今週の刃牙道/第176話 | すっぴんマスター

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(※注:ゲーム攻略サイトではありません)書店員。読んだ小説などについて書いています。基本ネタバレしてますので注意。気になる点ありましたらコメントなどで指摘していただけるとうれしいです。

第176話/屠り去る

 

 

 

 

 

 

 

 

 

軽いジャブでサンドバッグの反対側が破けてしまう刃牙。これはかつて、技術の豊饒さという点ではバキも認めるところであった烈もやっていたことだ。これを、手打ちのなんでもないジャブでやってのけてしまう。範馬の血にたよらず、技術面でも、すさまじい達人になっていることがうかがえる。

こんなものをくらったら武蔵だって倒れる、的な言い方をする鎬昂昇だが、バキはそれを否定し、殺しちゃおうとおもってると応えたのだった。

 

 

昂昇はこれをバキらしくない言葉だという。昂昇は独歩が話していたことを語って聞かせる。あの武蔵が、ホンモノの武蔵かどうかという議論らしい。いや、このひとたちの理解ってまだそんな段階なのかよ。それともずいぶん前のことなのかな。現実問題、こういうことが起こったとして、果たしてじぶんが信じるかというとたしかにあやしい気もするが・・・。作中の、グラップラーよりのキャラでは、唯一、インテリの木崎だけがはなしを理解している感じである。彼らにもわかりやすい説明を木崎にお願いしたい。

独歩は、ほかのところでも似たことをいっていた気がするが、あの武蔵が本当のホンモノ、実物かということは、どうでもいいという。じぶんたちたたかう者からしたら、そんなことの確認より、事実として彼がホンモノ並みに強いということのほうがはるかに重要なのだ。昂昇は、じっさいに立ち会った独歩の証言を重く見る。実力的には実物とちがわないわけだから、実力で相手を計る彼らからすれば、それはつまり実物ということなのだ。これを、倒すとか勝つではなく、殺すというのかと、こう問い詰めるのである。これは、いまいち昂昇の意図がつかめないが、それだけの実力者を殺せるのか、という意味だろうか。てっきりバキが倫理的に問題のある発言をしたから、普段は比較的温和な「バキらしくない」といっているのかとおもったのだが、そうではなく、あれほどの実力者をかんたんに殺すといってみるなんて、まるでそこらへんのチンピラみたいで、「バキらしくない」と、こういう意味っぽい。あるいは、それほどの実力で、実質ホンモノの宮本武蔵といえる人物の文化財的な価値を踏まえて、それを殺すというのはどうなのか、という意味ともとれるけど。

バキはさらに「殺す」「葬る」「屠り去る」と、表現を重ねて、じぶんのいっていることが昂昇の理解と少しもちがわないということを強調する。社会的に殺すということでも、チンピラが口癖のようにいう「殺す」という意味でもなく、端的に命を絶つという意味なのだと。なにをしにきたのかけっきょくよくわからなかったが、道場を去りつつ、バキは言い訳するように、「いちゃいけないんだあの人は」と付け加えるのだった。

 

 

 

そのころの武蔵。彼には秘密裡に警察の尾行がついているらしい。警察の武装集団と花山を倒すことで、武蔵は実質的に、じぶんの存在の権利を獲得した。もはや彼の存在や行為をとがめるもの、とがめることができるものは、国内の公的機関には存在しない。かといって武蔵を野放しにするわけにもいかない。たとえば、花山のときのように突然たたかいがはじまったとき、安全面でも、また警察が武蔵に対しては機能していないということを隠す意味でも、人払いをすることには意味がある。とりあえずは武蔵の行動を追い、把握して、そのときどきで対応するしかないというのが、現状の警察の状態だろう。なので、尾行がバレてはいけない。武蔵はアンタッチャブルなのだ。

ところが、武蔵はマンホールをあけて地下の下水道に入ってしまった。尾行そのものは可能かもしれないが、これでは秘密裡に行うことはできない。

 

 

武蔵は下水道を観察しながらゆっくり歩いている。と、けっこうな大きさの蛇が目にはいる。ハブらしい。襲い掛かってくるこれを武蔵はなんなくキャッチ、親指で首をもぎとり、肉を歯でつかんで一気に皮をはぐ。これは、夜叉猿とたたかうために飛騨にやってきたバキがすれちがった、訓練中のレンジャー部隊もやっていた食べ方だ。蛇を食べるときの皮のはぎ方なのだろうが、しかしこれを生で食べちゃうというのは、なんというか、消化器官とかの問題なのかな、ちょっと考えられない。だいたい毒とか大丈夫なのかな。描かれてないけど、こう、腺みたいなものを抜いているのか?

おさかなソーセージをおやつに食べるみたいに、武蔵はこれを「蝮よりうまい」などといいながら食べ、歩き続ける。下水道には、巨大な蛇や鰐がうようよしている。ピクルが出てきたときに描写されたことだが、ペットの鰐とかが逃げて、こうしたところで異状な成長をとげているのだ。鰐なんかは大きくなくても脅威だし、次に武蔵がまたいだ蛇なんか女の子の太ももくらいの太さがある。電灯とかふつうについてるから、役所の職員とかもたまにはここにやってくるわけだよな。どうやって仕事してるんだろ。

やがて、なにものかに食われたとおもわれる動物たちの、大量の骨の山が見つかる。武蔵の反応からするとどうも最初からこれを探していたっぽい。背後に巨大な影。振り返った武蔵は、そこにいるピクルに、またでかくなったな、などというのだった。

 

 

 

 

 

 

 

つづく。

 

 

 

 

 

 

 

はああ、せっかく本部が守護ってくれたのに、なぜかまたピクルの再登場である。

とはいえ、武蔵には敵意が感じられない。帯刀してはいるが、どうも斬りにきたという感じではないっぽい。しかし、それまでの雰囲気では、明らかに武蔵はピクルそのものを探しにきている。もしそうだとすると、武蔵は、たたかう以外のなんらかの用事があってピクルに会いにきたことになる。言葉を話せないピクルにいったいなんの用があるのだろうか。

武蔵戦のときのピクルは、最終的に武蔵の斬撃衝動というか、斬ることが楽しくてしかたないという異常な感性に触れて、これに恐怖し、逃げ出している。これを本部が抱きとめて以来の登場なので、おそらくピクルは武蔵を克服してはいない。これは強さ以前の問題で、ピクルはすぐ逃げ出してしまうような気がする。武蔵がいくら速いといっても、ジャックが視認できないほどの速さでステップするピクルを走って追い抜くことはまずできないだろう。ピクルのステップは、体格差のある恐竜を相手にする際、これを埋める立体的な攻撃をするためのものである(と僕は考えている)。ステップで攻撃を回避すると同時に、岩や木を蹴って恐竜の頭にぶつかっていくようなしかたでなければ、そもそもからだの大きさがちがいすぎて、攻撃すべき箇所に触れることすら難しいからだ。それほどの瞬発力は、さすがにバキや勇次郎でもないだろう。つまり、単純なジャンプ力や短距離ダッシュのことだ。武蔵が反応に優れ、素早く細やかな動きができることとは、根本的に異なった速さなのである。

しかし逃げられては用事が果たせない。武蔵はなんらかの方法でこの逃走を防ぐはずである。ではそのあと彼はなにをするのか。あの勝負は、ピクルが逃げて、すぐに本部があらわれてしまったから、けっきょく勝負なしみたいになっている。武蔵じしんは、そんなふうになってしまったピクルを斬りたくはないといっていた。その勝負を最後までやりきろうとしにきたのだとしても、おそらくまだ武蔵への恐怖心は克服されていないピクルは逃げ出すし、そんなものは武蔵も切りたくないとなるはずである。ではいったいどのような用事があるのか。刃牙道に入ってピクルが登場したとき、なにかこう、弟子入りじゃないけど、武蔵がピクルを育てるなんていう展開もありうるんじゃないかとは夢想していた。生まれつきの強者であることへのシンパシーを武蔵が感じているというような描写もあった。ひょっとしてその展開が改めてやってくるのか。

 

 

武蔵がなにをしにきたのかはわからないし、どちらにしても来週わかることなのでいいとして、ふと考えたのは、ピクル戦のときに、武蔵は、ピクルがあまりに頑丈で「斬り放題」なのを、非常に喜んでいたわけである。真剣をつかって勝負する以上、前世で行われたどんな勝負も、ほとんどの場合、一刀で勝負が終わってしまう。腕だけ落として、まだかかってくる相手がいたとか、例外もあるとはおもうが、原則的には、斬るということは相手を殺すということであり、斬り続けるという状態にはまずならないのである。それが武蔵は歯がゆかった。もっと斬りたい、だから立ってくれと、そんなふうに願っていたのである。そこで出会ったピクルが文字通り斬っても斬っても、むしろ強くなってかかってくるから、武蔵は大喜びでこれを受け止め、けっきょくはその悪魔的オーラをピクルが巨大蜂として感じ取り、退散させてしまったのである。この「斬り放題」問題なのだが、基本的にはやはり武蔵のマッドな衝動を指し示すものととらえてよいだろう。しかし、よく考えると、この、仮に「攻撃がうまく当たっても相手が倒れず、たたかいを続行できる」という状況は、現代のたたかいそのものなのである。武蔵は、一撃で相手を殺すことを目的とする刀を帯びながら、無意識には現代的なたたかいを求めている可能性があるのだ。

 

 

武蔵が斬りたい衝動を解放したとき、ピクルは彼に蜂を見た。このイメージをピクルが見るのははじめてではなく、最初はジャックとたたかったときだった。強烈な打撃で顔の下半分を粉々にし、倒れたジャックを泣きながら食べようとするピクルが、気絶したジャックに蜂のイメージを見たのである。幼いころのピクルは、この捕まえるのにも一苦労の蜂を食べたとき、毒のせいか、口のなかが火山になる経験をした。食べた蜂は、死んでいる。つまり、ピクルの認識では、死んでも攻撃してきたということになる。ピクルのジャックへの予感は正しく、ピクルが去ったあと近寄った光成の頭上で、ジャックの両中指がちょうどピクルの耳の位置に、とらばさみのように閉じたのである。ジャックは気絶しながらピクルを葬る用意ができていたのだ。

言語をもたないピクルは、このトラウマを蜂の宿していた毒、つまり蜂本体とは別のものと解釈することができない。とにかく、死んでも攻撃してくるものがいる、「死」で終わらないたたかいがあるということをピクルはこのとき学習し、それをジャックに感じ取ったのである。そして、このことを武蔵にも感じ取った。厳密には斬りたい衝動を解放した武蔵である。ピクルは武蔵にかんして、「死」の不在を感じ取ったのではないかと考えられるのだ。つまり、武蔵の「斬りたい衝動」は、それがもし成立することがあるとすれば、「斬っても死なない身体」が存在したときである。ピクルはその頑丈さでこの条件をほぼ満たしたが、それはほとんど偶然のことで、武蔵が斬るという行為を持続するためには、その世界から「死」が除かれていなければならないのである。武蔵が「もっと斬りたい」と願い、こうあってほしいと夢想する人体、またそれにより構成される世界には、「死」がないのである。いまさらだが、そう考えるとピクルがなぜ武蔵に蜂を見たのかが鮮やかに見えてくる。ピクルにとっても「死」は重要な概念である。彼にとってすばらしいたたかいをすることのできる強者はすべて親友であるが、しかし彼の時代では、たたかいに勝って倒したものはすべてじぶんの食料である。つまり、ピクルにおいては、すべての親友は食料なのである。どのような親友とも、彼自身の食事による「お別れ」をしなくてはならない。だから泣く。泣きながら食べる。この「別れ」が、わたしたちが知るところの「死」である。「お別れ」を理解しているピクルは、死というのがもう二度と会えない、たたかえないという事態であることをきちんと理解しているのだ。

ところが、ピクルが倒した蜂は死んだのに「お別れ」することがなかった。この経験が、死んでもいなくならないという、現代人にとってみれば幽霊みたいなものとして、ピクルには受け止められた。いつまでも相手を斬り続けたいと願う武蔵は「死」を否定している。ひとことでいえば、彼はいつも、切り伏せた相手に「死なないでくれ(もっと斬りたいから)」と願ってきたのだ。だから、この欲望を満たせるピクルと出会って、斬りたい衝動を解放した武蔵は、そうした、「死」の欠落した世界を武蔵の側から表現していることになる。くどいようだがピクルがあれだけ斬られて倒れなかったのは偶然である。斬り続けることができると喜び、その「斬り続ける」という動作を続行しようとした武蔵が存在可能なのは、「死」のない世界だけなのである。ピクルは武蔵の姿にそれを見た。そして、「死」の欠落した存在として彼が唯一参照可能だった幽霊的存在が、蜂だったというわけである。

 

 

さて、では、武蔵のまとう「死」の欠落と、その姿に同時に重なる現代的な傾向は、どのようにつながっていくだろう。おそらくこれが、武蔵がピクルに会いにきた目的と重なっている。また、バキがその逆に、武蔵を殺そうと、つまり死なせようとしていることも、この先やってくるなんらかの落としどころを暗示している。それを見出すにはまた辛抱強く描写を待たねばならないが、現段階でいえることとしては、両者が寄せ合うようにして、いままで(武蔵じしんのたたかいも含む)なかったたたかいの位相が生まれつつある、というところだろうか。武蔵のスタイルを、ピクルは不気味なものとして受け取った。だからこそ、理解できないものとして記憶されていた蜂の経験と、脳内でこれが同化してしまった。しかし、同様にしてこれを変態的な傾向、「理解できないもの」として受け取りながらも、言語を介して思考が可能な我々は、これをむしろ現代的な格闘技のありように近いととらえることもできる。どちらも発想は比喩を考えるときと同じだ。ある点、AとBがどうしても結びつかないとき、そして、しかし直観的には結びつくはずだとおもわれるとき、Aによく似たなにかを思い浮かべ、これがBによく似たものに結びつくという事実が、思考のガイドラインとなることはよくある。これが比喩ということだ。よく理解できない悪魔的オーラを発し始めた武蔵を前にして、ピクルはなにか不安を感じる。それがなんだかはよくわからない。だから、過去の記憶を探り、それが蜂と同質のものだと気づく。なんだかはわからないが、とにかくあの蜂と同じようなものが、いまのこの相手には含まれていると、その比喩を経由して、ピクルは考えたのである。わたしたちの場合は、武蔵の斬りたい衝動をそのままに受け取れば、ただの狂ったひとということになるが、ピクル同様、これをなにか似ているとして、現代格闘技を思いつくことは難しくないわけである(僕はいま思いついたのだが)。つまり、これを「死の欠落」とみるか「現代的視点」とみるかは、観察するものの立場によっているだけで、武蔵のほうに起こっていることにちがいはないわけである。両者は同じものを見ているのだ。ただ、その「現代的視点」にしても、武蔵の「斬り放題」が、現代の格闘技の文脈で可能、ということではない。そこではやはり刀が大きな壁になる。もし武蔵に催眠術でもかけて、刀と拳にちがいがないと認識させることができれば、武蔵において「斬り放題」の世界は実現されることになる。と同時に、現代のファイターからすると武蔵はじぶんたちの次元におりてきたことにもなる。武器をつかって本領を発揮する本部の打撃で、現代のほうが当て身はうえだと判断する武蔵であるから、いくら優れた資質の持ち主であっても、ふつうに素手でたたかったのでは分が悪い。第一、バキたちはそんな武蔵では納得しないだろう。

いっぽう、バキのほうは、武蔵を殺すとはりきっている。バキはやはりまだ「いちゃいけない」という文脈にいるようだ。何度か書いたが、武蔵が「いちゃいけない」世界は、彼が警察と花山を倒したことで消滅した。いるべきではない、いちゃいけないという言葉遣いは、大義のようなものを感じさせる。しかしそれはもうない。ここからは、同じ「殺す」なのだとしても、バキはみずからの判断でそれを行わなくてはならない。前回、バキはここのところを乗り越えたと感じられたと書いた。で、たぶんじっさい乗り越えているんじゃないかとはおもう。遵法意識的な客観ではなく、「おれはそうおもう」という観点から、バキは武蔵を語らなくてはならないのだ。で、昂昇の道場を去る直前に、やや言い訳めいた調子で「いちゃいけない」とつぶやく様子からは、やはりその「おれはそうおもう」という雰囲気が感じ取れるのである。

バキの発言の背景に広がる世界はそうだとして、バキじしんの考えはどうだろう。バキは、武蔵は現代にいるべきではないと考える。だから、殺して、存在を消そうとする。この観点では、死は端的にピリオドである。ここがおもしろいところだ。バキは、現代格闘技のチャンピオンで、彼自身が油断体質であるぶん、再戦ありきのたたかいをくりかえしてきた男だ。いわば「斬り放題」が原理として実現されている世界の住人なのである。これが、「死」によるピリオドを求める。やはりこれは寄せ合っているとみていいのではないだろうか。武蔵にとってピクルは、「斬り放題」が実現可能な対象である。つまり、バキが独歩や烈とたたかうようにたたかえる相手が、武蔵ではピクルだけということになる。となると、武蔵はピクルとたたかうときだけ、バキのような現代のファイターが体験している現代的なたたかいかたをすることが可能になるということだ。ポイントはここだろう。このまままたたたかいがはじまるとはおもえないが、ピクルとのなんらかのコミュニケーションを通して、武蔵は現代格闘技の、つまり「バキの視点」を獲得するのではないだろうか。