テレビの国会中継を見てゐると、本会議場でも委員会室でも、端の方の席で居眠りしてゐる議員がゐる。
テーブルに顔を伏せたり、大きくコックリするわけではなく、ただ目をつぶつてゐるだけだから、本人にすればバレないと思つてゐるのだらうが、テレビの視聴者といふのはひまだから、「ああ、あの議員は眠つてゐるな」と目ざとく見つける。
これは現場の国会議事堂でも同じで、衆参の本会議場全体を上からコの字型に囲むゴンドラ席からでも、予算委員会などが開かれる委員会室二階の記者席からでも、部屋全体をながめてゐると、居眠り議員はすぐに分かる。
人間はふつう、椅子に掛けてゐても不断に首や顔を動かすものなのに、ふと一分、二分と、不自然に一人だけ、人形のやうに停止するのだから目につきやすい。
ぼくは国会議員の居眠りに関しては寛容な方である。朝早くから派閥などの朝食会、午前十時からの通常の会議、分刻みの議員会館での接客、日によつてはワーキングランチ、午後一時からの本会議……などと日程がつづく中で、三分や五分、意識を失つてうとうとする時間は、もちろん健康にも、心の休息にもいいことではないかと思ふ。
緊張のつづく頭を、一瞬でも休息させるのはいいことだらう。一日中張り詰めてゐたら、神経の糸は弛緩し、疲労し、修復不可能になるかもしれない。
友人にお酒を一滴も飲めない男がゐる。アルコールが入ると、即頭痛に悩まされるといふ。
だから夜の会合でも、ひとりウーロン茶やオレンジジュースを飲んでゐる。
彼の頭は常に、覚醒状態にある。他人の言つたことをいつも正しく理解し、正常に反応する。
夜になつても、ゆるみとか酔ひとかを知らない頭脳。常に明晰、常に鋭敏。かういふ人間はおそろしい。
三十五年前に親譲りの家を建て直すのを機に、庭の隅に四人掛けのベンチを置いた。
渋谷の英国家具屋でみつけたもので、脚部や四周は太い鉄棒、腰をおろす座面や背もたれには十センチ幅くらゐの板が張り渡されてゐる。
板と板の間には、腰かけても背や尻に気にならない程度のすき間が空いてゐる。
十年ほど前、黒い鉄棒は頑として丈夫だが、板の部分が腐食してきたので板だけ交換しようと、自治体紹介の元大工さんに日曜大工の店で材料を選んでもらひ、張り替へてもらつた。
こんどは腐食しないやうに木製ではなく、今風の科学素材の板である。
ところが、この元大工さんはベンチは手掛けたことがなかつたやうで、背もたれも座面も、科学素材の板をすき間なくびつしりと、一枚の板のやうにつなげて留めた。
精緻な仕上がりで、見たところは申し分なかつた。
ベンチの横には、植ゑて三十余年の枝垂れ桜の大木がある。秋になると、これから降る夥しい枯葉がベンチの座面をうづ高く埋め、そこに雨でも降るとたちまち水たまりができて、やがて葉が黒々と腐る。
最初のベンチが板切れと板切れの間に絶妙なすき間を作つてゐたのは、かういふ事態を予測してのことだつたのか。さすが伝統のイングリッシュ・ガーデン用のベンチだと感心した。
このベンチのすき間と、国会議員の居眠りには何か相通じる人間の知恵のやうなものを感じる。すき間には意味がある。
