夕方になると、毎晩とんかつ屋に入りびたつて、ひとりでとんかつを肴に酒を飲んでゐた時期がありました。

三十代初めのころ、ぼくは防衛庁担当で(防衛省がまだ「庁」と呼ばれてゐたころです)、庁舎は六本木交差点の少し西にあり、その東門の前の道を南に入つた路地に、初老の夫婦がやつてゐる「とんかつ太郎」がありました。

カウンターに五席、右の小あがりに三卓、奥に六畳間といふ店ですから、十人ほど入ればほぼ満席です。

小あがりの一番奥の、カギ型に壁を背負つた角席がぼくは好きで、通ひつづけると、気働きのいい奥さんがその席をぼく専用に確保しておいてくれるやうになりました。まるで「年間契約シート」です。

出てくるのは、最初にロースかつと二合徳利、最後にご飯、みそ汁です。あらためて注文する必要はありません。

トンカツを肴に酒を飲むなんて、いかにも不似合ひだし、粋ぢやないし、第一、六本木のイメージではありませんが、当時の六本木は今とちがつて、北の赤坂側も南の麻布側も、横丁に入れば焼き鳥屋や居酒屋が幅を利かせてゐました。

店内にはいつも、小柄なおやぢが調理台で肉を叩く、湿つた打撃音がしてゐます。

入念に叩くことで、厚さ一センチもある肉が軟らかくなり脂身と赤身が馴染むのだと奥さんから聞きました。

肉の旨味は脂身と赤身の湿潤な溶け合ひにひそむといふのも奥さんの口癖でした。

これをふんだんなパン粉にまぶし、油の中に沈めて香ばしく揚げたものが、皿からこぼれ落ちさうなくらゐ山盛りのキャベツの千切の上に載つて出てきます。

まだ熱いとんかつを一口かじり、ぬる燗の酒と口中で混ぜ合はせます。

最近のやうに体重とか中性脂肪、コレステロールを気にする風潮からすれば、とんでもない不健康な食事かもしれませんが、ぼくの場合、この晩飯をずつと続けても体に何の障害も出ませんでした。

旨いと思ふものを食ひ、気分よく酒を飲めば、人間ドックや血液検査などどこ吹く風なのです。

この小さな店には、四十代、五十代になつても、取材相手の政治家や秘書さんを遠慮なく案内しました。

与謝野鉄幹、晶子のお孫さんである与謝野馨・元官房長官は、育ちからしてやや貴族趣味の強い方でしたが、ここのとんかつは気に入つてくれました。

ここのおやぢがまた芸達者な粋人で、俳句はひねるし絵も描くし、外国人客から覚えた英語、フランス語、中国語をそれなりに話すほか、私生活でも風流なところがあつて、当時、北海道から上京して売り出し中だつた演歌歌手・細川たかしの「東京親」を買つて出て、テレビ出演したりしてゐました。

「わたし、バカよね、おバカさんよね」の『心のこり』が日本レコード大賞新人賞を獲得した時は、店の六畳間に細川さんと常連客の男女を牛詰めにして受賞祝の宴を開いたこともありました。

「ちよつと寄りませんか」と、深夜、南青山の日赤前にあるご自宅にもよく招かれました。

近年、おやぢは都内で入院治療をつづけてゐますが、今でも町で「とんかつ」の看板を見たり、たまにとんかつを前にすると思ひ出すのは、「とんかつを肴に飲んだ」若き日々です。

永井荷風の明治時代から、日本食として百年以上も愛されてゐるとんかつの魅力の根源は何なのでせう。

親しい和食の板前には、「料理は油を使へば何でも旨くなるんですよ」のひとことで片づけられましたが。
小学校の同窓生の女性から転居通知が来たのは、九月の初めだつた。

「若いころから念願だつた会津若松市民になりました」と嬉々とした文面である。

しばらく前からリウマチ疾患の膠原病(こうげんびょう)に悩んでゐて、足の筋肉が衰へないやうにと、夕刻、商店街を散歩してゐる姿をよく見かけた。

大好きな会津には以前から別荘を持つてゐて、夏になると家族で長期滞在したりしてゐた。

十年ほど前にご主人を亡くし、その後はひとりで、JRの某ターミナル駅前のビルで仏壇仏具を商ふ店を続けてゐたが、七十代の後半にさしかかつて、病気も考慮し、店をたたんで単身、会津へ引つ込む決意をしたらしい。

小学校のころから成績抜群で、商売でも業績を伸ばし、地域のロータリークラブの会長をしてゐたときには、ぼくを政局の講演に招いてくれたこともあつた。

先日、五年ぶりにひらいた同窓会で会つた。

念願成就の田舎暮らしの感想を尋ねると、「朝起きると磐梯山を望めるのはすばらしいし、空気もおいしい。それは期待どほり。――ただね」とやや浮かない顔つきになつた。

「この季節になると、もう寒さが身に染みる、かな」
「寒いのは覚悟してゐたから何でもないわ」

「地元の人との人間関係はどう? 都会からの新参者を優しく受け入れてくれた?」

「東北人つて人懐つこいし、会津はみんな親切だから、それは大丈夫。――悩みは足よ」

「足? いまでも痛むの?」
「さうぢやない。あちらへ行つたら、空気が合ふのか病気はうまく治まつてゐて全然痛まない。さうぢやなくて、問題は移動手段の『足』」

ご主人の死後、彼女は車を持つてゐない。自宅兼店舗は駅まで歩いて三分だし、仏壇の配送などは業者に任せればよかつたから、車は生活に必要なかつた。

「市街地まではちよつと離れてゐるから歩いては行けないので、日常の買ひ物に出かけるにも、いちいちタクシーを呼んで行かなければならないのよ」

「バスはないの?」
「私、生まれてからバスに乗つたことないもの」

肉や魚、野菜などの食料品、洗剤などの日用品を買ひに行くのも、月三回の病院通ひも、用事で市役所へ行くのもタクシー。町へ出るたびに、往復四、五千円ほどかかる。

「昔、エンゲル係数つてよく問題になつたけど、いまわが家はタクシー係数が五割くらゐかしら」

頭の良かつた老女も、実際に会津で暮らしてみるまではそこまで見通せなかつたらしい。

「おカネのことだけぢやないの。さあ、出かけようといふとき、電話でタクシーを呼ばなければならないつて、凄く面倒。通りに出て手をあげればタクシーがとまるところに生まれ育つたから、その有難さを忘れてゐたのね。都会に住んでゐると、老後は田舎暮らしにあこがれる人つて多いと思ふけど、足の確保は盲点ね。車があつたとしても、いくつまで運転できるか分からないものね」

彼女の住んでゐた旧店舗ビルは、いま水色のシートに囲まれて取り壊し工事が進んでゐる。
 テレビの国会中継を見てゐると、本会議場でも委員会室でも、端の方の席で居眠りしてゐる議員がゐる。

 テーブルに顔を伏せたり、大きくコックリするわけではなく、ただ目をつぶつてゐるだけだから、本人にすればバレないと思つてゐるのだらうが、テレビの視聴者といふのはひまだから、「ああ、あの議員は眠つてゐるな」と目ざとく見つける。
 
 これは現場の国会議事堂でも同じで、衆参の本会議場全体を上からコの字型に囲むゴンドラ席からでも、予算委員会などが開かれる委員会室二階の記者席からでも、部屋全体をながめてゐると、居眠り議員はすぐに分かる。

人間はふつう、椅子に掛けてゐても不断に首や顔を動かすものなのに、ふと一分、二分と、不自然に一人だけ、人形のやうに停止するのだから目につきやすい。
 
 ぼくは国会議員の居眠りに関しては寛容な方である。朝早くから派閥などの朝食会、午前十時からの通常の会議、分刻みの議員会館での接客、日によつてはワーキングランチ、午後一時からの本会議……などと日程がつづく中で、三分や五分、意識を失つてうとうとする時間は、もちろん健康にも、心の休息にもいいことではないかと思ふ。

緊張のつづく頭を、一瞬でも休息させるのはいいことだらう。一日中張り詰めてゐたら、神経の糸は弛緩し、疲労し、修復不可能になるかもしれない。

友人にお酒を一滴も飲めない男がゐる。アルコールが入ると、即頭痛に悩まされるといふ。

だから夜の会合でも、ひとりウーロン茶やオレンジジュースを飲んでゐる。

彼の頭は常に、覚醒状態にある。他人の言つたことをいつも正しく理解し、正常に反応する。

夜になつても、ゆるみとか酔ひとかを知らない頭脳。常に明晰、常に鋭敏。かういふ人間はおそろしい。

三十五年前に親譲りの家を建て直すのを機に、庭の隅に四人掛けのベンチを置いた。

渋谷の英国家具屋でみつけたもので、脚部や四周は太い鉄棒、腰をおろす座面や背もたれには十センチ幅くらゐの板が張り渡されてゐる。

板と板の間には、腰かけても背や尻に気にならない程度のすき間が空いてゐる。
 
 十年ほど前、黒い鉄棒は頑として丈夫だが、板の部分が腐食してきたので板だけ交換しようと、自治体紹介の元大工さんに日曜大工の店で材料を選んでもらひ、張り替へてもらつた。

 こんどは腐食しないやうに木製ではなく、今風の科学素材の板である。

ところが、この元大工さんはベンチは手掛けたことがなかつたやうで、背もたれも座面も、科学素材の板をすき間なくびつしりと、一枚の板のやうにつなげて留めた。

精緻な仕上がりで、見たところは申し分なかつた。

ベンチの横には、植ゑて三十余年の枝垂れ桜の大木がある。秋になると、これから降る夥しい枯葉がベンチの座面をうづ高く埋め、そこに雨でも降るとたちまち水たまりができて、やがて葉が黒々と腐る。

最初のベンチが板切れと板切れの間に絶妙なすき間を作つてゐたのは、かういふ事態を予測してのことだつたのか。さすが伝統のイングリッシュ・ガーデン用のベンチだと感心した。

このベンチのすき間と、国会議員の居眠りには何か相通じる人間の知恵のやうなものを感じる。すき間には意味がある。