54年間使つた運転免許証を自主返納しました。
70代半ばでの返納はちよつと早いかなと迷ひもしましたが、この先ひとさまを傷つけたりする前に運転をやめるほうがいいか、と決断しました。
小学校の鉄棒で逆上がりもできなかつた運動神経の持ち主ですから、もとより車の運転も上手な方ではありません。
この間に乗つた車は7台。就職してまづ買つたセドリックの中古、これを道路わきのブロック塀にこすつて買ひ換へたのが、当時新発売のサニー1000、30代になり、運転に少々自信がついて購入したのが青のフォルクスワーゲン1200㏄、ついで真つ赤な1500㏄、3台目の赤1500㏄には25年間、60歳を過ぎてからはボルボ2台に計15年も乗りました。
下手なわりに運転は好きで、「還暦暴走族」と自称して北海道を10日間かけて走り回つたり、日本海沿岸を福井から青森まで北上したり、四国周遊ドライブでは初日、家から淡路島まで700キロをランチ休憩のみで走り抜いたこともあります。
しかし、生来不器用なのは隠しやうもありません。走行中にヒヤッとすることは毎日でした。
特にバックが苦手で、ずつと前を向いて運転して来て、駐車場などで急にバックする必要が生じたとき、ギアを入れ替へ、運転席で顔を後ろに振り向かせると、瞬間、ハンドルを右に切つたら後輪が左右どちらに向くのか分からなくなるのです。
「何やつてるの! ほら、逆に切らなきや」
と脇から家人が叫びます。
「まつたくヒヤヒヤさせるんだから。この、おつちよこちよい」
街の路側帯の縦列駐車も苦手です。後続車を待たせて何回も切り返さなければならず、助手席から「代はりませうか」の声が出ます。運転は家人や娘のほうがうまいのです。
免許証を自主返納すると、1100円で「運転経歴証明書」といふ、運転免許証と同じ形態のカードを発行してくれます。
こんどは「証」ではなく、やや軽つぽい「書」で、こちらは生涯、更新不要。公的な身分証明書になり、タクシー代1割引、デパートの自宅配達無料などの特典もありますが、ぼくの場合、予期しない反応がありました。
「ついに免許を返納して来た。これで真昼間から酒を飲めるぞ」
と、ワインバーで得意になつてカードを見せびらかすと、のぞき込んだ客の中年女性が、
「あら、スゴイ。昭和40年に大型免許を取つてゐたのですね」
とカードを手に取り、ぢつと眺めてゐます。
顔写真付きのカードには、最初に免許を取得した昭和40年(1965)4月6日といふ日時と、大型、中型など免許の種類が記されてゐます。
免許証を返納してから「大型免許」が注目されるとは意外でした。
20歳(はたち)を過ぎて普通車の免許を取つたあと、「将来役に立つことがあるかも」と続けて教習所に通ひ、非力な若者が、当時はまだずつしりと重かつたトラックの、指がやつと一回りする太いハンドルにしがみつくやうに運転して、どうにか大型免許を取つたのです。
「バスやトラックも運転できるのですね」
女性が興味深さうに尋ねます。
「いや、免許はあつても、道路で大型車を運転したことは一度もなかつたです」
女性は白けた顔になつて、静かにぼくにカードを返しました。
