この辺りの会社に勤めてゐた友人だから、場所の設営に遺漏のあるはずもない。
 
 西に向かつて腰をおろすと、右手の広大なガラス窓には歌舞伎座の高層ビル、その横はるかにピンクの光彩を放つスカイツリー、正面に大小の銀座のビル群をながめるといふ、銀座のレストランとしてこの上ない夜景の店だつた。
 
 高田馬場の予備校時代から50年を越す付き合ひの友人で、数年に一回、両夫婦で食事をする。お互ひリタイアしてゐるので、最近はやや間遠になつてゐるが、それだけに近況報告のネタは尽きない。
 
 3時間ほどの会食を終へ、ビルの足元の地下鉄東銀座駅から日比谷線に乗り、茅場町で京葉線に乗り換へる友人と別れる。
 
 「なんか、なまはんかでせう」
 と家人がにやりとしてぼくの顔色をうかがふ。「生煮え」ではないかといふ意味らしい。
 
 料理に合はせて、両夫婦とも赤と白のグラスワインを四杯づつ飲んだが、生煮えといへばさうかもしれない。ぼくの酒量を熟知してゐる家人だからこその見立てである。
 
 「まあね。ーーでも、もういいや」
 行きつけの店がいくつかある人形町で途中下車しなかつた。
 
 このところ、よろづに「なまはんか」に馴れてしまつた。酒でいふと、昔のやうにとことん飲まなければ納得しないといふ気には、たまにしかならない。ほどほどで止められるやうになつた。
 
 振りかへつてみるに、わが人生、すべてが「なまはんか」だ。41年の新聞記者生活は燃焼不足で中途半端だつたし、リタイア後の作家稼業もぽちぽち、小遣ひ稼ぎの講演業もいまいちパッとしない。
 
 趣味の茶道は茶名をいただくまで10年間ほどホテルオークラの「聴松庵」に通ひつめたが、その後は興味も薄れて、「江戸千家教授」の看板は部屋の隅で泣き、「弟子ゐません家」を続けてゐる。
 
 鶴田浩二に「傷だらけの人生」といふ歌があるが、いふなれば当方は「なまはんかだらけの人生」である。
 
 と、ここまできて、ふと考へた。 自分の人生が「中途半端でない」などと言ひ切れる人なんか、この世にゐるのだらうか。みんな内心、「なまはんか」人生を嘆きながら、それを受け容れて生きてゐるのではないか。
 
 だとすれば、ぼくも残る人生、逆に「なまはんか」を楽しんでやらう。「なまはんかで十分。なまはんかのどこが悪い」と居直れば、こんな気楽なことはない。
 
 
 
 
 
 
 今こんなことをいふと国賊みたいな扱ひをされかねないけれども、「2020年東京五輪」を決定したIOC(国際オリンピック委員会)の選択が、現下の世界情勢の中でベストなものだつたかどうかは、だれにも分からない。
 
 国際情勢の不穏な動向によつては、7年後、東京五輪が予定通り開催されるかどうかも不透明だし、地球の平和のためには、東京以外の候補地を選んだほうが良かつたのか、「東京」が最善の開催国だつたのかどうかは、おそらく7年後にならないと結論は出ない。
 
 スポーツ界出身が多数を占めるIOC委員が国際情勢に疎いといふつもりはないし、今回の決定に対して疑問を投げかける意図はないが、どういふ投票にせよ、「選択」といふのはベストなものはない。「選ぶ」といふのは元来その程度のものだらう。
 
 昔、田中角栄といふ政治家はかう言つた。
 「あすの休日、ゴルフに行かうか家で読書をしようか、と迷つてはいけない。人間、一つしかできないのだから、どちらを選んでも大差はない。大事なことは、すぐ決断することです。迷ふのが一番良くない」
 
 週刊誌の編集をやつてゐたころ、ぼくは編集部の男が「表紙の図柄はどちらがいいでせうか」と2枚の写真を持つてくると、たいてい「右手に持つてる方がいいね」と即決した。
 
 ぼくに決断を求めてくるといふことは、グラビアデスクにも判断が付きかねるからである。その道のプロであるグラビアデスクが迷ふといふのは、A案もB案も大差ないからだ。差があればデスクもすぐ決められる。要するに、どちらも素晴らしいのである。
 
 「右手に持つてる方」と言つたのは、人間、こちらが若干優れてゐるかなと考へる方を右手に持つ傾向があるからだ。
 
 のちのち、カメラマンや若手記者によるグラビア編集会議では、「どうせ編集長に判断を仰いでも『右、右』と適当に決めるだけだから、ここで決めちやおう」といふ機運になつたさうだ。こちらの思ふ壺である。
 
 選択といふのは、所詮、その程度のものではないだらうか。
 そのとき、安易にA案を選んで、後でとんでもない誤りだつたと分かつたとしたら、「それが運命」と諦めるしかない。
 
 もしその選択をしなかつたとしても、遅かれ早かれ偉大な誤謬を犯す運命にあつたと観念するしかない。
 
 ところで、この文章のタイトルは「選ぶといふこと」にするか、「どつちにしても同じ」にするかーー迷ふほどの問題ではないですね。
 自宅の近所に、建立2500年といふ官幣大社がある。近所だから氏子になつてゐて、季節ごとに「祈祷神璽」と書かれたお札がとどく。それなりの寄付をする。
 
 散歩の途中、たまに境内に入ると、拝殿の前で真摯にお祈りをしてゐる人がゐる。
 
 二礼二拍の参拝をしたあと、手を合はせたまま、数分間ぢつと動かない老女がゐる。中折れ帽を脱いで、深々と頭を下げた姿勢を維持する紳士がゐる。合掌した姿勢で、何ごとかつぶやいてゐる子連れの中年女性がゐる……。
 
 拝殿の前には巨大な賽銭箱が横たはつてゐる。帽子をとつて、その前に立つたらお賽銭を投じないわけにはいかない。十円銅貨でもどうかと思つて、百円玉を奮発する。二礼二拍して手を合はせる。何を祈るか。祈ることはない。
 
 だいたい、祈るといふのはどういふ心情なのだらう。単なる「お願ひごと」ではないのか。それにしては百円玉ではムシが良過ぎる。
 
 年賀状や暑中見舞ひ状の欄外に、「今年もお健やかに過ごされますやうお祈りします」とか、「ご一家の健康をお祈りします」とか、もの書き仲間が相手だつたら「ご健筆をお祈りします」とか、よく書く。
 
 何も書くことがないからさう書くが、実際に祈ることはしない。「お祈りします」と書いて、そのまんまである。
 
 ぼくは無宗教だ。宗教と縁のない人間にとつて、「祈る」といふのはどういふことだらう。誰に向かつて祈るのだらう。
 
 先の東日本大震災とか、ことしの集中豪雨による山崩れのやうな自然災害とか、重篤な病状の近親者などを前に、あまりに無力なぼくたちが何かに祈りたくなるのは分かるが、それは「祈り」といふよりは、「なんとか命だけはお助けください」と大自然や天に向かつて懇願してゐるだけではないのか。
 
 甲子園の高校野球。9回裏ツーアウト、ランナーは2、3塁。得点差は1点。一打逆転サヨナラといふ場面で、応援席の女子高校生が目をつぶつて、合掌して、涙を流して何ごとか念じてゐる。
 
 あれは「祈り」ではない。ヒットを打つてくれ、凡打に打ち取つてくれ、といふ欲求あるいは願望を自分の中で純化してゐるだけだ。本質は単なる我欲である。
 
 「祈る」といふと綺麗だが、実は自分勝手な欲望を神頼みしてゐるに過ぎない。神社でお祈りしてゐる人も同じではないのか。