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恵翠(けいすい)書道教室

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死の不安を克服することが、人が生きていくうえで重要な要素であり教育でなされるべき課題の一つです。

心(マインド)は、失われるものですが、魂(ソウル)は失われないものです。

例えば、脳に損傷のあるような大けがをした場合、脳の機能を激しく失い、その人は人格すら失うかもしれません。つまり、心は体と密接な関係があります。

しかし、魂は体とは別のところで機能しており、仮に脳に激しい損傷を負って人格を失ったとしても、失うことはありません。

ですから、医学が発達し、手術によって脳の機能が完全に取り戻せるのなら、その人は人格を取り戻すことができます。魂は失われていなかったゆえ、そこから取り戻すことができるわけです。その際、人格を失っていた、つまりは心と魂の交流が止まっていた時の記憶は無いことでしょう。

そう考えると、体あってこその心ですし、心と体の両方を失うことを死というわけです。

つまり、死んだからといって魂を失うわけではありません。

ですから大切なことは、体を大切にしなければ、心を健全に保つことはできないということです。そして、心を健全に保つことで、この世に生まれ、この世での体験を通して良い学びができるわけです。これは、魂のみの状態ではできなかった素晴らしい学びなのです。

さて次に、この失われることのない魂(ソウル)とは何かということになってきます。

一度きりの人生と考えるキリスト教と、何度も生まれ変わると考える仏教では、魂の意味合いが若干変わってきます。

ここで、どちらが正しいかと考えては公平さに欠けてしまいます。ですから、どちらにも共通して教えていることとは何かと考えると、心の他に魂の存在があることを教えているということです。永遠の命というのは、ズバリ魂を指しているわけです。

こうなると、人生に行き詰ったから自殺したいと考えることは良くないことであるということになります。

自殺したい人は、この世の現実から逃げたい、自分がいなくなった方が楽だと考えがちです。

しかし、死んだからといって魂は失われることがありません。この世での学びの時は失われますが、魂は霊界で、その続きの歩みをしなくてはなりません。

霊界とは、神のいる高い次元もあれば、神から遠く離れた低い次元もあると考えられています。私は神に近い次元を「天国」、神から遠い次元を「地獄」とイメージしています。これはあくまで「わからない」の世界ゆえ、キリスト教の考え方、仏教の考え方、あるいは別の考え方、どれにおいてもこれが正しいと決めつけることはできません。

ただ、自殺をした人が、霊界に行った際、果たしてどのような次元に行くのかと考えると、誰もが良い次元に行けるとは考えにくいことでしょう。

私はクリスチャン(キリスト教信者)なのですが、これまでに多くのキリスト教バッシングの記事を読んできました。そして何度となく、心がキリスト教から離れそうになりましたが、私はキリスト教による奇跡体験が多いので踏みとどまることができました。

ただ最近になってはっきりしてきたことがあります。キリストの教え、特に『新約聖書』の中の4つの福音書の教えとは、賢者への教えではなく、教育の乏しいものを含む万民への教えであること。そして、この4つの福音書の教えのみで十分であり、この教えに生きるなら、間違いのない生き方ができるということです。

どんなにキリスト教が間違っているとか、聖書はねつ造された書であると言われようとも、聖書は生きた書であり、これまで多くの人々に奇跡を与え、神の証を与えてきたことだけは事実なのです。

とはいえ私は、キリスト教のみが正しいとは考えていません。あくまで天国へ行くための方法の一つであると考えています。何が正しいかと一生迷って生きるより、足元を固めて堅実に生きる方が優れていると考えています。ですから、仏教信仰で生きることも同じように優れた道であると思うのです。

もちろんご家庭で仏教教育をしているとか、他の宗教による教育をしている場合においては、そちらを尊重し全力で協力していきたいと考えています。それゆえ親御さんとの連携がとても重要であり、情報を提供してもらわなくては良い方向性が得られません。その情報を基に、お預かりしたお子さんの良心を向上させる教育を進めていきます。私の塾では、グローバルな視野を持てる子供に育てたいので、世界にはいろいろな気候風土があり、そこに根差した文化があり、そして異なる宗教があることも伝えていきたいです。

ただ、特別宗教教育をしていないご家庭のお子さんに関しては、私自身が数多くの奇跡を体験し、証を持つキリスト教による教育を学ばせたいと考えています。もちろん、キリスト教にのみ偏った視野の狭い教育にはしないつもりです。ただ、何が正しいかと迷わせてしまうと意味がないので、子供たちが消化できるレベルで基盤づくりから取り組んでいきたいと思います。

宗教が何であれ、良心を保つためのしっかりとした基盤を持っている子は決して迷いません。基盤さえしっかりしていれば、多様な思想や文化を受け入れることも可能となります。世界中のいかなる人とも上手く交流できる術も得られることでしょう。ですから基盤づくりが重要なのです。教育現場には、宗教批判を持ち込まないのが基本であり、そこを守れない場合は、残念ながらやめてもらうしかありません。批判に関しては、親の言葉に原因があるようです。

基盤を持っていない人は、迷ってばかり、または批判してばかりで考え方が定まらずふらふらしているゆえ、信念を持った生き方ができません。これでは何をやっても中途半端になってしまいます。

そしてその基盤は子供時代に築かれるべきものです。この基盤は学校教育とは別物ゆえ、本来親から子に伝えるべきものです。中には、偉人伝など書物から得る子もいることでしょう。いずれにせよ、私はそのお手伝いをする教育を展開しています。


生きながら心を失わないような生き方をしましょう。

心を失わないように、さらに心を育てられるように、体を大切にしましょう。

そして死んでも、心と一体である魂は失われることはありません。

死は、新らたなステージに移行することを意味します。

そこは神と共に生きられるステージです。

私たちが、頑張って生きなくてはならないのはそのためなのです。

頑張って生きている人にとって、死は決して怖いことではないのです。

ですから、頑張って生きられるように心身を鍛えましょう。

「頑張れること」ができれば、どんなに不治の病に侵されようと、身体に重度の障害があろうとも、心は健全に機能しているという証です。魂が喜ぶ学びをしていることになります。

しかし「頑張れること」ができなければ、心にとっても魂にとっても、実に残念な状態にあると言わざるを得ません。

映画「マザー・テレサ」の終わりの方で、年老いて行くマザー・テレサに周囲の人々が「休息を…」と言うのに対し、マザーはニッコリ笑い、「やがて私には永遠の休息が待っていますから…」と答えていたシーンがとても印象的でした。

「頑張れること」の究極の姿がそこにありました。

「頑張れること」は素晴らしいことであり、だからお互いに(ほぼ無意識の内に)「頑張ってね」と励まし合っているのだと思います。




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6月28日(日) 13:30~16:30 紫波町のオガールプラザ情報交換館2F小スタジオにて、”むすんでひらいて”「自然農~いのちのめぐり~」上映会&意見交換会が行われた(主催:NPO法人ポラーノの広場)。

これは、自然農の実践者として名高い川口由一(かわぐちよしかず)さんの講演と東京賢治シュタイナー学校の授業の記録映像だった。120分と長い映画だったが、腐葉土(植物の亡骸)を利用し虫や小動物たちの営みを含む自然のサイクルを利用した農業の世界が見事に描かれていた。

意見交換では、参加者全員が積極的に意見を述べ合い、感動的で有意義な学びの時を得た。産直を利用して紫波町から無農薬野菜の素晴らしさを全国に発信していこうという方向性も生まれた。今日は、残念ながら時間が無いのだが、いつか機会を得た時にでも詳しく紹介したいと思う。

その日は、母にお稽古をお願いしたのだが、現地に早く着きすぎた。たまたま会場で、若く美しいロシア人女性がタロット占いをやっていて、料金も500円と安かったので、占ってもらった。

彼女は日本語がとても上手だった。名前と職業を告げただけで、あとはカード任せだったのに見事に私の現在の状況を当て、明るい未来につながる良いアドバイスをしてもらった。

とはいえ、これはカードを利用した一つのカウンセリングで、不思議なものでカードの絵柄に影響されて、あれこれ引き出されてしまう。その引き出された情報を上手くまとめてもらったという感じだった。

もしカードがなかったら、初対面の人間にそんなに自分の内を語ることはできないだろう。カード自体は偶然に出たものかもしれないが、いつもの切り口とは違った方向性で現実を見るきっかけを作ることだけは間違いないようである。カウンセリングのツールとしてこれはありだなと実感した。




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あなたは本当の自分に出会っていますか?

私ってなんてバカなんだろう。

私ってなんてちっぽけな存在なのだろう。

そのように考えて落ち込んだことはありませんか?

そのように考えている人は、まだ本当の自分に会っていない人です。

私たちの肉体は、父方の血脈と、母方の血脈によってつくられた肉体によってできています。

つまり、血脈による身体と、脳が、ある意味、私たちに限界を与えているのです。

何であの人は、すぐに覚えられるのに、自分は何度やっても覚えられないのだろう…

何であの人は、すぐに応用できるのに、自分は単純なことすらまともにできないのだろう…

実は、こういったことは、血脈による肉体があなたに与えている限界が起こしていることなのです。

本当のあなたは、霊的な存在で、そこに居るあなたは長い長い生命の進化の歴史の中で培ったすべての能力を持った存在なのです。

時間にゆとりを作り、黙想する時間を持った方が良いのは、そこにあります。

より高い次元にアクセスし、まずは本当の自分に出会う必要があります。

宇宙の法則上、地上での修業を続ける上で、そのことを完全に引き出すことはできないのですが、感じることは十分に可能です。

自分の守護をしてくれる霊によって、たくさんヒントを与えてもらえることでしょう。

そして、まだまだ自分には、大きな可能性があることを感じられるに違いありません。

この肉体を鍛え、脳を鍛え、その能力を十二分に発揮できるようにすることが重要なのです。

もっとも重要なことは、これまでの進化の歴史の中では体験できなかった新たな体験をし、新たなチャレンジにより、これまで未体験だった壁を乗り越えることに意義があるのです。

得意なことばかりやっていては、無駄に時間を費やしているに過ぎないのです。

困難は、人を鍛えます。

困難は、奇跡を体験するためにあります。

奇跡体験は、魂の進化のために通らなくてはならない過程なのです。

肉体的に能力的にハンディがあるということは、そういう意味では大きな神の祝福です。

前世の行いが悪かったわけでも、先祖のせいでもありません。

神の世界に触れ合うために、とても必要なことであると知るべきなのです。

ですから、できない自分から逃げてはいけません。

本当の自分に出会えたなら、きっとそんな厳しい現実に立ち向かっていける勇者になれることでしょう。




P.S.
例えば、超頭の良かった人が60歳過ぎて、不幸にもアルツハイマー病になったとします。彼は、それまで築いてきた知識をどんどん失い、家族の名前すらわからなくなってしまいました。それは現実なのですが、それは彼の脳が故障してしまい魂からの受信ができなくなってしまったことに問題があるわけです。

つまり魂には全く問題はなくても、脳が故障してしまったので、そういった限界ができてしまったといえるのです。もし、発達した医学が、彼の脳を治すことができるなら、また元のように頭の良い彼が復活するわけです。

こう書くと、意味が分かってもらえるのではないでしょうか。本当の自分は身体や脳にあるのではなく、魂の方にあるという考え方です。

この人が、その後死んで、霊界に行ったなら、本当の自分に戻ることができます。しかし、霊界ではさらなる進化をするための修業はできません。それで、新たな自己開発を兼ねて新しい生命に生まれ変わってくるわけです。

そう考えると、恵まれた環境に生まれてきたから優れていて、悪い環境に生まれてきたから劣っているとは言い切れなくなってきます。なぜなら、困難を克服することこそが、魂の進化に必要なことだからです。

釈迦もキリストも、当時の差別的宗教観にあって、輪廻転生についてはあえて外して教えるしかありませんでした。当時の教育レベルはとても低かったからです。しかし、人類は教育的な環境を獲得し、そういった概念を差別的にではなく平等視できる高い次元でとらえられるようになってきているのです。

とはいえ、こういったことも「わからないこと」には違いありません。わからないことなのに、わかったと決めつけては科学の原則に反します。「ここまでは、何となく理解できたけど、ここのところはまだわからないから保留にしよう」で良いのです。きっとこれから解明されていくことと未来を楽しみに待ちましょう。

まず何よりも、自分自身のポテンシャルを最大限に生かせることが重要なので、自分の心に正直に、自分ならではの方法を見つけることが重要なのです。








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先週、パソコンが2度死んだ。1度目は、あまりのショックに気が狂いそうになって奇声を上げたりもした。2度目は、さらに深刻なトラブルだったが、聖母マリア様の保護を強く感じられたので、割と冷静に対処した。Windows 8.1に対応しておらず、前回、Windowsが立ち上がらなかった筈のバックアップソフトのブータブルディスクを用いてPCシステムを取り戻した。

目に見えない世界の研究をしている筈なのに、いざとなると幼子信仰に戻ってしまう。正しい歴史認識のつもりでキリスト不在説まで唱えていながら、この有様とは情けない。

20代は、この幼子信仰で、次々と奇跡を体験した。東京で自炊生活をしていた故、親と隔離された環境が得られたことが良かったのか、毎日が冒険のようだった。29歳の時に盛岡に帰ってきてからは、親(特に母親)の目が届くことで行動が限定されて冒険の出来ない状態となったたが、逆に精神世界の冒険を好むようになった。現在、両親が要介護者になったこともあるのだが、数年前から、私の冒険スピリットに火がつき、精神世界の冒険が本のことでは済まなくなっていた。

そして、現在、人生で一番の勉強の時を得ている実感がある。しかし、そんな時、何とパソコンの激しいトラブルで、あっけなくも幼子信仰に戻ってしまったのである。このパソコンが動かなくなったら、いくつかの計画が頓挫してしまう可能性があった。教育事業を続けることにも困難を感じてしまった。それだけパソコンに依存していたのだろう。

Windowsが立ち上がらなくなってしまった時、私の頭の中には「絶望」の二文字がよぎった。しかし、20代の時に助けられた聖母様のあの雰囲気に包まれ、「絶望」を「希望」に変えることができたのは不思議である。

あの時、私はルルドのベルナデッタのようにご出現の聖母様に会いたいと心から願った。そんな私が、いつの間にか、聖母様を遠ざけていた。自分はより正しい知識を得ており、幼子信仰には戻ることは決してないと思っていた。

ということで、自分は弱き人間であることを自覚して、長らくご無沙汰していた聖母様へのロザリオの祈りに取り組むようになった。つまり、基本に戻ったことになる。

これからは聖母様のご保護を得ながら、困難の伴う冒険を続けていこうと思う。

復元作業で心にゆとりがなかった。Excelの入力作業もあった。なのに、11時半に「時計を見なさい」という声が聞こえて、気付かせてくれた。

その前日、妻の不注意から、パソコン激しくトラぶってしまい、バックアップソフトから、今年の2月25日に復元できたものの、大量のテータを失ってしまった。どうでもいいデータは諦めるとしても、子どもたちのデータは復元しなくてはならない。

しかも手入力で復元しなくてはならず、あまり望ましくないことだが、子どもたちに教えながら復元作業をしなくてはならなかった。子どもの横とパソコンとをせわしく行き来しなくてはならなかった。前のデータが無いとまずいゆえ、後回しにできない作業でもあるからだ。そのため、ある女児が漢字検定のために11時半になったら帰らせてくださいとの親御さんの伝言をすっかり忘れてしまっていた。

しかし、不思議にも、目に見えない何者かが私に時間を教えてくれたのだった。

私には、こういった助けを得た証が実に多い。実に多いというよりも、日常の生活の中で頻繁に起こっている。もし、この声が聞こえなかったならと思うと、ぞっとすることが実に多いと言うことなのである。私は本番に強い。ホールでの声楽演奏然り、子どもの目の前で書を書くときも、そういう時にこそ一番のパフォーマンスが発揮できる。強力な守りがあるので安心して取り組めるのである。

私は、実に多くの目には見えない存在に守られれていると思う。

そのバランスとして、全く正反対の妻と生きているのかもしれない。妻は、目に見えない守りが弱く、ここぞという時に大きな失敗をするからだ。私と真逆のマイナス思考で、子ども時代に親から愛情を受けられなかった不幸を呪っている。あるいみ最強の相手なのだが、ということは最強のスキルが得られることだろう。

彼女は能力不足のため死にたいと口にした。「死んで虫にでも生まれ変わって、人に潰されてそれで終わりになりたい」と。しかし私は、「残念ながら人間に生まれると思うよ。人間に生まれることこそが、最も厳しい罰だから」と言ったら返答できなくなった。人間に生まれることは、最も素晴らしい祝福でもあるが、もっとも厳しい罰でもあるのだから。

そう自然に言葉が出たものの、何か新しい学びを得たような気がしてならなかった。

私は、現在、人生において最も有益な学びの時を得ている。シュタイナー教育もそうだが、まさに奇跡の書ともいえるヘレン・シャックマン著の『奇跡のコース』や世界的な神秘学会の学習システムで学んでもいる。以前には、『聖書』、『コーラン』、仏教の聖典、ヒンズー教の聖典、ユダヤ聖典など世界の聖典を読み漁ったことがあったが、最近になって、その全てに繋がりを感じられるようになった。脳科学をはじめとする医学系のブルーバックスを読み漁ったのも有益な情報となっている。

『聖書』は、キリスト教に批判的な学者の意見を尊重するなら捏造された書物なのかもしれないが、素晴らしいほどに機能している書物であるということは否定できない。学者たちが、歴史の真実に照らし合わせてどんなに批判をしようとも、耐えるだけの力が秘められているのだ。しかも『聖書』の予言は侮れないのである。つまり、どんなに批判的な文献に目を向けても、キリストの信仰を失う理由が全く見つからないのである。同時に、仏陀や、他の宗教の信仰も否定できないことが分かってきたのである。その全てに意味・裏付けが見いだせるようになったからだ。これは大きな収穫であった。

現在、収入的には厳しい生活をしているが、これだけの学びを得ながら、仕事で成功することは虫が良すぎる。

本番の成功は、これからの人生で味わうことになると信じている。まあ、仮に明日死んだとしても後悔はないし、この世に未練を残すこともない。死後、自分がどのような歩みをするかをイメージできているからだ。

神が命を与えてくださっている限り、与えられた使命を果たしていこうと考えている。

これからも、目には見えない存在に守られながら…

感謝を込めて生きていこう。



話は変わるが、マイヤ書道展に取り組んでいる。これは、県書写コンと同様、入選作品がスーパーマーケットに展示されるため、親御さんと書道を鑑賞できる素晴らしいチャンスが得られるのである。

しかも、マイヤ書道展から送られてきたお手本に結構感動をしている。芸術性が感じられるからだ。美しい線でありながら、微妙に強弱が付いていて、細い線と太い線を絶妙の配置で効果的にメリハリを作り出している。「祭」という字などは、今にも躍り出しそうである。子どもたちは、いつものお手本とは一味違う世界を感じられるに違いない。

癒し系の字を書く者。感情を激しく表現する者。子どもたちは、それぞれの個性を持っている。私は、ある程度お手本通りの書けるようになると、「自分が書きたいように書いてみなさい」と言う。すると、子どもたちは凄い書を書きはじめるのである。その子の素晴らしい個性を安易に評価されて良いのだろうかという疑問はあるのだが、教室内では、最高の評価をしてあげている。

子どもたちが、高い芸術性を身に着け、豊かで実りある人生を歩んでいって欲しいものである。