何もしなくてもいつもいただいている
おはようございます。昨日の振り返りです。昨日家族で外食をしまして、上の息子の帰りに合わせてお店に出かけると、満席で1時間ほど待つとのこと。電話をいただく約束をして店を離れました。上の息子の様子が不機嫌にみえて、あーまずい雰囲気だなぁと思考します。が早々にどうにかしようという想いは手離し、下の息子の提案で自宅に戻ることにしました。自宅で待機中、わたしはやり残した家事をして、上の息子は自室でベッドにダイブしたのちベースを弾き始め下の息子は自室でスマホ?それぞれの時間を過ごしました。しばらくして上の息子が突然元気な声で「グミ食べる人〜?」と部屋を出てきます。「はーい!」と返事をして下の息子とグミを食べ、またそれぞれの空間に戻る。程なく目安の時間になり、家を出たところてお店から電話が入り、夕食をいただきました。息子達の様子を振り返ると彼らの中でも世界が形成され、おそらくいろいろな思考をめぐらせて、言葉を発したり、行動したりしていたのが観てとれます。ほとんど言葉は交わしませんが、和気藹々という雰囲気でもありませんが、やさしさのような空気感がそこにあったことに気づきました。それぞれのやり方でお互いを労わりあうような。我を下げるとこんなやさしい労りに気づくことができるんだな、今までもたくさんたくさん気遣いをいただいていたんだなと驚いています。さらに今、職場でいつも気遣ってくださる方に対し我を前面に出していつも邪険に扱っていることを思い出し、ハッとしました。その方にはありのままでいいとは思えなくてどこかしらトゲトゲした態度をとっています。職場はわたし流「常識」が多い上、直接の仕事量や内容に関わるから、「わたし」にとっての利害がはっきりしてるんですよね。でも「わたし」から離れ全体をみてみると気づいてないだけで「わたし」に向かって気遣いのようなエネルギーが四方八方から流れていることがわかります。その割にわたしからはいただくほどのエネルギーは流していない。前にも書いたけど、わたしはエネルギー的に大量の借金を抱えてる状態です。差し出していただいているものをありがたく受け取り、わたしにできることで、あなたにもあなたにもありがとうありがとうとお返ししていこう。それがエネルギー循環ということの一側面ではないかなぁと今は捉えています。書いているそばから母の気遣いがあく抜き済みの筍と新玉ねぎ、えんどう豆という形で届きました。ありがたくいただきます。同時にその恵みを育んでくれた自然にも最敬礼で、ありがたくちょうだい致します。もうこの観点で観ると頭上がりませんね。四六時中下がりっぱなしのはずです。が、瞬時に自我最高位に返り咲く、優秀な自我システムのおかげで、「世界はわたしのためにある」くらいの傲慢さで今日も生きています。それはとてもありがたいことだと、最近やっと気づきつつあります。その甘えをギリギリまで許してくれている全てに、自立というエネルギーで、お返ししていくことが、今のわたしにとっての霊性進化。(人間ドラマ的解釈)上から見たらエネルギーがぐるぐるぐるぐる渦巻いてる状態なんですかね。長くなりましたのでこの辺で。今日もおつきあいいただきありがとうございます。読んでくださってありがとうございました。