紺色のスラックスに事務服を着た中年女性が、突然ヒステリックな声をあげた。
「すみませ~ん! 救急車、救急車、お願ひしま~す」
離れた席だつたのでぼくは気がつかなかつたが、その危急を告げる叫び声で目を向けると、店内の通路に小太りの老人が仰向けに倒れてゐた。
たまにこのレストランに珈琲を飲みにくる老人で、近所では知らぬ者のない老舗料亭の大旦那である。
明治初期創業、森鴎外の小説にも登場する由緒ある料亭で、いまは横の官幣大社で挙式したカップルの結婚披露宴を主たる稼ぎにしてゐる。
七十を過ぎたばかりの大旦那は、十年ほど前から体中あちこちの癌を次々に手術したといふ噂で、歳よりはだいぶ老けて見える。杖を使ふ歩幅は狭く、一歩一歩が左右に揺れる。
料亭業は妻が女将、長男が専務となり、いまや大旦那は何もしないご隠居だが、一年くらゐ前から、大旦那が散歩に出かけようとすると、人目を気にする女将がヘルパーを随(つ)けるやうになつた。「救急車、お願ひしま~す」と叫んだのはヘルパーの女性だ。
レストランの初老の店長が駆けつけて来て、事情が分かつてきた。
どうやら大旦那がトイレに立つたところでよろけ、咄嗟にそこにあつた料理運搬用の台車の把手をつかまうとしたところ台車が動き出し、足がついて行かずに転倒したらしい。
店長は倒れたのが馴染みの客とわかると、自分の体を横に添へて、抱きかかへるやうにして足を踏ん張り、なんとか立ち上がせようとするが、いかんせん老人は腰が立たない。
「無理です。とにかく救急車を呼んでください」
ひたすら自分の仕事をまつたうしたいヘルパーがまた大声を出す。
病人発生の一報を聞きつけて、このビルの所有者であるやり手の女社長が飛んできた。
女社長の本業は結婚式場で、ビル内でこのレストランのほか、宴会場を大小七部屋、神式と教会式の二つの結婚式場、写真室、貸衣装店、花屋など経営してゐる。
つまり、倒れた大旦那の料亭とは官幣大社の結婚披露宴を奪ひ合ふ近隣のライバルである。
女社長は常々ぼくに、「あの大旦那はスパイ。ウチがどのくらゐ仕事を取つてゐるか、ときどき偵察に来るのよ。たぶん奥さんに命じられて」と眉をしかめる。
救急車が到着し、担架をかかへた制服が二人店に入つて来て、老人を担架に乗せようとする。
「オレをどうするつもりだ! 歩いて帰れる。救急車なんて呼んだのは誰だ!」
大旦那が怒鳴る。ヘルパーも店長も黙つてゐる。
救急隊の男が「一応、病院で診てもらつた方が安心ぢやないですか」と言ふと、「病院? なんでオレが病院なんて行く必要があるんだ。トイレへ行かうとしてちよつとつまづいただけぢやないか」と大旦那は怒る。
救急隊員は
「病院でちやんと診てもらつた方がいいですよ。行きつけの病院はありますか」
「冗談ぢやない。さうやつてなんでもかんでも病院へ運ぶから病院が一杯になつちやふんだ」
手を焼いた救急隊員は、「ご家族には連絡できますか」と事務的に問ふ。
「家族はゐるさ。ワシはそこの神社の脇のーー」
と大旦那は、救急隊員も知る老舗料亭の名を明かす。
救急隊員からの電話には女将が出た。
「すぐ奥さんが来てくれるさうです。どこに搬送するかは奥さんと相談して決めませう」
女将が来ると聞いて、ビルの女社長はあわてて姿を消した。女将と顔を合はすのも嫌らしい。
白いベンツを運転して女将が到着すると、夫がライバル店で騒動を起こし面子をつぶされた女将は、大旦那をヘルパーに背負はせて車まで運んだ。
――以来、大旦那は一度も姿を見せないといふ。
「恥をかかされた女将さんに大目玉を食らつて、座敷牢にでも入れられてしまつてゐるのでは」
店長は大旦那のことを心配するが、この顛末、一体だれが悪かつたのだらう。
