今週の刃牙道/第190話 | すっぴんマスター

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(※注:ゲーム攻略サイトではありません)書店員。読んだ小説などについて書いています。基本ネタバレしてますので注意。気になる点ありましたらコメントなどで指摘していただけるとうれしいです。

第190話/おさばら

 

 

 

 

 

 

 

 

 

今週の副題は「おさらば」の間違いである。たぶん。ずっといってるとどっちが正解かわからなくなってくるけど・・・。

 

 

 

たたかいは意識の起こり以前の地点の読み合いになっていたが、武蔵はそれさえも先取りして、一種のフェイント、餌としてこれを利用し、バキをコントロールする。こうなるともはや手が出せない、少なくとも膠着する、とバキが考えたかどうかはわからないが、とりあえずバキは奇妙な行動に出る。ささっていた刀をどちらも抜いて、いっぽうを武蔵にパスし、じぶんは鞘から抜いてぶら下げるのである。

武蔵からすれば、刀を持たないことは一種のてごころでもあっただろうし、現代の闘法を少しでも多く吸収したいから、勝負がつくときはすぐについてしまう武器をなるべく使いたくないということがあったろう。刀を使っても勝てない相手には勝てないだろうが、少なくとも刀をつかって勝つということは、一瞬で勝負が決まるということなのだから。また、武蔵としては自在の境地を存分に試したいという気持ちもあっただろう。それをバキがみずからはじめる。武蔵はなめられているように感じたかもしれないし、純粋になにを考えているのかわからないとおもったかもしれない。

バキは例の肖像画の武蔵の立ち方して、あんたの真似だという。というか、ふざけて顔真似をしているようにしか見えない。吉本新喜劇のすち子が悪意ある物真似をして煽るみたいにやっているのだとしたら、かなり上手というか、ムカッとくる感じだが、武蔵はそういうふうには受け取っていないようだ。

 

 

真似てどうするかと武蔵に問われて、バキは「アンタの領域だから」という。表面的には、このバトルが武蔵の支配するものだから、武蔵と同様のことをしなければいけないと、そんなふうに受け取れる。しかし、武蔵としてはイメージ刀やそれに類する攻撃で何度も斬っているという感覚がある。つまり、刀をじっさいにもっていたなら、すでにバキは終わっていたはずなのであり、それをバキみずからが武蔵に刀を持たせようとするのは、これが仮に武蔵の領域であったとしてもおかしいではないか、ということだ。しかしバキは、別に武蔵が強すぎるから、武蔵の領域にじぶんもいく、というようなことをいっているわけではなく、むしろ気遣いであるらしい。ここでバキは例の武蔵を葬る、屠る宣言をくちにする。刀なしのまま屠るのは気の毒だと。武蔵はバキのあたまの心配だ。誰が誰を屠るのか。バキは、武蔵とはここでおさらばするつもりできたと明かす。それは武蔵もそうだ。ただし残るのはじぶんである。残ってこの国を斬り登る。頂上から国を見下ろすと、武蔵が真上を指差して、インターハイを目指すサッカー少年みたいないい笑顔でいう。

その武蔵を、バキはなにか哀れんだような表情で眺める。ここは斬って登れるような場所(くに)ではない、そんなことは武蔵だってもう気付いているはずだと。そうして、例の「ここにいちゃダメ」が発動する。なにをするつもりなのか。バキはその場で刀を振りかぶる。人差し指で保持した武蔵の持ち方だ。これを投げるのである。顔面にとんできたそれを武蔵はなんなくキャッチ。刃のぶぶんを握っている。刃は、すべったときに切れる。だから、握った瞬間に完全に停止するような握りかたでなければこれは切れてしまう。武蔵のすさまじい握力あってこその反応だ。

が、すでにバキはダッシュしている。信じていたと。この結果なにが起きているか。左手は、最初にバキがパスした刀を握っている。そして右手はいま投げた刀でふさがれた。結果いま武蔵は瞬間的に攻撃にうつれない。左の刀は鞘に納まったままで、右の刀は刃のぶぶんをもっているのだ。かくして武蔵は、バキのすさまじい蹴りの直撃を顔面にくらうことになる。久々の気持ちいい一撃だ。武蔵は意識をとばしている。そして、まず離すことのない刀を、両手とも放ってしまう。

 

 

空を舞う刀をバキがキャッチ。そうして、おそらく気絶していて、しかも刀をもっていない武蔵を、バキが見下ろすという図が完成したのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

つづく。

 

 

 

 

 

 

 

武蔵が投擲に対してキャッチで応じることを、バキはこれまでのたたかいで学んでいたのだろう。武蔵も、反応はできているのだから、ふつうにかわすとか、刀で打ち落とすとか、いろいろできるはずだが、そこは、富と名声を求める彼である。「うおおッッ手で捕ったッッ」「きッ切れないの!? 手ッッ」という観客の反応こそが、武蔵の期待するものである。彼は実戦のひとで、その結果リアリストであるが、同時に価値観のひとでもあるので、つねに「どう見えるか」が意識されている。そうでなければ名声は得られないからである。だから、こういう局面でもなるべく難しい方法を選んでしまう。手は動かしても身体のほうは微動だにしていない、というのも、劇場型ファイターとしては点数が高いだろう。

これを理解したうえで、バキは今回の作戦をたてた。気になるのは投げる直前の握りである。ちょっと、僕はボールを投げたりという経験がないのでわからないのだが、野球などでじっさいのところ握りの強さはどの程度関係してくるだろう。ひとついえることは、武蔵のあの人差し指保持は、打ち込む瞬間に握りこむためのものであるということだ。空手でも、構えているときの拳はゆるく握り、打ち込む瞬間にもっとも強く握りこむ。刀においては、この握りこみがそのまま威力に加算される。というのは、小指から握りこむ動作は、刀の軌道と一致しており、腕や身体の働きにてのひらの内側における回転の力が加えられるからである。しかしこれを投げるとなると、この握りはあまり意味がないように感じられる。くりかえすように、投擲において、どの段階でどの程度強く握るのかということを僕は知らないが、少なくともそれを放る瞬間に強く握ってしまったのでは、むしろ威力は減殺されてしまうだろう。投擲するにあたってゆるい握りがよいということで武蔵の持ち方が採用された、というだけのことかもしれないが、もうひとつ、ここではバキの作戦も見て取りたい。つまり、これは「アンタの領域」を踏まえているのだ。武蔵はそれまでのところバキの意図をはかりかねていた。だが、なにか裏があるかもしれないくらいのことは考えただろう。その状態でバキが投擲のフォームに入る。ふむ、刀が飛んでくるなと、武蔵は理解する。このとき、バキが武蔵特有の握り方をしていたらどうだろう。「アンタの領域」発言が武蔵のなかでフォーカスされないだろうか。そしてそれが、武蔵に疑心を抱かせない。結果、いつものようにキャッチすると、こういうことではないだろうか。

 

 

 

そうしたところでバキの発言をふりかえってみると、彼は武蔵の真似をするといっているわけである。表面的には、武蔵のような構え(と顔真似)をして、武蔵のように刀をつかうと、このように読み取れる。げんに、おそらく武蔵は握りをみて、それ以上の意味を掬いとることをやめている。だから、これは、武蔵の両手をふさぐこの作戦のための虚言であったわけだが、同時に、そのままの意味であった可能性もある。つまり、こんなふうに策を弄することじたいが、武蔵の真似なのである。武蔵だって、電気信号にすぎないとはいえ、意識の餌を撒いてバキを誘い出し、攻撃しているのだ。身体能力の勝負だけではなく、このレベルでは戦術もものをいう。その点でバキが武蔵から学ぶことは少なくないのである。

また、これまでも読みも含めてもっと広義のとらえかたをすれば、これは武蔵の自在が知覚しているシナリオを、バキも盗み読みしているというふうにも見ることができる。

武蔵の「自在」は、僕の見たところでは、いっさいのとらわれから自身を解き放つことである。刀を使用するためには、当然のことながら、刀を手に持っているという条件が必要になる。しかし、これがときによって行動を限定する条件となることもある。関ヶ原とおもわれる戦場の描写で、武蔵が素手の攻撃にも長けていたことが描かれたが、あれは、こうしたことの延長線上にある。刀そのものは強力な武器だが、自身を有限なものとする条件でもあり、さまざまな事物が入り乱れる戦場では、そうしたことが有利に働くばかりとは限らない。刀が切れなくなったのであれば、鈍器や防具として用い、最後には放り、敵の刀などが回収できないようであれば、それまで素手でなんとかすると、こんなことをしていた可能性は、たしかにあるのだ。これが「自在」の境地を呼び込んだ。どのような条件にもとらわれない、自ずから在ることが達成になっているような、仏教的状況である。ただし、そこには大枠が必要にもなる。座禅を組んであらゆる思考や煩悩を除いた状態になってしまっては、敵の攻撃に応えることができないし、これを仕留めることもできない。ここにはそのような最低限のアウトラインが必要になる。だから、しばらくその状況に対応し続けることが要求される。武蔵が「馴染む」ということばをつかったのはそのためだ。バキという相手、またたたかいを行うこの環境等の情報がだいたい出揃ってきて、シナリオの大枠が見え始めたとき、はじめて「自在」起動する。このなかで、どんな条件にもとらわれない武蔵は、前もって用意してあったシナリオを読み上げるように、試合の展開に対応していく。そうでなければ、意識の起こり以前を、意識外のところでキャッチしているようなバキの、さらに先をとることなど不可能である。

こうして見たとき、今回のバキの行動はいかにもシナリオを読んでいるふうなわけである。たぶんそれは、武蔵のやりかたとはずいぶんちがうし、「信じていた」という言い方からしても、半分くらいは勘で行動しているところがあっただろう。しかしそれはたいして重要ではない。バキはたしかに、シナリオを組み立て、それを読み上げるように行動して、会心の一撃を加えることに成功したのだ。これが、バキが武蔵の「真似」をしたということの深層的な意味だろう。バキが自覚しているかどうかは別として、ここからは「あんたが訳知り顔で読みきっているそのシナリオを、じぶんも読ませてもらった」という意味が感じ取れるのである。

そして同時に、武蔵はこのとき「自在」を損なわれている。それは、武蔵がバキの行動を理解できないとして、幾度も問いかけている状況からもわかる。「自在」は、状況の外郭をつかむことではじめて起動する。しかしここに、予測不可能なバキの奇妙な行動が挿入された。げんにバキは半分ギャンブルでこの行動に出ているので、なおさら理解が難しい。これが、武蔵が把握しきったととらえる外郭をゆさぶる。そして、武蔵は正しく、行動を限定される。把握しきったはずの状況の外側から飛んできたふたつの刀をつかみ、これをもつという条件に束縛されることで、つかんだ自在が消し飛んでしまっているのである。

 

 

武蔵はいまでも斬り登る野望を捨てていないらしい。バキはこれを哀れむような表情でみて、わかっているはずだという。たしかに、現代の日本では暴力で羨望を浴びることは難しいだろう。だが、原理の次元では、武蔵は着々と斬り登っている。国の治安を司る警察、これの精鋭部隊であるSTATは武蔵ひとりに全滅させられ、これを裏から相対的に規定するヤクザ代表の花山も、武蔵に完敗した。もはや武蔵の存在を否定可能な機関はこの国に存在しない。むろん、まだ自衛隊などの大きな火力を備えた機能はあるが、これらは国の文法に則ったしかたでは働くことができないと首相のくちから語られてしまっている。つまり、「この国の法」というレベルでみると、もう武蔵を「いちゃいけない」ということはできなくなっているということだ。法律違反だという意味で武蔵を責めることは、バキであれ勇次郎であれ、もうできないのである。だから、もし「いちゃいけない」が言説として有効になることがあるとすれば、それは「わたくしの主観において」ということである。劇場型ファイトをする武蔵と、悪役たる彼をやっつける正義のチャンピオンという図式も踏まえて、ここになにかファシズム的な気配が感じられたものだが、歴史上のファシズムがそうであるように、なにかバキじしんはあくまで「おせっかい」としてこれを行っているふしがある。これを正しいこと、第三者的にみて正義であることとして、武蔵を「いちゃいけない」としているようなところがあるのだ。これが今週のあの憐れみの表情みたいなものから感じられるのである。

ただまあ、皮膚的な実感として、武蔵が思い描くような富と名声は、仮に日本中の警察官とヤクザと単独で皆殺しにしても、得られることはないだろうなとはおもう。だいたい、いくら日本が小さな国でも、どのような行政機関も経由せずに一国の頂点に立つことなど不可能であるのだし、もし武蔵単独の武力が国の頂点に立つようなことがあるとすれば、それはやはりかつての食客的な、すでに権威を帯びている光成のような人物の認識を経由した、「権威的な人物による権威づけ」という筋道を通らなければ不可能だろう。こういうふうに考えると、いかにも武蔵の夢は夢である。ただ、武蔵の生はピクルを経由してリセットされているともいえる。現世に誕生したときから武蔵は「あの宮本武蔵」としてあつかわれ、いってみれば、生まれたときから武の頂点にいた。はっきりいってしまえば、武の世界で国を見下ろすためには、武蔵はなにもしなくてよかったのである。しかし、現世のものが認識する「あの宮本武蔵」の多くが、創作や過大、あるいは過小評価を経由した歪んだものであり、多く見誤られているということを肌で感じた武蔵は、この世界でいちから存在の権利と名声を獲得しようとしたのだ。これが例の対国家篇と花山篇である。これが、彼に存在の権利を与え、そして、ピクルとの対話を通してはじめてこれが行使された。ピクルは現世で唯一の斬り放題、バキが素手で独歩たちと語るように語ることのできる存在だった。だから、ピクルを通して、武蔵はじぶんを社会化することができたのだ。

こういう経緯で、武蔵は現世におけるネオ武蔵としての足場を獲得した。おそらく武蔵が夢みている「斬り登る」は、以前までの富と名声的な意味とともに、こうした意味で自己を確立する、という意味も含んでいる。かつての世界でどこかの藩主に認められ、武で生活を立てていたように、この世界における武蔵として武をもとでに生を切り開き、この世界における新しい名声のありかたを確かめようと、そんなふうに考えているのではないだろうか。それも、価値観がちがいすぎるというか、あんなにざくざくSTATを斬り殺してしまったあとではむちゃな願いだが・・・。