らせて来たので、どんな会社かそつとのぞいてみようと出かけた。教へられた住所には小さな事務所が建つてゐて、中をのぞくと、いちばん奥の机で、女が両足を机上に投げ出して、いかにも女社長といふ風情である。
 
 濃い霧がながれる暗欝な森を進んで行くと、最初に太つた牛がぬつと姿をみせた。次に、急に視野が開けて赤や黄の花畑がひらけた。道はふたたび森の中に吸ひ込まれ、前方に、童話に出てくる魔法使ひのやうな老婆が、杖を突いてこちらを向いて立つてゐる。
 
 蚕みたいに太つた、真つ白い毛虫が一匹ゐた。
 ぼくは中華料理の巨大な包丁のやうなもので、毛虫の胴体を真つ二つに切つた。
 
 毛虫の頭部と下半身がそれぞれ身を起こし、何ごともなかつたやうに話し合つてゐる。
 「なんか、切られたやうね」
 「さうみたいね。死ぬのかしら」
 
 馴染みの人形町の店で飲んでゐると、突如、隣りの二階建ての天ぷら屋が上空に舞ひあがつた。噴火らしく、そこに巨大な火口の穴があいた。
 
 記事にしなければと瞬間、思ふ。
 「3月1日午後10時ごろ、東京都中央区日本橋人形町2丁目の通称甘酒横丁で、突然火山が噴火した。周辺に溶岩が流れ出し、近くの飲食街にゐた客など数千人が溶岩流に巻き込まれ、隅田川方向に流されて行つた」
 なんて書き出しでは、あまりにリアリティーがない。
 
 ーーとりとめもない妄想が、前頭部から後頭部をめぐる。まるで眠つてゐるときの夢のやうに。
 気がつくと、目の前には赤ワインの、ほとんど空になつた大ぶりのグラスがひとつある。何杯目だらう。
 
 いつのまにか、ぼんやりしてゐたらしい。ぼんやりした頭の中で、何かが動いてゐる。
 この混沌こそ、発芽の予兆であり、充電であり、宝だ。本当は、かうして言葉にして説明する前の、茫漠とした想念が貴重なのかもしれない。
 
 でも、外から見ると、ただ老人がボケッとしてゐただけ、だらう。
 予約して行つた初めてのレストランで、をかしな物を見ました。
 
 白のテーブルクロスの上に二人分のナイフ・フォークがセットされてゐて、その真ん中に白いキャンドルが立つてゐます。その炎が妙に小刻みに揺れ動くのです。
 
 店内には風がありませんから、本来なら炎はまつ直ぐに上がるはずなのに、常時神経質に、まるで人間の瞬きのやうにといふか、走りまはる鼠のやうにといふか、絶えず前後左右に微動をつづけます。
 
 目を近づけてよく見ると、それは蝋燭の火ではなく、電池で電球に投影された人工の炎の映像でした。
 そんなものが目の前にあつては落ち着いてワインも飲めませんから、下げてもらふやうにお願ひしました。
 
 ボーイはキャンドルを逆さまにして底部にあるスイッチをひねつて炎を停止させると、「かういふのはお嫌ひですか」とふしぎさうな顔でぼくを見ます。
 
 「本物の蝋燭ならいいけどねえ。要らないと言つた客は初めてですか」
 「初めてです。これ、安全で便利で、結構いいんですよ」
 
 さう言ふのを聞いて、もうディナーへの期待は消しとびました。
 肉でも魚でも野菜でも、この店では「安全で便利」なら何が出てくるか分からない気がしたのです。
 
 そろそろ桜の季節になりますが、花見の宴でも、バーベキューや焼き鳥など火を使ふのを禁止する公園が多くなつてきました。さういへば家庭の台所からもだんだん火が消えつつあり、老夫婦の家などではガスコンロを電気に切り替へるところが多いと聞きます。
 
 庭で焚き火をするのも禁止されてもう何年でせうか。要するに、「安全で便利」に反するからでせう。
 
 文化人類学では、人間は火を管理できる唯一の動物であり、火を熾し、火を消す能力が人間と他の動物とを区分したと教はつた記憶が有りますが、人は唯一の「人間らしさ」を自ら放棄しようとしてゐるのかもしれません。
 
 年が明けてからまだ一度も両親の墓参りに行つてゐないことに気づき、先日、寒風のかまびすしい日に手を合はせて来ました。
 
 凍るやうな水道水を墓石にかけて、石や花入れなどを掃除したあと、固く束ねられた線香に火をつけます。
 まづ線香に付属してゐる着火用の短冊みたいな紙片にマッチで火をつけ、炎が上がつたところに線香をかざすのですが、紙片の火は風におふられてすぐ消えてしまひます。
 
 やうやう線香の束の頭に赤く火がともり、ほつとして線香置きに差し入れたとたん、足元から勢ひよく炎があがりました。消え残つてゐた短冊の火が、周囲の枯芝に燃え移つたのです。
 
 バケツの水がすこし残つてゐたので大事には至らずに済みましたが、墓の前に黒い焼け跡ができました。
 そのうち墓参り用の線香も、「単Ⅳ電池1本で1時間だけ赤く灯ります」なんて新商品が登場するかなと思ひました。「安全で便利」ですから。