パソコンをひらき、いつものやうに「メール」をクリックしたが、反応がない。初めてのことである。
 
 慌てて、他のネットを開かうとすると、やはり応答がない。2007年に購入して、10年目に突入したわがノートパソコンも、つひにあへなくご臨終か、といふのが最初の思ひだつた。
 
 呼び出したサイトが画面にあらはれるまで、ゆつくりトイレに行つて来られるくらゐの時間がかかる超老朽パソコンだから、いつこんなことが起きてもふしぎはなかつた。Windows Vistaのセキュリティー期限が来年春までといふこともあるし、いよいよ買ひ替へどきか。
 
 しかし、新機がセットされるまで友人との連絡や情報収集に支障がおきるのは困る。パソコン入力の仕事をしてゐる娘に診てもらふと、保存文書を表示したりワードで文章を書いたりはできるから、インターネットとの繋がりだけが絶たれたやうだ、といふ。
 
 さういへば、けさからトップ画面の右下から注意喚起のやうな、をかしな色文字の吹き出しが上がつてきて、「ワイヤレス・スイッチが停止されてゐます。オンにしてください」と警告し、すぐ消える。
 
 ワイヤレス・スイッチ? そんなもの、どこにあるのか。触つたことがない。
 
 娘はパソコンを一階の居間に運び、ルーターとパソコンとを直結した。ネットが可能になつた。
 
「無線LANの具合がをかしいやうね。でも、とにかくこのパソコン、もう寿命なんぢやないの」
 
娘にあつけらかんと寿命と言はれるのは、古希の親としてはいい気持ちはしない。とりあへずメールやネットが復活、当面不都合はなくなつたが、ネットにつなぐたびにパソコンを二階の書斎から下ろすのは面倒だし、家人のゐる前で打てる文章ばかりではない。
 
あくる日、大型家電店へパソコンを下見に行く。あまり押しの強くない小太りの店員は、「十年近くお使ひですか。パソコンも無線LANも機械ですから寿命はあります」と娘と同じことを言ふ。「まづ先に、無線LANの工事を頼まれたほうが――」
 
医者の友人にこの話をすると、無線LANの具合がよくないのなら、ルーターとパソコンの中間に中継器を置くといいかも、1万円くらゐだよ、と教へてくれた。
 
ともかく無線LANを点検する必要がありさうだ。パソコン購入時、家電店の強引な勧誘で「フレッツ光」に工事を任せてゐたので、その電話番号をさがす。
 
工事の人が来ればきつと見せてと言はれるだらうから、埃をかぶつた書類箱からパソコン本体の取扱説明書を引き出し、埃を拭いた。
 
「何? それ」と、絨毯に掃除機をかけてゐた家人が、舞ひ上がる埃を嫌がりながらのぞきこむ。
 
「取扱説明書。読んだつて分からないよ。文章が下手だから、何を言つてるのか意味不明」
 
「……あなた、きのう『ワイヤレス・スイッチ』とか言つてなかつた?」
 
「うん、画面に『ワイヤレス・スイッチが停止されてゐます』つて警告が出るけど、そもそもどうやればそのスイッチを呼び出せるのかが分からない」
 
「ここに、ワイヤレス・スイッチつて書いてあるけど」
 
家人が取説の最初のページをめくつて差し出す。「各部の名称」といふパソコン本体の図解があつて、ノートパソコンのキーボードの手前の、電源接続などを知らせる灯が四つ横にならぶバーの下の奥、人の顔でいへば顎鬚が生えるやうな最下部に、イヤホンなどを差し込む小さな穴とならんで、2センチほどの横長の黒いスイッチがある。
 
パソコンを持つてきて、図解を片手に、初めてその部位に指をやる。左に寄つてゐたスイッチが右に動いた。なんとも軽いタッチで。――ネットにつながつた。
 
「こんなところに、大事なスイッチが隠れてるなんてなあ」
 
わが顎を撫でるやうに、もう一度黒いスイッチを触る。
「ちやんと取説を読まないからよ。ワイヤレスぢやなくて、ケアレス」
 
家人はふたたび騒々しく掃除機のスイッチを入れた。