「実は、ひとつだけ心配ごとがあります」
 
 スピーチの最後にぼくがつけ加へた「心配ごと」といふことばに、会場は一瞬しーんとなつた。定年退職の送別会である。隠してゐた深刻な病気の告白でもするのかと思はれたらしい。
 
 「41年間、昼めしと晩めしは毎日外で好きなものを食べてゐました。あすからは一日三食、家で食べることになります。どんなものを食べさせられるのか、それが心配なのです」
 
 毎日、深夜におよぶ仕事なので、土曜日曜を除いて外食ばかりだつた。栄養が偏らないやうに気をつかひ、贅沢といふほどでもないけれど、けふは肉を食べる日、野菜を食べる日、魚を食べる日、穀類を食べる日などと割りふつてゐた。
 
一日のうちでも、ランチが肉料理の日の夕食は蕎麦にしたり、昼がイタリアンだつたら夜は焼き魚にしたりと工夫した。野菜や豆の煮物、卵料理、揚げ物などを、注文に応じて作つてくれる馴染みの小料理屋はわけても便利だつた。
 
仕事相手との懇談や仲間との飲み会もあるから、予定どほりにバランスを達成できない日もあるが、可能なかぎり毎日食べたいものを幅ひろく食べた。
 
家人は夫が家で食事をすることが少ないので、どうしても料理のレパートリーが息子や娘中心のメニューになつた。子どもたちはハンバーグやカレーなら連日でも文句を言はない。自然とさういふものが得意料理になつた。「心配ごと」のゆゑんである。
 
リタイアしてから5年が過ぎた。
もう、現役時代に毎晩通つてゐたやうな外食を食べにいく気にはならない。
 
歳のせゐで味に対する嗜好が変はつたこともあるのかもしれないが、ぼくが家にゐるやうになつてから、家人が「六十の手習ひ」で料理を少々勉強し、ぼくも好きな食材や味つけを助言するなかで、平凡な日常の料理が磨かれた。その味が好きになつた。
 
ほんの一例だが、毎晩欠かさないのはアボカドのサラダである。サラダといつても、ほとんどアボカドそのままで、ザクザクと半円形に切つてサラダ菜の上に盛る。オリーブオイルをふりかけ、そこに醤油をすこし垂らす。
 
それだけだ。これが白ワインや芋焼酎のロックに合ふ。外食ではかういふ単純なサラダは望むべくもなかつた。
 
「森のバター」といはれるアボカドの、大地の栄養素と太陽のエネルギーを上から下から吸収して凝縮したやうな、ふしぎと動物的な味はひと、それとはうらはらに出生の清純さをしのばせる青臭さ、頬のやうなやはらかさとも、頬骨のやうな硬さとも形容できる精妙な歯ごたへ――。
 
そこにオリーブオイルの野性的なかをり、醤油の熟成された深遠な滋味が加はつて、それらすべてが口中で混ざり合ふと、こんなシンプルにして上等なつまみは、家庭料理以外ではまづお目にかかれないといふ幸福感をおぼえる。
 
つまみだけではない。かくて、定年退職時の「心配ごと」は消し飛んだ。
一つだけ間違ふことのないかをりがあつた。かをりといふより、にほひと言つたほうが適切な感じがする。たとへば、東南アジアのみやげ物店に一歩入つたとき鼻をつく、木工細工やアクセサリー、民族衣装などに絡みついたあのスパイシーなにほひだ。
「スモタラです」
 香炉を畳に戻すより早く答へる。
 「ふふ。これだけは毎回即答されますのね」
 ホテルオークラの茶室聴松庵で茶の稽古を始めて数年、アラフォーの女師匠が一対一で香遊びを教へてくれた。ぼくは30代だつた。
 キャラ、ラコク、マナバン、マナカなど七種類の香をブラインドで嗅ぎ分ける。昔から親しみのあるキャラや、扇子の白檀に似たサソラはすぐ分かるが、七種類全部言ひ当てるのは難しい。
「スモタラはお嫌ひかしら」
「ええ、ちよつと濃厚な癖があるので、どちらかといへば苦手です」
「まだお若いのよ」
師匠は白い湿潤な首すぢを傾けて笑つた。
 
 最近、ある茶席の余興で香をきく趣向があつた。香炉を一座に回しながら、最初は香名を口伝へに明かす。2回目は黙つて回す。
 懐かしいかをりだつた。香遊びは久しぶりなので、シンキャラやマナカは他と分別しにくかつたが、スモタラだけは鼻が覚えてゐた。香炉に手をかざしただけでそれと分かつた。
 おどろいたのはその印象である。スモタラのかをりはいまや苦手などころか、奥行きがあつて情趣に富んで妖艶で、まるで円熟した女性のやうな、誘惑的な香気に感じられた。
 医者から聞いた話だが、視神経、聴神経、顔面神経など12対ある脳神経の中で、人間にとつて最も基本的かつ高度なのは嗅神経ださうだ。生死にかかはるからだといふ。
 この歳になつて、一転、スモタラのかをりが好きになつたのは、果たして嗅神経の成熟なのか退化なのか、気が気でならない。
 こんどの参院選はなんとも盛り上がらない。テレビの党首討論を見ても、みんな冷やかな顔をして、その場しのぎの、退屈なことばを繰り返してゐる。あれでは政治討論会ではなく、小学校の意見発表会だ。
 
 やる前から結果がうすうす分かつてゐるやうな選挙だし、目下、与野党が熱くなつて議論するだけのテーマがないといふこともある。「衆参ねぢれ現象の解消」にしても、「アベノミクスの功罪」にしても、あまり興味をよぶテーマではない。
 
 しかし、それ以上に、いまの与野党の党首たちには党首討論会を盛り上げることのできるタレントを持つた人材がゐない。
 
 一度党首になれたから、もう今回は負けて降板でもいいや、といふ充足感が、ふやけた目鼻にあらはな初老男。「正義はこちら、悪はあちら」と対句の論法しか知らない、消滅寸前の女性党首。まだまだ与党の傘の中を楽しませてもらひますといふ安穏顔。世の中、紅白歌合戦しかないのだから白がいやなら赤に、の「漁夫の利戦法」の元闘士。党名も知らなければ、男女どちらかも判然としない新顔党首。……
 
 けんかしたり論争したりするのは一種の才能である。田中角栄やハマコーさんのやうに訳の分からぬことを言ひながら、とりあへずその場を面白いけんかに仕立てあげてしまふ政治家が過去にはゐた。さういふ才能がゐなくなつた。
 
 と、突然ここで話を足元に移すと、ぼくもけんかの才のない男である。こどものころからけんかをした記憶がない。取つ組み合ひはもちろん、論争もほとんどしたことがない。
 
 ぼくが書いた署名記事に対して、政党機関紙や思想系新聞が一面コラムで「バカ記事」と批判したとき、ぼくの社のコラムで先輩記者が、「バカバカが十三回。語彙が乏し過ぎないか」などと軽く揶揄して擁護してくれたことがあるが、ぼく自身は何も反論しなかつた。
 
 けんかや論争を見たり読んだりするのは嫌ひではないけれど、自分がそこに絡まうとは思はない。不毛な論争にエネルギーを費やすくらゐならば、別のものを書く時間に充てたはうがいい。
 
 幼いころから母親に教へられたのは、「高く超越して」といふことばだつた。公務員の妻として、万事ことなかれ主義を貫いた女の人生訓だつたのだが、双方得るところの少ないけんかや論争を避けるには便利な自戒のことばだつた。
 
 しかし、政治家は人に見られてナンボの商売だ。けんか下手は向かない。