『高野聖・眉かくしの霊』泉鏡花 | すっぴんマスター

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(※注:ゲーム攻略サイトではありません)書店員。読んだ小説などについて書いています。基本ネタバレしてますので注意。気になる点ありましたらコメントなどで指摘していただけるとうれしいです。

■『高野聖・眉かくしの霊』泉鏡花 岩波文庫

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「北陸敦賀の旅の夜,道連れの高野の旅僧が語る,若かりし日に僧が経験した飛騨深山中の怪異陰惨な行脚物語.「高野聖」は自由奔放な幻想の中に唯美ロマンの極致をみごとに描き出した,鏡花文学の傑作である.併収の「眉かくしの霊」は木曽街道の旅話に怪談的詩境を織り込んだ作者晩年の佳作」Amazon商品説明より

 

 

 

 

 

 

 

去年の『草枕』あたりから、いや芥川あたりから、文学史の教科書などで名前と作品だけは覚えているが読んだことはないものをじっさいに読んでいってみよう、という衝動が持続していて、これもその流れで手に取った。この時期の作家ではいかにも傍流という感じがして興味があったし、なにかこう、悪くいうひとをまったく見かけないというタイプの作家で、前から読もう読もうとおもっていたが、ぱらぱらめくって目に入る文体がいかにも古くて、長いあいだ今度でいいやってなっていた。

 

 

説話体というのか、特に「高野聖」のほうは、語り手、といっていいのかどうか難しいところだが、この人物がある旅の僧と出会い、奇怪なはなしを聞くという構造で、口語であることを意識してあるためか、泉鏡花の天才性とはまた別に、当時における口語の書き方の、不思議な傾向みたいなものに慣れるまでは少し苦労したが、逆にいえば慣れてしまえばどうということもない。たとえば、わたしたちの日常でも、はなすときにいつも主語や目的語を省略するひととか、あるいは逆にそこに至る経緯までをいちいち説明しないと気がすまないひととか、いろいろといるわけだが、会話文を文章に落としこむとなったとき、こうした個性をどのように抽出するかということになると、いまもむかしも難しいことに変わりはないのである。といってもそれはいわゆるキャラ立ちというようなことではなく、もっと原理的なことだ。鏡花に限らず、明治期の優れた文学については、文章をざっと眺めたときの古めかしい印象が読んでいくうちに消えてしまうということはよくあるが、とりわけ「高野聖」にかんしては言文一致などということよりもっとシンプルに説話、ひとりの人物がじっさいに話していることの聴き取り、という形式であるから、技術的にはより高度であると考えられる。小説の言葉を、候文をこえて、日常でつかっている言葉で構築しようとなったとき、では、その小説のなかにあらわれる、鍵カッコで括られた会話文は、どのような温度になるべきなのかということは、おそらくけっこう難問だったとおもうのである。

 

 

「高野聖」は、その旅僧が、語り手と出会うほんの少し前に体験した怪異の物語だ。ちょっと説明が難しいが、僧の視点で語られる物語で、まず富山の薬売りという、なかなか腹の立つ人物が登場する。で、このひとと同じ方向に歩を進めることになるのだが、そこである分かれ道にぶつかる。一方が本道で他方が旧道。地元のものに聞くと本道を進むのがまちがいなく、旧道はなにかと危ないようだ。しかし、僧より先に出た薬売は旧道をいってしまった。このまま見殺しにするのは、なにか腹が立つからわざとしたようで、気が責める。そういうわけで、彼も旧道をすすむことになる。が、これが蛇や蛭のうごめくおそろしい森である。とりわけ大量の、また巨大な蛭の描写は、100年以上前に書かれた小説とはとてもおもわれない迫力と克明さであり、なかなかぞっとしたが、これをぬけたところで、僧は白痴の夫をもつ美しい女が住む家にたどりつく。女は美しく、解説でも熱く語られているように、乳房が放り出される描写にも物質のエロティシズムより耽美的な神々しさのほうが勝っており、僧は非常に清らかな恋心のようなものを抱えてしまったようである。しかしこの女は、ひとを動物に変えてしまい、また、ほとんど自然を意のままに動かしているかのような超自然的人物であった。といっても女はあやかしなのではなく、人間であるというところが、薬売が先に行った分かれ道、という点からはじまる超俗と凡俗のあわいという感じがしておもしろいが、いよいよこの女の家に身を沈めようかと決意するところでこうした事実を知り、いまこうして語り手に物語を聞かせていると、こういうおはなしだ。

この説話体にかんしては、解説でも書かれているように、「ひとが話す物語を書き取る」という形式によって、たいへんなリアリティを呼び込むことに成功している。これは、考えてみれば都市伝説などが奇妙なリアリティを帯びるのと構造的には同じだ。つまり、うそ臭いはなしを、知人の体験としてそのまま聞くより、その知人もまた別の知人から聞いた、という流れで聞いたほうが、わたしたちはリアリティを感じやすいのである。うそ臭い顔した友人が「昨日いった日雇いのバイトが死体洗いの仕事でさあ」とかいううそ臭いはなしをするのを聞くより、「友達の兄ちゃんが誰かから聞いたはなしなんだけど、死体洗いのバイトってのがあるらしいよ」と聞かされたほうが、なにかほんとうのような気がしてくるのである。おそらくこれは、むしろじぶんの生活範囲からは物語が分離しているために、いまその物語を聴き取るわたしじしんの生活をはずし、純粋な物語のみを感じ取ることになるからではないかとおもわれる。旅の僧の語りは長く、節をまたいで鍵カッコで括られた会話文が続くこともあるが、ときどき、思い出したように、展開上はほとんど不要とおもわれる聴き手(語り手)の相槌などが挿入される。これは、あくまでその語りが、わたしたちではなく、語り手に向けられたものでああるということを読者に思い出させるためだ。もしこの語り手の存在が、読者と旅僧のあいだにはさまれていなければ、つまり全体で僧の会話文のみで小説が構成されていたら、これほどのリアリティは保持されなかったろう。

しかし、ではその、わたしたちの生活圏からは分離された物語を、それとして受け取るとき、わたしたちはどの立場でこれを聴いているのだろう。つまり、小説を小説として受け取ったときに、わたしたちは語り手と僧の、どちらに感情移入しているのだろう。これが、実をいうとよくわからない。蛭の生々しさを感じているのだから、ふつうに考えると僧なのだが、しかし感情移入という言葉をつかってみると、なにかちがう感じもしてくる。というか、僕の読解力や感受性の問題もあるかもしれないが、僧の女に対する感情それじたいは、たとえば恋愛小説を読むときのように迫ってくるわけではない。こうしたことから考えて、ひょっとすると、わたしたちには説話体を受け取る独自の回路が、物語を受け止めて感情移入したりする回路とはまた別に備わっているのではないか、というような仮説に至るのである。たしかに、「高野聖」には鳥肌がたつような種類のリアリティがあり、それはたとえば、死体洗いのバイトについて(元ネタは大江健三郎だけど)聞いたときに思い浮かぶ、洗浄液の上にあがってくる死体の膨れ上がった指や鈍い灰色だったりするわけだが、それは別に、死体を攪拌しているものに感情移入している(その不快感を共有している)というような種類の接続ではないわけである。わたしたちには、物語を聞いて、その主人公になりきる(感情移入)という読み方のほかに、伝え聞いた物語を、独自のフォルダにおさめ、独自の感受性で受け止める回路が、別にあるのではないかと、このように感じられるのである。

 

 

泉鏡花じしんはいわゆる「オバケ」の存在を確信していた種類のひとらしく、ちょっと前に読んだ『幽霊学入門』にも何度か登場していた。東雅夫の「近現代日本の幽霊文学史をたどる」によれば、江戸草双紙の流れにある様式美の作家として鏡花はとらえられがちだが、じっさいは「事実談の生々しさと意外性を随処に留めた怪談実話系の作品が主流」ということだ。「高野聖」だけでなく、いくつもの怪異譚が、知人から見聞したものであることがわかっているらしいのだ。ただ、ここであげられているいくつもの作品が、どういう文体で記されているかは不明である(読んだことないので)。なのでここでは「高野聖」に限ることになるが、そうやって知人から聞き取った物語を、そのまま「聞き取る物語」として仕上げてしまうところには、やはり重要なものを感じざるを得ない。つまり、このような怪異の物語は、説話のなかでしか存在することができないと、そのことを、「オバケ」を信じている鏡花じしんが、よく理解していたということなのではないか。

「説話のなかでしか存在することができない」というのは、要するに、誰かがはなすその物語が、実は別の誰かから聞いたものであり、そのものも、さかのぼってみると別の誰かの体験談としてそれを受け取っていた、という具合に、原典を見つけることが不可能である、ということだ。これはたとえば昔話なんかはぜんぶそうなわけである。有名な、たとえば桃太郎とか、そういう昔話は、作者も原典もない。だから、似たような物語が乱立しても(子供向けに出版するために、出版社は細部を省略したり、あるいはあるぶぶんを誇張したりということをどんどんする)それを考証することはできない。“聖典”がないのである。これは神話も同様で、たとえばアフリカとか北アメリカとかの部族の神話を調べると、近寄っている部族どうしでよく似た神話をもっていても、細部が異なっていることがよくある。しかしそれは、「原作」があるわけではないので、どれもそれぞれにオリジナルであり、ほんものの神話だ。神話は、基本的にそれを語るものの手持ちの道具(生活用品や与している自然のありよう、また言語)によって構築される。つまり、神話を語るものはブリコルールである。彼らは、手持ちの道具で、じぶんたちの生の背後にある宇宙について語ろうとしているのだ。このとき、近寄った共同体でよく似た神話が語られるのは当然のことだ。近寄っているぶん、環境や使える道具、また言語にも近親性があるのであり、それを用いて自然を語ろうとすれば、よく似てもくるのである。そうして、ある意味では「原作」であるところの、言語化不可能な混沌としたマグマのような「自然」を、わたしたちの祖先は言語として抽出しようとしたはずである。隣り合った共同体の、微妙に異なった神話は、むしろその差異でもって、和音のようなものを形成し、あぶりだしでもするように宇宙を指し示していく。

このことを考えたとき、となると、説話というものは、短期的にであれ長期的にであれ、それが語り継がれていく過程においても、よりその和音を分厚く複雑なものにしていくのではないか、とおもわれたのである。誰でも「神話」を語るときにはブリコルールになる。原作もないある昔話について真に語ることができるのは、わたしが聞いたことのあるその昔話を、手持ちの言語で解体・再構築したときだけなのだ。

 

 

こうして考えてみると、「オバケ」派の鏡花が説話体をとったことも、たんにリアリティを求めた結果ではないとおもわれてくる。「オバケ」を信じるということは、それの存在する背後の世界をたしかなものとして想定するということにほかならない。だが、それは現実のことわりで説明することはできない。ただ、神話として、個々のブリコルールとしての受け取り方がもたらす差異によって、外部から縁取っていくように示していくしかないのである。