■『鏡花短篇集』川村二郎編 岩波文庫
「現実界を超え、非在と実在が交錯しあう幻視の空間を現出させる鏡花の文学。その文章にひそむ魔力は、短篇においてこそ、凝集したきらめきを放ってあざやかに顕現する。そうした作品群から、定評ある『竜潭譚』『国貞えがく』をはじめ、絶品というべき『二、三羽―十二、三羽』など9篇を選び収める」Amazon商品説明より
ようやく手を出した泉鏡花は、『高野聖・眉かくしの霊』の次に短篇集を読んでみた。書名に具体的なタイトルが入っていないわけだから、泉鏡花の読者には馴染み深くても、どちらかというとマイナーな作品が多いかとおもわれるが、やはりすばらしい傑作群で、作家の世界をもっと知りたいという気にさせる。
解説によれば収録作の半分くらいは『鏡花全集』で「小品・紀行」に分類されている作品を集めたようで、鏡花とおもわれる語り手がじっさいに存在する土地におもむいて、随筆的な文体を引きずりつつ、ふとした拍子に大岩の舌の湿った土とぬらぬらしたなめくじが露出するような感覚を描いていく。
異界のものの異質感をあらわすのに、現代の漫画ではたとえばコラージュ的な方法がけっこう用いられている。というのは僕の個人的な見立てだが、親しいところではGANTZ、それに闇金ウシジマくんがそうだ。ガンツはCGを駆使した細かな背景に異質な星人が浮かび上がり、ウシジマくんでは写真をベースにした背景に裏社会の番人たちが浮かび上がる。背景に広がる世界の秩序に関与するべきではない異質なもの、これが、あえてべたっとした貼り付けのような配置によって、皮膚感覚で伝わるようになっているのである。
そうした異質感と比べると泉鏡花の怪異はいかにも現実と地続きである。高野聖もそうだし、その原点といえるような本書収録の「竜潭譚」も、人物はいつのまにか、日が暮れるような自然さで、気がつかないうちに異界に迷い込んでしまう。この点でいえば、鏡花の文体は必然的に随筆的なものになる。コラージュ的手法は、背景にリアリズム的な客観的現実があってはじめて成り立つ。ぼやっとした背景に人物を貼り付けてもそれはただ稚拙なだけととらえられる可能性がある。鏡花は、そうではなく、主観的な「旅の記録」からまず手をつける。これが、あるとき、実体験であれひとから聴いたはなしであれ、暗い触感となまぐささのようなものを帯びはじめて、我に返ったときにはすっかり異界のなかにいる。リアリズムが描く「背景」は、漫画だろうと小説だろうと、読者にかんしても作者にかんしても、基本的に「誰が見てもそうとらえるであろうもの」として了解されている。そこにコラージュ的に浮かび上がる星人に恐怖を覚えることは主観だが、それが成り立つための条件が、留保なしの共通了解としてスルーすることのできる背景なのである。これに対して鏡花の世界は別に他人からの了解を求めていない。雛人形が自然に動いたように見えても、じっさいに動いたのかどうか検証しようとする衝動が出てくることはなく、第三者にその確認を依頼することもない。もちろん、鏡花の作品はだいぶぶんひとから聞いたはなしだともいうし、それを奇妙な体験として他者にパスすることはあるかもしれないが、それはそのことによってその体験を普遍化しようとするものではないはずだ。こういう体験をしたと、言葉によって物語はパスされるが、そのことによって原典となりうる体験が聖化されるということもない。ただ、物語はそこにあるのであって、そのスタンスはやはり随筆や紀行文のものにちがいないのである。
高野聖のときの記事で立てた仮説だが、人間には神話を受け取る回路が、物語に感情移入したり、それを批評・分析したりする感性の外部にあるのではないかということを以前書いた。こういうことを考えたのは、前回読んだものがほとんど説話体だったからである。まるで神話を語るように誰かが語っていることを聴き手が書き取ったものが小説になっていたのだ。これが、作品におそろしい立体感を与えていた。しかし、たとえば高野聖で、旅の僧が巨大なヒルの群れに血を吸われる恐怖を語るのを聴いて鳥肌をたてるとき、わたしたちは、その語り手である僧と、それを聴いている聴き手の、どちらに感情移入しているのだろうか。僕にはどうもそれはどちらでもないように感じられたのである。このとき、語り手が語るはなしを聴き手が聴いているという状況それじたいが呼びこむものが神話が存在可能となる環境なのであって、そのとき、それを受け取る回路が動き出すのではないかと考えられたのである。この神話的リアリティの働きは、現代では都市伝説で見られる。よく知っている知人から直接聞くより、知人の兄の友人のいとこ、とかの体験談として聞いたほうが、わたしたちはリアリティを感じやすいのである。
この視点からいうと、説話体における体験は、語られ、パスされているときにだけ存在ができる。神話というか、たとえば昔話なんかがそのたぐいだ。桃太郎でもなんでも、それらのはなしをわたしたちは「誰か」から聴いたのだが、その「誰か」も、じつはべつの「誰か」から聞いている。そうやって手繰り寄せてもけっして終点には至らず、原典を特定できない、そういうものが、この類型である。しかし、本作ではむしろ作者というか体験しているものが完全に判明している。紀行文的文体だからといってそれが鏡花じしんであるということにはならないが、とりあえずここには語り手と聴き手の構造がないものが多いし、体験している人物がただ語っているだけのパターンがほとんどだ。これは、随筆的文体を通して体験を私的なものとして物語をいったん閉じたものとし、普遍化を回避することで、ほかならぬ自然からのパスを受け取っている、ととらえることができるかもしれない。神話は、自然というものを表現した結果だ。アフリカとか北アメリカとかの部族に伝わる神話は、近寄った共同体どうしで似通ってはいるが、微妙に違っている場合が多いという。それは、人間の器を超越する自然というものを、人間の手の届く範囲にある概念で表現しようとした結果なのだ。だから当然、神話は、それを語るものどうしの差異をそのまま浮かび上がらせる。私的な語りがここで有効になるのは、手持ちの道具がそれしかないからなのである。そして、実のところ、私的な紀行文が直面する怪異は、最初からじぶんの器を大きく越えたものであり、それを言葉に変換しようとする局面で一種の翻訳が始まる。この私的な経験は、物語のオリジナルではなく、じつは翻訳なのである。だから、都市伝説的体験の伝聞をたどっていって、もし、本書のような私的な文体に出会うことがあっても、それは実はオリジナル、「原典」なのではない。「最初に行われた翻訳」なのである。
いつの間にか異界に迷い込んでいた、という、ある種のパターンも本書ではいくつか見られるが、そのほかにも、このやりとりはどこかで見たことがあるとか、このひとはあれに出ていたあのひとによく似ているとか、そういうことが非常に多い。そういう意味では、もっと鏡花の作品に親しんでから読んだほうが発見が多いとおもうが、まあそれはいつでもできることでもある。そういうのを考慮しなくてもすばらしい傑作ばかりだ。
古文調の典雅な文体は美しく、妙なところで中断する独特の感じも中毒性が高いが、そうはいっても本書は高野聖よりずっと難しかった。僕が古文の勉強をさぼっているせいだとおもうが・・・。特にその紀行文的なものは問題なしといえるとおもうが、そうではない小説形式のものや、随筆風でも風景や事物の描写が多い箇所ではたいへん苦労したし、当時の時点でもすでに古くなりつつある風俗や宗教的な描写など、正直いってわからなすぎて少し読み飛ばしたぶぶんもある。独特のリズムに最初は戸惑いつつも、慣れるとそれが快楽になってくるようなところがあるので、多少読み飛ばしても空気感が損なわれないというのがまた厄介である。こんな読み方をしていたら三島由紀夫に怒られる。鏡花の感性に親しんで語彙を豊かにしていくためにも、数をこなしていかなければならないだろう。