「まあ、今すぐどうかうといふ数字ではありませんが――」
年に1回の健康診断は、胸のレントゲン、心電図、血液と尿採取、便の潜血検査などがメーンで、その結果の一覧表をながめながら、まだ40代の白衣が仕事柄身についたものか、渋い顔をする。
血圧でも、この白衣が測るとわが家で計測するより上も下も平均10は高く出るほど、ぼくは白衣恐怖症だから、総合検査の結果診断となると、よけいに青年医師がおそろしく見える。
血液検査の項目で、「空腹時血糖」と「尿酸」のところに★印が付いている。空腹時血糖は基準値が「100未満」なのに対し「105」、尿酸は基準値が「2.7~7.0」なのに対し「7.1」とある。
「糖尿、腎機能が心配ですが、まあしばらく様子を見ませう。来年、どうなつてゐるかですね。食事の内容などに少し気を配つてみてください」
言ひながら、白衣はこちらの顔を見ない。その目は依然として、一覧表の数字の上をあちこちさまよつてゐる。
どうやら彼は勘違ひしてゐる。患者は目の前に腰掛けてゐるのであつて、健康診断の数字の中にゐるわけではないのだが、彼はこちらの顔色をうかがふこともしなければ、「糖尿、腎機能」などといふ穏やかならぬ言葉を聞いて、はしなくも歪んだ患者の表情を見向きもしない。
ぼくは毎日、アルコール量にして100グラムほどのワインや酒を飲む。それでも「γ―GTP(基準値51未満)」は「19」。所詮、健康診断の数値といふのはその程度のものなのだらう。
ぼくのデータ不信は、新聞記者の仕事を通じて養はれた。
全国世論調査といふ、現代のマスコミが金科玉条のごとく崇める数字のからくり。政治家たちの選挙での得票数と本当の能力識見。官僚がなにかといふとすぐに持ち出す「国民の声」の数字。極めつけは、週刊誌の編集長のころ苦しめられた「3日目調査」である。
月曜日に発行される週刊誌は、水曜日の夕方、3日間の売れ行きをまとめたものが社内に出回る。「70%」を越せば、編集部は「完売間違ひなし」と狂喜し、「30%台」だと編集長は首を洗つて上司のお呼びを待たなければならない。
ある夜、週刊誌を駅や書店に卸す取次店の若者と飲んだ。3日目調査の話をすると笑ひ出した。
「あんなもの、それほど気にするんですか。あの数字は実はかなりいい加減なんです。ぼくたちが水曜日の午後、駅のキヨスクを2,3軒回つて、おう今週は減つてゐるなと思へば65%、残つてるなと思へば35%なんて適当に報告するんです。あれはあくまで一応の目安ですよ」
冗談ぢやない。取次ぎの若者が適当に報告した数字が、数十件、まことしやかに一覧表にまとめられて印刷され、社内を回覧され始めると、それはその週刊誌一冊の価値、ひいてはそれを編集した編集部、編集長の「絶対評価」となる。
「この内容なら完売だ」と自信を持つて送り出した週が40%に達しなかつたり、今週はどこの週刊誌も扱ふ共通ネタだから駄目だらうと思つた週が70%だつたりするのは、3日目調査それ自体がいい加減だつたからなのだ。
民主主義が金科玉条とするのもまた数字である。「80%が現政権に反対」などといふ数字が流れると、どちらでもよかつた多くの浮動層は「そちらが世の流れか」と反対にまはり、大洪水のやうに一夜にして黒白を決する例を、「アラブの春」はいふまでもなく、近年、私たちは東京でも大阪でも、こんどの民進党の代表選挙でも目の当りにしてきた。
ぼくが常に民主主義の危ふさを思ふのも、その数字至上主義ゆゑである。数字だけでは足りないものがある。数字といふのはあくまでも「一応の目安」にすぎないことを忘れてはならない。
