しばらくぶりに会ふ後輩とランチ懇談をすることになつた。社内の近況について少々聞きたいことがあつた。

店は彼が昼飯によく行くといふ大手町のビルの地下にある寿司屋で、昼は予約を受け付けないのだが、彼の顔で店主に頼んで、カウンターの一等奥を二席空けておいてもらつた。

「これで、どうですか」

彼は腰を下ろすなりお絞りを掌にひろげながら、目の前に置かれた品書きの「刺身定食(松)」を指さした。

控へめな性格で、仕事でも飲みに行つても、昔はあまり積極的に物事をはこぶ男ではなかつたから、十歳以上も年上のぼくをいたはらうとしてゐるのか。さういへば、いまでは彼も五十人ほどの部下を擁する部長サマだ。

「相変はらず、お酒は毎日ですか」
話題も自分から提示しようとする。

「さうね。飲まない日はないかな。……さうだ、刺身定食を頼むのなら、酒も頼まうか」

とぼくは店主に、「お銚子を二本ください。常温でいいです」と注文する。

「昼間から飲むのですか」

彼はあわてて、店主に「私はまだ仕事があるので、お銚子は一本で」と訂正した。

「だつて刺身定食だらう。刺身に酒は付き物ぢやないの」

さう言つてから、「刺身に酒は付き物」といふのは万人に通じる論理ではなかつたかと反省する。

ぼくだけに限局すれば、これは憲法の前文に等しい常識論である。

現役のころから、ひとりで昼飯に出て、生もののメニューを選んだときは日本酒か白ワインを付けた。

刺身は酒がないと食べられない。

コハダ、アジなどのひかり物はもとより、イクラやウニの魚卵も、タイやヒラメの白身魚も、酒抜きでは生臭くて口に入らない。

マグロの赤身やトロなど、どうしてみんな酒なしに食べられるのか不思議でならない。

第一、刺身のあの色彩のおどろおどろしさ。

いま包丁で切り分けられた赤身の、切り立つた崖のやうに鋭利な、みずみずしく粒立つて光る真つ赤な断面――あんなものをどうして酒の助けを借りずに口中に収めることができるのだらう。

人間は古来、食物を加熱することによつて美味しく加工し、毒も細菌も死滅させて、安全に体内に取り入れてきたのではなかったか。
火を当てることは、人間の食文化の第一歩だつた。

それにしても、刺身といふのはなんと原始的な食べ物だらう。その生きたままの怪しさや恐怖を飛び越えるには酒の力が要る。

胆石の持病をしばしば発症し寝込むことの多かつた母親は、寝床から庭の隅にある柘榴の橙色の激しい花をながめては、「ことしは幾つ生るかしらね」と結実をたのしみにしてゐた。

熟した柘榴の表皮の赤も、割れ目からのぞく内部の赤も、危険なほどの色合ひである。

母親と一緒に柘榴の実を指で割り、粒をもぐと、実の白い地肌から粒がころげ落ちるとき、野草を引き抜いたときのやうな青臭い匂ひが立つ。母親はうれしさうにそれを口に放り込む。


果肉がほとんどなく、種ばかり大きくて、味も水つぽいだけのこの果物のどこが旨いのか、母親の嗜好が理解できなかつた。

確認したことはなかつたけれど、もしかしたら母親はマグロの真つ赤な刺身も好物だつたかもしれない。