予約して行つた初めてのレストランで、をかしな物を見ました。
白のテーブルクロスの上に二人分のナイフ・フォークがセットされてゐて、その真ん中に白いキャンドルが立つてゐます。その炎が妙に小刻みに揺れ動くのです。
店内には風がありませんから、本来なら炎はまつ直ぐに上がるはずなのに、常時神経質に、まるで人間の瞬きのやうにといふか、走りまはる鼠のやうにといふか、絶えず前後左右に微動をつづけます。
目を近づけてよく見ると、それは蝋燭の火ではなく、電池で電球に投影された人工の炎の映像でした。
そんなものが目の前にあつては落ち着いてワインも飲めませんから、下げてもらふやうにお願ひしました。
ボーイはキャンドルを逆さまにして底部にあるスイッチをひねつて炎を停止させると、「かういふのはお嫌ひですか」とふしぎさうな顔でぼくを見ます。
「本物の蝋燭ならいいけどねえ。要らないと言つた客は初めてですか」
「初めてです。これ、安全で便利で、結構いいんですよ」
さう言ふのを聞いて、もうディナーへの期待は消しとびました。
肉でも魚でも野菜でも、この店では「安全で便利」なら何が出てくるか分からない気がしたのです。
そろそろ桜の季節になりますが、花見の宴でも、バーベキューや焼き鳥など火を使ふのを禁止する公園が多くなつてきました。さういへば家庭の台所からもだんだん火が消えつつあり、老夫婦の家などではガスコンロを電気に切り替へるところが多いと聞きます。
庭で焚き火をするのも禁止されてもう何年でせうか。要するに、「安全で便利」に反するからでせう。
文化人類学では、人間は火を管理できる唯一の動物であり、火を熾し、火を消す能力が人間と他の動物とを区分したと教はつた記憶が有りますが、人は唯一の「人間らしさ」を自ら放棄しようとしてゐるのかもしれません。
年が明けてからまだ一度も両親の墓参りに行つてゐないことに気づき、先日、寒風のかまびすしい日に手を合はせて来ました。
凍るやうな水道水を墓石にかけて、石や花入れなどを掃除したあと、固く束ねられた線香に火をつけます。
まづ線香に付属してゐる着火用の短冊みたいな紙片にマッチで火をつけ、炎が上がつたところに線香をかざすのですが、紙片の火は風におふられてすぐ消えてしまひます。
やうやう線香の束の頭に赤く火がともり、ほつとして線香置きに差し入れたとたん、足元から勢ひよく炎があがりました。消え残つてゐた短冊の火が、周囲の枯芝に燃え移つたのです。
バケツの水がすこし残つてゐたので大事には至らずに済みましたが、墓の前に黒い焼け跡ができました。
そのうち墓参り用の線香も、「単Ⅳ電池1本で1時間だけ赤く灯ります」なんて新商品が登場するかなと思ひました。「安全で便利」ですから。
