高校のときの国語教師は、頬のこけた、イワシの煮干しのやうな風貌で、およそ笑顔を見せることのない老人だつた。
大学で国文学者・折口信夫(釈迢空)の薫陶を受けたことを唯一の誇りにしてゐて、授業中、意味の分からないことばに出会つて辞書をひらかうとする生徒がゐると、
「すぐ辞書に頼るのはやめなさい」
と制した。
「分からないことばがあつたら、まづ、そのことばの字面(じづら)をじつと眺めなさい。そして、その文字の形は他のどんなことばに似てゐるか、その文字の発音は他のどんなことばの音に似てゐるかを考へなさい」
そのうちに、分からなかつたことばの意味がおぼろげに推察できるやうになることがある。
すぐ辞書に頼つてしまつたら、その一語の意味が分かるだけで終はつてしまふところが、一語をじつと眺めることで、そのことばと血縁関係にある二語も三語も勉強できる、といふのである。
この国語教師の奇妙なところは、国語辞書を軽んじるだけではなかつた。
「英語でも同じだ。意味の分からない英単語に出会つたら、そのことばの全体をじつと眺めるやうにすると、その語の語幹の部分、接頭語の部分、接尾語の部分、語尾変化などに分解されてきて、類語が思ひ浮かんで、やがてその単語はおほよそかういふ意味ではないかと推測がつく」
ぼくは大学の第二外国語はフランス語だつたが、初めてお目にかかるフランス語は、じつと眺めてゐると英語との血縁関係から意味の察しがつくことがよくあつた。
この折口門下生はことばといふものの本質をつかんでゐると思つた。
新聞社に入りたてのころ、ぼくの書く記事はデスクの手でよく直された。
たとへば展覧会の表彰式の記事で、「最高賞受賞者は表彰状とトロフィーを手に壇上に上がり、喜びに充溢した笑顔で挨拶した」と書く。
デスクは即座に、「喜びに充溢した笑顔」を「喜びにあふれた笑顔」に直す。
「『充溢』はをかしいですか」
若気の至り、デスクの脇から問ふ。
「こんなことばはない」
ぼくは手元の辞書から、「充溢=満ち溢れること」の項をデスクに示す。
「辞書にはあつても、こんなことばは普通使はない。普通使はなければ、それはことばぢやない。新聞記事は普通に使ふことばで書くんだ。いいか、辞書を絶対だと思ふな」
ぼくの辞書に対する考へは、このふたりの影響が大きい。「広辞苑によれば……」といふやうな文章は、ぼくには書けない。
