梅雨があけて数日たつたばかりで、午前中から30度を超してゐた。
地下鉄・国会議事堂前の西側の階段をあがり、衆参両院の3棟の議員会館と議事堂との間の大通りを、白のコットンスーツの上着を肩にかけて、のんびりと歩いた。
議員会館の乳白色の壁一面に、ぎらつく朝陽が反射してゐた。7月下旬ともなると、ふだん政争のやまない永田町にも、さすがに夏休み気分がただよつてゐる。
とにかく暑い。右に議事堂の北側通用門をみて、参院議員会館の先を道なりに左に折れると、右手に九階建ての自民党本部ビルが見えてくる――。
また、あの日がやつてきた。忘れることのできない恐怖の朝。1976年(昭和51年)7月27日。あの日から、ことしはちやうど40年目に当たるといふ。
永田町小学校につづく歩道を進むと、自民党本部の正門前に、大型バスのやうなテレビ中継車が3台もならんでゐた。国会ではよく見かけるが、党本部に中継車が来ることはあまりない。
正門に立つ守衛さんは毎日挨拶する仲だから、肩にかけた上着の国会記者バッヂを見せろとも言はない。
「中継車が来てるけど、何かあつたの」
守衛は逆に、ぼくの顔をふしぎさうに眺めた。
「……田中先生のアレでせう」
「田中先生つて、角さん? 角さんがどうかしたの」
あわてて党本部3階の記者倶楽部に駆け込んだ。ぼくの顔を見るなり、キャップが怒鳴つた。
「オイ、幹事長の会見は夕刊に入れたか。さつきデスクから催促が来たぞ」
幹事長の中曽根はすでに緊急記者会見ををへてゐた。ぼくは当時、なりたての政治記者で、自民党担当の平河倶楽部で幹事長番を受けもつてゐた。
幹事長室にとびこむ。中曽根は記者会見が終はると、首相の三木と打ち合はせのため首相官邸に急行し留守だつた。親しい時事通信の記者に懇願し、中曽根会見の中身を教へてもらつて、電話で夕刊に叩き込んだ。早版には間に合はなかつた。
「田中が地検に呼ばれたと、朝から騒いでゐたぢやないか。テレビも見なかつたのか」
夕刊の仕事が一段落したところで、あらためてキャップから説教された。
毎朝7時、ベッドの脇のラヂオでNHKニュースを聴くのは習慣になつてゐる。リタイア後はそれから二度寝する。
40年前のその日、おそらく世間の夏休みムードにつられて、いつもの緊張感や仕事への思ひが、まるで一瞬の脈の結滞のやうに、頭から白く抜け落ちてゐたに違ひない。ゆつくり起きだして、何も考へずにゆつくり支度して、暑さだけを嫌悪しながらゆつくり出勤した。
新聞記者生活41年間で、「ロッキード事件・田中角栄逮捕」の7月27日くらゐ怖ろしい記憶は他にない。
――キャップにじつくりと叱られたあと、気分を鎮めに、ひとりで平河町交差点に面した古いビルの地下にある「平河房」といふ喫茶店に入る。
「あら、こんな時間にめづらしいわね。しかもお一人?」
プロゴルファー志願の日焼け顔のママは、他人の顔色をみるのに長けてゐて、ぼくの表情がいつになく強ばつてゐるのを見逃さなかつた。夕暮れどきに時事通信の記者とよく行く店だつた。
ふと足元を見ると、ビルの地階だといふのに、微小な黒いアリが床を這つてきて、ぼくの皮靴に上らうとしてゐる。指で排除しようとしてやめた。
アリには落ち込むといふことがないのかもしれない、となぜかひどく羨ましくなつた。
