自宅の近所に、建立2500年といふ官幣大社がある。近所だから氏子になつてゐて、季節ごとに「祈祷神璽」と書かれたお札がとどく。それなりの寄付をする。
 
 散歩の途中、たまに境内に入ると、拝殿の前で真摯にお祈りをしてゐる人がゐる。
 
 二礼二拍の参拝をしたあと、手を合はせたまま、数分間ぢつと動かない老女がゐる。中折れ帽を脱いで、深々と頭を下げた姿勢を維持する紳士がゐる。合掌した姿勢で、何ごとかつぶやいてゐる子連れの中年女性がゐる……。
 
 拝殿の前には巨大な賽銭箱が横たはつてゐる。帽子をとつて、その前に立つたらお賽銭を投じないわけにはいかない。十円銅貨でもどうかと思つて、百円玉を奮発する。二礼二拍して手を合はせる。何を祈るか。祈ることはない。
 
 だいたい、祈るといふのはどういふ心情なのだらう。単なる「お願ひごと」ではないのか。それにしては百円玉ではムシが良過ぎる。
 
 年賀状や暑中見舞ひ状の欄外に、「今年もお健やかに過ごされますやうお祈りします」とか、「ご一家の健康をお祈りします」とか、もの書き仲間が相手だつたら「ご健筆をお祈りします」とか、よく書く。
 
 何も書くことがないからさう書くが、実際に祈ることはしない。「お祈りします」と書いて、そのまんまである。
 
 ぼくは無宗教だ。宗教と縁のない人間にとつて、「祈る」といふのはどういふことだらう。誰に向かつて祈るのだらう。
 
 先の東日本大震災とか、ことしの集中豪雨による山崩れのやうな自然災害とか、重篤な病状の近親者などを前に、あまりに無力なぼくたちが何かに祈りたくなるのは分かるが、それは「祈り」といふよりは、「なんとか命だけはお助けください」と大自然や天に向かつて懇願してゐるだけではないのか。
 
 甲子園の高校野球。9回裏ツーアウト、ランナーは2、3塁。得点差は1点。一打逆転サヨナラといふ場面で、応援席の女子高校生が目をつぶつて、合掌して、涙を流して何ごとか念じてゐる。
 
 あれは「祈り」ではない。ヒットを打つてくれ、凡打に打ち取つてくれ、といふ欲求あるいは願望を自分の中で純化してゐるだけだ。本質は単なる我欲である。
 
 「祈る」といふと綺麗だが、実は自分勝手な欲望を神頼みしてゐるに過ぎない。神社でお祈りしてゐる人も同じではないのか。