すっぴんマスター

すっぴんマスター

(※注:ゲーム攻略サイトではありません)書店員。読んだ小説などについて書いています。基本ネタバレしてますので注意。気になる点ありましたらコメントなどで指摘していただけるとうれしいです。

小説家志望です。


バキ道、九条の大罪の感想を毎週書いてます。


基本的に読み終えた書籍についてはすべて書評のかたちで記事をあげていっています。


ちなみに、読む速度は非常に遅いです。


その他、気になる小説やマンガ、映画など、いろいろ考察しています。


あと、宝塚歌劇が好きです。







原則リンクフリーですが、コメントなどを通して一言ありますとうれしいです。







【noteをはじめました(有料記事)】↓



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安いものだと100円くらいで読めます。携帯料金に加えて支払うこともできます。無料で読めるものもあり。いちどのぞいてみてください!週1~2本ペースで更新中。


漫画家批評①福満しげゆき


漫画家批評②押切蓮介


漫画家批評③真鍋昌平


漫画家批評④板垣恵介


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【2020】


・『店長がバカすぎて』早見和真


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・『近代立憲主義と他者』江藤祥平


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【2019】


・『82年生まれ、キム・ジヨン』チョ・ナムジュ


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・『言語接触』嶋田珠巳ほか


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【2018】


・『田舎教師』田山花袋


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・『戦後的思考』加藤典洋


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バキ感想最新・バキ道


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 ・過去記事・刃牙道



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ウシジマ感想最新(最終章ウシジマくん)



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※週刊連載の感想は発売日翌日以降の更新です(現在、特に更新期限は定めずにやっていますので、ご了承ください)。




記事の内容によってはネタバレをしています。ご注意ください。


(闇金ウシジマくん、範馬刃牙は、主に本誌連載の感想を掲載しています)


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第133審/日常の犯罪⑯



市田による烏丸母へのインタビューを終えた九条と烏丸。一時はどうなることかと思われたが、最後にはわかりあうことができた。烏丸母も九条を気に入ったようである。


いっぽう、しばらく描写がなかった曽我部である。出雲の子分である井出におどされているところだ。出雲が奪いたい大麻部屋が空っぽで、どうなっているのか詰められている。泥棒が入った感じになっているので、曽我部や百井的にはおそらくヤクネタの求馬のせいにしてしまいたいところだ。しかし泥棒はおそらく入っていない。なんらかの方法で移動させたのだ。


部屋には監視カメラがあるので、管理している百井に聞けばなにかわかるのでは?と井出がいうのを曽我部が持ち前の、というかほぼ正直な発言とおもうが、「ぼくはなにも知りません」スタイルで乗り切ろうとする。井出としても曽我部は振ってもなにも出てこないという感じかもしれない。殴られて鼻血の出ているところを弾いたりして軽くおどすにとどめ、とりあえず出雲に連絡する。

求馬は伏見組の末端らしいが、構成員かどうかはよくわからない。出雲も知らない。とにかく小物だ。求馬は金本の派手な車を譲り受けて乗り回しているらしいからすぐ見つかるだろうと。そう…。曽我部いじめが大好きなそのふたり、繋がってんのね。

だが井出もまるまる曽我部を信じたわけではない。信じてないっていうか、曽我部なので、当てにならないという感じかもしれない。別の線もあたるという。なんだろうな、のらのことはバレてないとおもうが、買い手など脅して突き上げ捜査的に別ルートからたどるのかもしれない。



求馬は「ウーパールーパー」という名前で売人をしている。公衆トイレの前で買い手の「蟹江腰巾着」と待ち合わせだ。とりあえずトイレのなかへ…と誘い、ももちとナイフで暴行、金だけ奪ってしまう。金ずるの曽我部と連絡がとれないから、こうしてちまちま稼いでいる。が、それは百井に返す金である。へんな関係だよな…


続けて「令和ぽんぽこ」と待ち合わせ。相手は車に乗っている。しかしそれは、伏見組のものなのである。たぶん、何度か登場している鍛冶屋だ。ほかにも何人かいる。スタンガンなどで求馬はあっさり捕まるのだった。


求馬のウーパールーパーのアカウントは曽我部が教えたものらしい。すぐ吐くだろうと井出はいうが、求馬はやっていない。求馬が死んでくれたらいいが、こんなことで殺されるはずもなく、この嘘は急場しのぎでしかないので、曽我部は気が気じゃないだろう。


部屋でのこの様子を、インタビューを終えたあとののらがスマホでみている。あんな感動的なやりとりのあと、細い目になってすごむのら、いいな…。


じっさいに部屋から大麻など動かしたのは、のらの腹心の髭鼠だった。てっきり伏見組に呼び出されたとき百井が手を打ったものと思われたが、もともと不安を感じていたのらが、なんらかの方法で状況を知ったか、あるいはたまたまのタイミングでかで、髭鼠に命じたらしい。


と、のらがなにかに気がつく。カメラ越しに気づいたのかな。曽我部を連れて事務所に戻ろうとする井出、それを、警察が囲む。嵐山である。なぜ麻薬取締官でなく組織犯罪の嵐山が?と井出は訝しむ。

ともかく逮捕。嵐山は曽我部がいることに驚いているので、曽我部が心配したようなルートでの逮捕ではないらしい。


カメラはたしか部屋の外にもあったし、一連の流れを把握しているのかもしれない。のらは即九条に連絡する。ついさっきのヒューマンドラマ的なやりとりもあり、さすがののらもちょっと気まずそう。だが、とにかく曽我部聡太が逮捕された。九条の出番というわけである。




つづく



なるほど、こういう流れで曽我部はふたたび「依頼人」になるわけね。


しかし、こののらから九条の連絡の流れ、大丈夫かな。のらはおそらく、部屋のなかや外をうつしていた監視カメラ越しに事態を知っている。それが九条に知られるのはいいが、どうあれ「九条はどうやって曽我部本人から連絡がある前にその逮捕を知ったのか」というはなしにならないだろうか。


「日常の犯罪」では、曽我部がまた悪いことしてるらしいということで再犯率の高さが話題になり、直近の烏丸母やのらとのやりとりでは被害者を癒すしくみがないことに触れられた。どちらもいわばソースとして薬師前が出張っているのが印象的だが、今回のはなしはぜんたいにそうしたシステムの瑕疵について述べられているようである。「日常の犯罪」を通して読むときの印象では、まずは近頃あらわれはじめた闇バイトが直接の元ネタなんだろうなというふうにみえる。だがそもそも闇バイトがなぜ成立してしまうかというと、社会的困窮とその不可視性、犯罪・福祉両面への知識不足が当然ある。つまり経済と教育両方向にわたる格差だ。そこにSNSの易さが悪い意味で影響する。社会的困窮じたいは、マルクスの時代からいわれている、もはやシステムのともいえないような、人類の瑕疵のようなものかもしれないが、教育格差は新しいともいえるかもしれない。要するに、「それは悪いことだ」という状況への感覚の鈍りである。仕事の細分化とSNSを通じた軽さのせいで、はっきりした自覚のないまま悪事を働いてしまうものもいる。冷静に考えたら悪なんだけど、あまりの手軽さと、見せられている世界のせまさに、感覚が麻痺してしまうのだ。これはたんに教育を受ける機会の不平等というようなことだけが問題になる事態ではないのである。教育のほうでも予期していないような微細な悪が活発になってきているというはなしなのだ。そして、善良な市民もふつうに使っている適法なSNSが、同様のアルゴリズムを使って、それら微細な悪を合体させ、実現してしまうのである。


こうした、わたしたちを豊かに、健全に生活させる「システム」は、しかし常になにかをとりこぼす。おもえばこれは九条の大罪を通じてのテーマでもある。彼と対立する兄の蔵人は、ロゴスのひとだ。彼の世界では、世の出来事はなにもかも法律文書で解釈可能である。しかし、そうした完全性は常にふたしかさを宿すものだ。極端に言えば、蔵人の世界観では、法律が想定していない事態や人物は存在しないことになってしまうのだ。法律、つまりシステム、もっといえば「言葉」を、どんなときも真である第一原理にすえるということは、そういうことなのである。


九条は、そうしたとりこぼしを見逃さない弁護士なのだ。しかし彼は三次元人なので、ひとりしかいない。誰も彼も救えるわけではない。では誰を救うのかというと依頼人であると、こういうはなしである。九条は革命家ではない。現場のひとだ。だからシステムの改善のほうには向かっていかない。なぜなら、彼にはいま目前にいる依頼人、困っているひとのほうが、緊急度が高いからだ。システムが変わらなければ曽我部は曽我部なりの合理性をもっていつまでも犯罪を重ねるだろう。だからこれは、どこまでも対症療法というか、絆創膏を貼るような行為をでないかもしれない。でも、いま曽我部は痛がっている。これが、依頼人が「依頼人である」という状況であり、九条が自認するところの弁護士の役目なのだ。


のらの気持ちの切り替えはちょっとかっこよさすらあるが、娘の存在がのらをのらにしており、そのためにはやく危険な仕事から足を洗ったほうがよいのではというぶぶんと、その娘のために非合法でも稼がなければいけないというぶぶんの、背反する原理が彼女にはあり、いまはそれが解消するかもしれない大事な時期である。なんとか危害が及ばないでほしいと願っていたが、とりあえずは嵐山が介入したので、ヤクザ的危機は去ったとみてよいだろう。ただし、むろんのこと、嵐山は警察であり、のらはこの件の黒幕なのである。いつも通りカンモクパイが通れば、曽我部ではなしはおさまるだろうけど、令状まであり、嵐山もなにかつかんではいるらしい。カンモクパイってたしか証拠がない場合じゃなかったっけ。嵐山はなにをつかんでいるのだろう。









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第132審/日常の犯罪⑮



烏丸母がリモートで市田のインタビューを受けているところだ。烏丸母のそばには烏丸が付き添い、市田の近くには九条と、被害者のひとりだったのらがいる。


烏丸母は烏丸晃子(あきこ)という名前だ。九条は、晃子同様、のらも苦しんできたのだと説明する。名前を言われて驚く晃子に、九条、烏丸両者からあの裁判を九条が傍聴していたこと、鞍馬検事は九条の父親であることが告げられる。


そこへ遅れて薬師前がやってきた。のらが胸の内を明かそうというところだ。いまでも夢の中で犯人に襲われて、叫び声で娘を起こしてしまう。あのような事件では、被害者はじぶんが助かった事実をなかなか受け入れられないと九条が解説。理解はできても、そこには助かってしまった罪悪感がある。つまり、生還を受け入れたところで楽になるわけではないのだ。

すぐに険悪な雰囲気を察していた薬師前に、無茶振り司会者のように九条がこの解説のつづきを丸投げする。日本では被害者支援は加害者の100分の1だと。刑務所では職業訓練やカウンセリングなど、更生、社会復帰の用意がまがりなりにもあるが(それじゃダメだというはなしも以前にあった)、被害者はない。行き届かないというより、理解が及ばないという感じだろう。システムがそれを知らないのだ。



「罪を償う仕組みはあっても、傷を癒す仕組みはない。


人を守る法律が人を置き去りにしているのが現状です」



薬師前の具体的なはなしを受けて九条がいう。


そうして弱った状況に、世間のひどい言葉や無関心が追い打ちをかける。


晃子も状況は理解している。ふつうの生活に戻らなきゃいけない。しかし心が追いつかない。息子には救われてきた。しかし、時間を奪っているような感じがして申し訳ない気持ちもあったと涙ぐみながら晃子はいう。横に座る烏丸は、会いたくてきているのだと優しく語りかける。愚痴ばかりで重いだろうということについては、九条と働くようになってから重いはなしに慣れたと、微妙になぐさめにならない冗談もいう。この笑えない冗談の感じ、母親ゆずりだったんだな。


持ち直した晃子が非礼を詫び、のらに娘がいることを聞く。のらは、突如たがが外れて、涙をポロポロこぼしながら気持ちがわかるという。生き残った罪悪感だ。助かってよかったねと言われるたびここれが軋む。いまでもありありと思い出される凄惨なあの現場。なんでもない街の音があのときに重なる。胸が締めつけられ、からだが硬直する。悪夢で何度も飛び起きる。そんな日々にあらわれたのが娘だった。「自分のため」という虚勢が、娘のためならなんでもできるという気持ちに変わった。だからいまこうして感謝を伝えにこれた。いままで考えることを避けていた烏丸たちに目を向けることができるようになったのだ。


なにかがほどけたようになった晃子は、のらや娘と会う約束をする。九条もだという。

インタビューを終え、晃子は換気扇をふさいでいたテープをはがし、陽の光を感じるのだった。



つづく



のらも烏丸母も、互いに地獄を抱えていた。それが分かち合われ、回復の兆しを見せたいい回だった。


晃子は、ふつうの生活に戻らなきゃいけないのに心が追いつかないとしていた。しかし、ほんとうはそうではない。「ふつうの生活」は表象でしかない。心穏やかなら、引きこもっていたっていい。それがなによりも楽だというなら、いまのままでかまわないのだ。そうではないから、彼女は苦しみ、まわりもなんとかしようとする。なぜなら、それは過去に執着するということだったからだ。

これは今回ののらの証言でより鮮明になった。過去にとどまる、過去に執着するのは、たとえば晃子では、夫が死んだことを認めたくない、生きていてほしいという願いによるものだった。しかし同時にそこには、「その先」にすすんだところでなにもない、それどころかいまより悪いという感覚もあったのである。結果、晃子ものらも苦痛のなかにとどまることを無意識に選択してしまう。のらでは、生き残ってしまった罪悪感が「その先」にあるわけだが、残された晃子にもその感覚はあったろう。過去にとどまることでもたらされる苦痛はこれを解消するものでもあったはずだ。


どうすればここを抜け出せるのか。のらでは「娘」が決定的となった。生き残った罪悪感とは、「なぜ死んだのが他のひとでじぶんではなかったのか」ということだ。犯人の恣意や偶然が、現実的にはそれを左右したわけだが、そういうはなしではない。この感覚の裏側には当然、それはじぶんになりえた、また肥大して「じぶんが死ねばよかった」にやすやすと転じうるのである。これを解除するにはふたつの道がある。ひとつはもちろん、このような呪いから逃れることだ。犯人の恣意や偶然がじぶんを生き残らせたという客観のみを容れて、そうした負の感覚を忘却するのである。しかし現実にはそのようにうまくはいかない。いちど刻まれたこころの傷は人格を形成するいち要素となるから、それを忘れるということは、人格そのものを改変したり、部分的に抹消したりすることを意味するからだ。

ではどうするかというところで、ひとは必然性に救われる。じぶんが生き残った「理由」をはめこむ物語を創出するのである。


じぶんが生きていることには理由がある、必然性がある、このように考えることで、こころの傷がもたらした人格的歪みはそのままに、呪いは解除される。しかしこの視点には新たな苦痛の芽がある。それは、死んだひとへのまなざしのなかにある。自分が生き残ったことには理由がある。とすれば、死んだひとにはそれがなかったことになる。そんなはずはないのに、みずからの生の必然性を強く感じるほど、この差異の感覚は強まってしまう。だからひとは“弔い”をするのだろう。じぶんにできて死んだひとには可能性のレベルでもできないこととは、その死者を弔うということだけだ。この使用法の範囲では、“弔う”という動詞はほとんどなにも意味せず、同時に多くを意味している。生還したものが亡くなったものをまなざし、その死を悲しみ、やすからな眠りを願うときわたしたちがすること、それが“弔い”なのだ。苦しみ抜いた彼女たちがようやく見つけた「必然性」は、このとき弔いになる。だからのらはやっと烏丸一家にまっすぐ向き合うことができたのである。



晃子においては、のらという、夫が救った生命が、娘を通じて必然性を獲得したという事実が、彼女を救うことになった。過去から逃れるためのいちばんのくすりは、時間はすすんでいるという物理的事実を知ることだ。しかしそれはただ知るだけでは不足だし、逆効果の可能性もある。必要なのは納得だ。晃子は、のらと娘の存在に、現在に至るまでの時間の流れを遠く感じとった。その上で、晃子もまた夫を弔わなければならない。夫をきちんと死なせ、じしんの生に必然性を見出すのである。今回ようやく彼女はその一歩を踏み出せたのだ。










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第55話/一対多



神心会本部、愚地独歩による実戦風模範組手で末堂が秒殺、新たに強そうな門下生3人が同時に挑む!


大会の演武で一対多を実演することはある。しかしあれは芝居だし、打撃にしても回避を前提で打ち込まれる。真剣白刃取り

みたいなものだ。しかしこれはちがうと克巳は考える。3人はみんな大会上位入賞者レベルらしい。“速射砲”長谷川、“超強打”三島、“重戦車”竹。ふたつなっていうか、雑誌やテレビが命名するには工夫がなく、よくあるやつで、克巳がいま考えたのかもしれない。体格のちがいはよくわからないが、長谷川は軽量級なのかも。これが独歩に襲いかかる。日本空手道史上初の、筋書きのない一対多組手とまで克巳はいう。いやいやそれは嘘でしょう。空手道史上どころか、神心会でふつうに例がありそう。


開始とともに3名が異常に気がつく。真ん中に棒立ちの館長が透けて見えたと。目をこすってしまうほどリアルな透明感だ。まず館長は克巳なので、人間違いをしているという可能性もある。


動揺する3人、特に竹に、独歩が動くよう圧をかける。竹はほとんど恐怖からなかなかパワフルな前蹴りを放つ。が、当たらない。それどころか、すりぬけるように独歩が背後にまわっている。そして脇腹あたりへの重い後ろ蹴り一撃で昏倒。もう一対二だ。同時にいけよ…


三島の左上段。これもすりぬける。三島の後ろ襟をとる独歩。気体か液体のような独歩のミステリーに門下生一同、驚きを隠せないのだった。


つづく



達人のたたかいは難解だなあ…


攻撃をかわされて、相手を液体のように感じる、というならわかる。刃牙もたまにやってるやつだ。動きが最小限なのでとらえられず、すりぬけたように感じてしまうのだ。しかしこれはちがう。ただ立ったるときから竹らはそれを感じているのだ。これは、多数を相手にした結果、たとえばすばやい動きなどで透明になっているという状況ではないのである。しかし、それでいて透明化は開始と同時に起きているので、多数を相手にするためにそうした、と考えるのが自然だろう。結果、動揺を誘い、それが関係しているのかいないのか、攻撃はあたらない。1と3ではどうやっても3が大きいので、その場からいなくなっちまえばいいのよ、みたいな理論だろう。


独歩はアライジュニア戦で、ここからが真剣勝負だとすることで距離を見誤らせたことがある。あれは別にそれが目的だったわけではないとおもうが、ともかく、ちょっと気分を変えるだけで場の空気を一変させるすごみのようなものを持っているのだ。これはまるで超能力のようだが、わたしたちの日常生活でも、不機嫌さで場をコントロールするようなひとがいて、それは露骨な動作ではなく、気づかないひとは気づかないものだったりする。これとそう遠くないのだろう。独歩レベルでは微妙な構えや表情の変化でそういうことができそうだ。それは戦術的に使用した感じかもしれない。


多数相手に、その多数分の戦力をもてるのが理想ではあるが、そして独歩はたぶんひとりで3人分を上回るとはおもうが、これは模範組手である。多数の門下生もみている。こういうわけで、独歩としてもなるべくスマートに、達人らしく勝ちたいところなのだろう。










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第131審/日常の犯罪⑭



2026年春、Netflixドラマ化に向けて、主演の柳楽優弥、松村北斗のコメントが掲載されている。ドラマ化については追って記事を書く(つもりだ)が、とりあえずビジュアル的には文句なく、製作者の履歴もいい感じで、かなり楽しみだ!薬師前が池田エライザなのもだいぶいいとおもう。というか池田エライザしかいない気がする…



今回は巻頭カラー、九条と烏丸が、横並びの国会と皇居、立憲主義と象徴天皇制に、この国独特の構造をみている。「理屈で立って感情で揺れる」とは烏丸の見事な評言だ。


ふたりは市田による烏丸、また烏丸母へのインタビューのため待機中である。いまから、というこのタイミングで、母親はやっぱりいやだと電話で言い出す。ひとことでいえば事実に、現実に、世間に直面するのが怖いというはなしだが、服が若い頃ので似合わないとか髪がへんだとか、第三者からすると首を傾げてしまうような理由づけだ。烏丸いわく、ユーモアのある変わったひとなので、そういうのもあるかもしれないが、「出かけられない理由を探す」みたいなことではなく、案外そんなものなのかもしれない。服が似合わないのはそれが古いからだ。しかしそれを「似合わない」と評価するちからはある。それを第三者に見られたくない、つまり、過去にとらわれて現実を生きていないことを第三者目線で知りたくない、という反応なのである。


弁護士になった息子がそばにいる、という心強い状況で母はようやく決意する。むかえにきた烏丸が見たのはマスクやメガネで完全に顔を隠した母親である。別にそれでもいいが、なんならリモートでもかまわないと烏丸が提案。声だけでもいいと、すでにつながっていた電話で市田がいう。


市田も緊張している。電話の先には市田と九条、それにのら。のらは命の恩人の家族に会うということで張り切ってオシャレしてきたがむだになってしまった。


市田は、過熱する煽動的報道で家族は傷つけられてしまったが、どのような思いだったかと訊ねる。夫は人を助けるために死んだのに“裏の顔”とやらをやたらに暴かれ白い目で見られてきた、真実を語る機会もなかったと母はいう。市田はその記事を書いたのはじぶんだと告げる。数字がほしいばかりにろくな裏どりもせず烏丸一家を社会的に殺したと、かなり勇気がいるであろう告白とともに謝罪する。母は、マスコミから謝罪を聞くのは初めてだとしつつも、当然受け容れはしない。今度は許しとお金が欲しくなったかと。


見かねて烏丸が標本のクワガタの写真を母にみせる。即気持ち悪いとするのが烏丸母らしさなのだろう。これは烏丸が父親ととったクワガタだ。母は、そのあと手は洗ったのかとか、帰り道に食べたサンドイッチが忘れられないといえば防腐剤と添加物がとか、トンチンカンな応答ばかりだ。まるでいま虫取りから帰宅した息子と話しているようなのである。

烏丸父は烏丸を喜ばせるのがうまかった。そして、誰かを守れという背中を見せてくれた。しかし母からすると、そのせいで夫は死んだのである。


のらが話し出す。母親も最初は驚いている。のらは、数年経ってからネット掲示板で烏丸遺族が残酷な目にあっていることを知ったがなにもできなかったという。事件当時は子どもで、リアルタイムでの騒ぎは追ってなかっただろうが、動ける年になってからもなにもしなかったことはのらにも悔やまれたのだ。しかし、あまりにも強烈な体験である。死体もみたはずだ。しかたないようにもおもえる。母親も当時のことは特に何も言わない。

のらはその後、ひとを守るちからが欲しくて自衛隊に入った。しかし現実は情けなかった。「決断する権利すらない組織」とは強烈だ。そこには主体性がなく、内部では上にぺこぺこして下に偉そうにするみっともない状況ばかりだった。

幻滅したのらはいまひとに言えない仕事をしている。烏丸母は、異様な反応速度でのらのこの言を拾う。ちゃんとした職業をしていたらまだ報われた、無駄死にだと。ありうる言説なのだが、のらの告白からほとんど間髪入れず言っているので、まるで前からそれを知っていたかのようだ。つまり、のらを否定できる材料が出てくるのを待っていたのである。


のらは涙を流して謝る。なにも出来なかったことを責められれ状況はありえたろうが、この責められかたは予想できなかったかもしれない。烏丸母は一方的にはなしを終了させようとし、市田が失礼を詫びる。が、失礼なのはどっちだかと、ここで思いがけず九条が介入するのだった。




つづく



予想をはるかに超えて殺伐としてしまったが、そこへ九条がだいぶはっきりした態度で入ってくるのがおもしろい。まあまあ…みたいには止めないのね。九条もこの事件は検事が父で弁護士が師匠という状況で近いし、のらは依頼人、烏丸は後輩ということで、おもうところはあるのかもしれない。九条はこういう状況でも実務的な態度をとることが多いし、皮肉ならともかく、「失礼なのはどっちだか」というような、「失礼さ」を評価する主観的立場をとることはかなり珍しい。つまり、九条はたぶんそれを主観的だとは考えていない。見たようにこの事件について九条は、当事者とはいえないまでも広く浅く関与している。だから第三者的視点が確保できているという感覚があるのかもしれない。



しかし、九条にはどのあたりが「失礼」に見えたのだろう。正常なコミュニケーションとは言い難かったとはできるだろうが、烏丸母の状況・体調を考えれば自然ともいえる。市田やのらに反論できない非があることもまちがいない。その上で「失礼」を論じようとすると、これは説教に近くなる可能性がある。ここで説教とは、たとえば親や教師が子どもに道理を説くとき、つまり、明文化されていない、もしくは子どもが共有していないこの世の摂理に彼らが背いたときの状況であるとする。その場合、走ってはいけない廊下を走る子どもを叱るのはただ注意になるが、いじめられているクラスメイトを見てみぬふりすることについて語るときは説教となる。書いていないから、もしくは若すぎるから、子どもにはその意味が理解できないかもしれない。だがいずれわかる。大人は、長く生きているぶんそれがわかる。だから教える。「公平に見て失礼だ」といえない状況で失礼さを説くには、そうした「そこにない条件」を加えなければならないのだ。これは法律家的態度とは言えないかもしれない。しかし、法律の初期衝動は、比較できない価値観の関係を調停するところにある。法律を規定する憲法、そしてそれを幹とする立憲主義が、そもそもルターの時代の宗教改革による価値観の対立から始まっているものだ。とするならば、これはむしろ、かなり原理的な意味合いで法律家といえるのかもしれない。薬師前に入ってもらいたいところだ。


烏丸母はもともとおもしろい人物だったらしく、どうもこのちぐはぐな応答もたんに事件がもたらしたものといえない感じがある。そして、じぶんが過去にとどまっていることの意味も、実は理解している。それが、服や髪型を理由に出かけたがらない場面にあらわれているのだ。服は古く、髪型はひとに会うことを想定していない。そしてそれを「変だ」といえるためには、それが古く、行き届いていないものであることを知っていなければならないのだ。知っているが、母は烏丸父の死を正面から受け止めることができないため、それを回避しようとする。つまり、それが起きていない過去にとどまるのである。より厳密には母の状態は事件後のものなので、前に進みたくない、その意志がないということを、身振りを通じて自他に示し続けることで、後悔や怒りを保存し、夫の死や存在をなかったものにするおそれのある「未来」から目をそらしているのである。それが「おかしい」ことは理解している。しかしあまりの理不尽さに、受け容れることができない。


烏丸も、平気にみえて、じつは同じところを揺蕩っている。ただ彼はそれを読み換え、逆に弁護士業に活かしてしまうことで前進している。昆虫の標本である。標本とは、時間の封入されたものだ。過去はそこに硬直したまま保存されている。だがそれには分類・管理の役割もある。これが、判例に成型される法律家の思考と相似形なのである。


のらの登場はこれを動かす可能性があった。事件の被害者である彼女が大人になって現れるという状況は、時間がすすまなければ起きえない。つまり過去から引き剥がすのである。しかし見たように、烏丸母は、じぶんの状況をわかった上でそうしている。だから、常に周囲を呪い、たとえば髪型を「変だ」とするような立場にある第三者を否定する見方に慣れてきたのだろう。それが、まるで待っていたかのようにのらの発言から間髪入れず彼女を否定するようなあの態度になるのである。


のらは守るために自衛隊に入り、幻滅し、みずからの手で守り、強くあろうとするため、「子ども」のように大麻農園とその一連の作業行程を考案した。これは、「決断する権利すらない」という強烈なひとことともに、ただのらという人物を豊かにする材料にとどまらず、作品に通奏する問題提起になっていきそうに感じる。今回冒頭の九条と烏丸のやりとりもそうだし、少し前の壬生と菅原、またしばらく登場がないが白州次郎みたいなひと、このあたりに、国への失望と力への意志が感じられるのだ。だが、法治や立憲主義、また平和を否定するものでもなさそうである。法律、また広く憲法には、あなたもわたしも平和に生きるためにどうするのがベストかが書かれている。それはたんなる、当座の約束事にすぎないのかもしれない。しかし、どうやらここには「守る」ための「力」と「平和」

のせめぎ合いがあるようなのである。法律はそこでどう機能するのだろうか。







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第54話/“空手”



神心会本部で謎に行われつつある愚地独歩と門下生の立ち合い。勝てばいっきに伝説という状況にあらわれたのは、現役最強のチャンピオン、末堂厚である。


克巳は、独歩の空手が競技用のそれとはまったく異なるものであることをくりかえす。そんなことは誰でも知ってるし、「競技」を成立させたのがそもそも独歩世代なのだから、なんだかわからない念押しだが、末堂は表格闘技の強者で、競技ばかりのファイターだから、念のため付け加えた感じかもしれない。

末堂はそれに対して、克巳よりむしろ自分のほうが独歩の空手がどんなものか知っていると、謎のマウントだ。なぜか館長をやめた独歩が館長呼びで克巳が師範呼びだ。独歩にかんしてはまあ、「カンチョー」っていうか、ぼくもむかしバイトしてたコンビニの店長とかにばったり会うと「テンチョー」って呼ぶけど、そういう感じかもしれない。しかし克巳の師範呼びはかなり失礼な気が…。こういう場では、役職ではなくてたんに先生という意味でそう呼ぶとかかな。いずれにせよ、両者には独特の距離感がありそうだ。

マウントの意味はわからない。末堂もたぶん内弟子とかだろうし、息子の克巳以上に直接の稽古は多いのかもしれない。それに克巳は天才だから、適当に教えたらあとはひとりで完成させてそう。また、競技者だからこそちがいがよくわかる、というような意味もあるかもしれない。


なにかゴニョゴニョやっている克巳と末堂を制して、末堂が焦れてると、独歩がいう。焦れてるのは独歩である。末堂は緊張からかかなり汗をかいている。

開始とともにガードをかためた末堂が接近、左の追突きだ。しかし独歩はノーガード。突きはかわされたのか、とにかく当たらない。あっという間に巨大な末堂のふところに入った独歩が、右の手刀を首筋にあてがう。たまにやるひといるけど、ジャブの中に入るというのはふつうではない。あわせていてはいくらすばやくても間に合わないので、読んでいるのだ。

いちど寸止めされた手刀が、すぱッという、独歩の声とともに振り抜かれる。ダメージはないが、末堂がイメージしたのはすっとぶ自分の首である。武蔵が現世に持ち込んだイメージ斬りだ。いくら独歩でも首は切れないとおもうが、これはおそらく先程の末堂のマウントを拾うものである。垂木や瓶など、ふつう切れないものをさくさく両断するのが独歩の手刀だ。それを長いあいだ見てきたからこそ、このようなイメージをしてしまうのである。

末堂がダウン。たぶん失神している。大半の門下生はなにが起こったのかもわからないだろう。


しかしこれでは模範組手にならない。独歩で模範組手をやろうとしてたのかよという驚きもあるが、実際これじゃ誰の稽古にもなってない。他に…というところで、三島、長谷川、竹の3人が挙手。なかなかの気迫でまるで果し合い、独歩は喜ぶ。そして、それとなく独歩がうながし、3対1の組手が実現することになるのだった。


つづく



一対多が前景化されたものとして描かれるのは意外と新鮮かもしれない。ゲバル対マウスくらいかな…


末堂はほんらい相当強いはずなのだが、独歩には歯が立たなかった。しかしこれは、末堂の才能不足とか努力不足とか、そういうはなしでもないようにおもう。あの体格と闘争心である、末堂くらいなら、どちらかといえば才能があるほうととらえてもいいはずだ。

気になるのは克巳のブレた態度である。克巳は、この組手でなにがしたいのだろう。なんとなく、独歩のほうでは“模範組手”をするつもりはなさそうにみえるし、じっさい克巳もそうして煽っている。しかるに、末堂はバリバリ表格闘技のかまえでつっこんでいってる。競技は、ルールによる制約によって成り立つものだ。いかに独歩が祖系的な実戦空手をやるのをわかっていても、末堂のほうでもしその競技の延長にある模範組手をやろうとしていたなら、多少は不意をつかれることになる。たとえばまさに手刀は、通常の組手稽古であらわれることのない技だ。これはグローブを使ったボクシングでいうフックの軌道で、おもに首から上をねらうものである。素手で打つフックは手首や拳に負担がかかるので、今回のような軌道で首やこめかみを打とうとしたら手刀のほうが利にかなっている。しかるにそれをしないのは、一般にフルコンタクト空手では手で顔面を打たないからである。末堂は、今回の組手がそのような技の飛び出してくるものであることを理解していただろうか。しかも克巳は、後出しとはいえ、“模範組手”とまで付け加えている状況なのである。

チャンピオンがそんな甘い認識でいてはいけないのかもしれない。しかし、少なくともそれを克巳や独歩はいえないはずである。なぜなら、彼らはそのように選手に制約を課し、技術向上のための合理的ルールを設定した側の人間だからである。プライベートの時間がとれないことについて会社が「仕事してるからじゃない?」と言ってくることはないのである。


このようにして、じつは表と裏、それぞれの格闘技には非対称なぶぶんがある。そう難しいはなしではない。赤信号を渡る歩行者がみえたら、車は急ブレーキを踏むだろう。ルールというものは、ぜんたいの合意と、たしかに遂行されるというそれぞれにおいての確信がなければ無効になる。ルールを想定しないものがあらわれたときにみずからのふるまいを微調整するのは(その瞬間的状況においては)ルールにしたがっている側なのである。


ただ、道交法とは異なり、格闘技のルールなどというものは一時的かつ閉鎖的なものだ。今回のように、道場で、しかもじゃっかんの“模範組手”ふうの雰囲気がある状況では説明不足が否めないが、ストリートで律儀にフルコンルールを守る必要はないのだし、そこからどうやって離れるかが競技人の課題となる。しかしそれは末堂の問題だ。このように考えたとき、実戦とはなにか、少なくとも、独歩が体現するような実戦性とはなにかということが少し見えてくる。さまざまな相があることとはおもうが、両者の非対称性に注目したとき、実戦性は、ある種の没コミュニケーションに宿るのである。ひとは、多かれ少なかれルールに縛られている。なかには超自我的に内面化され、道徳と化しているルールさえある。まずはどれだけここから逃れられるかが最初の課題になる。次に、非対称性があらわになる。ルールによる拘束の程度はひとによって様々だ。だから、厳密にいえばすべての人類は誰に対しても非対称であるということになるかもしれない。思えば格闘技におけるルール設定はこれを解消し、まったく同じ条件に両者をおくものになるわけだが、実戦では、相手にどれだけルールにこだわらせるかがポイントになってくる。つまり、不意に赤信号をわたりきることのできるもの、合意を無視できるもの、これが実戦では勝者となるのである。これは黙って、いきなり行われるものだ。いまから赤信号をわたりますという宣言は、ごくせまい範囲における新たなルール設定にとどまるものである。これが没コミュニケーションということだ。


こういう意味で、克巳のブレた態度はコミュニケーション不全に近く、やや独歩に加担したものにみえる。だがそれこそが実戦なのだ。競技者は、車のドライバーとして正しく、「歩行者が赤信号で立ち止まるとは限らない」というゆさぶりを受けることになるのである。


そういうことならと、信号なんか全無視で爆走してやるとなったのが今回の3人だろう。しかしゴールド免許保持者は果たしてその必要となんなら許可があったとしてアクセルを思い切り踏めるのだろうか。そして、それになれたアウトローたる独歩を捕捉できるのだろうか。なんかへんな読み方になってしまったが、これもひとつの視点になりうるかもしれない。









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