まもなく梅雨が明けると、この夏は選挙にリオデジャネイロ五輪と、またまた暑い夏になりさうで、ぼくはつねづね周囲に「暑さに人一倍弱く
て、背中に汗が一筋ながれ落ちると理性をうしなふ体質」などと物騒なことを公言してゐるせゐか、この「暑さに弱い」が「汗に弱い」に「暑
さ」の五段活用みたいに変換し、さらに、どうやら「汗」と「雨」が水つながりで曲がつて受け取られたらしく、行きつけのワインレストランや
親しい友人たちには、「雨が苦手な人には気の毒な季節が来るねえ」などと同情され、舛添サンぢやないけど、いちいち説明するのは厄介だから
そのままにしてゐるものの、本当を言へば、雨はもともと嫌ひではなくて、幼いころ、ややまとまつた雨がふると、にはかに庭に出現した水たま
りに、玄関わきに生える笹から採取してきた細長い葉をまるめて、唐時代の墨絵に描かれた簡素な釣り舟のやうな形の笹舟を作つて浮かべ、する
と瞬間、視点が移動して、五、六歳の自分がその舟の上に寝転がり、松やヒバ、モチ、モッコク、ザクロなどの取りかこむ庭を舟端からながめる
気分になつて、でもそのままぢつとしてゐたら、笹の小舟はやがて池をはみ出し、清い細流れの掘割をぬけ、いつか大海に飛び出してしまふので
はないかしらといふ、子供らしい冒険のよろこびと恐怖に囚はれ、ややあつて、いやいや自分は座敷の縁側に腰かけて庭の水たまりを見つめてゐ
るだけといふ現実に返つてほつとし、こんどは小やみになつた雨がぽつりぽつりと庭の池に穿つまんまるの造形に見とれたりしたのだけれど、圧
巻はあくる朝で、十分雨水を吸収して黒褐色に変はつた庭土の真ん中に、台風で座礁した船のやうに、小さな緑いろの笹舟が斜めに傾きながら
取り残されてゐるのが、なんとも滑稽、なんとも物悲しい風情で、その当時、給食は拒否して家から弁当を持参するし、掃除当番は楽な校庭掃除
以外はさぼるしで、小学校でも中学校でもクラスで一人ぽつちを余儀なくされてゐた自身をそこに見たのかもしれないのですが、いま、こんな昔
の思ひ出にふけつて物を書いてゐると、耳にひびいてくるのは築二十五年の二階の詰まつた樋からあふれ出て、玄関先に円く張り出した差しかけ
に落ちる、意外に大きく、律儀で、リズミカルな雨滴の音で、こんなときにはふだんあまり聴かないショパンの、メリハリが薄弱で地味なピアノ
曲「雨だれ」(前奏曲第15番)でも聴いてみようかと思つたりするのです。
