武田さんが去って行った後、少しだけ水分でぼやけた目を擦った。


 今からは先輩のおばあちゃんに会いに行くっていう目的ができた。無我夢中で家を飛び出したときは、くそったれの冴えない毎日から抜け出したいって思っただけなんだけど、別に行きたいところがあるわけでもないし、会いたい人がいるわけでもないし、ただ、反吐がでる毎日から飛び出したかっただけだし、まぁ、こういうふうに寄り道っていうか、僕と先輩の二人だけの旅よりも、感動の再開的な、物語にエッセンスを加えてもいいかなって思う。それに先輩のおばあちゃんも見てみたいし、先輩が会ったときどんな顔するのかも楽しみだ。


「よし、行きましょう!」

 爽やかな思いをテンションに変え、先輩に言った。

「そうだな、レースクイーンでも見に行くか!」

 先輩もテンション高めだった。

 ん?どういう意味だ?

「レースクイーンってどういう意味ですか?」

「レースクイーンはレースクイーンだ」

 僕には先輩の言っている意味がわからなかった。でも、アガサ・クリスティー並の推理力をフル稼働して僕には先輩の言っている意味がわかった。

「先輩のおばあちゃんってレースクイーンだったんですね!」

「はっ?」

「だから、先輩のおばあちゃんは元レースクイーンなんですよね?」

「はぁー?」

 今度のはぁーは否定の度合いが三十六倍ぐらい増えていた。

「レースクイーンって言ったら、ピチピチの肌のサーキット場に舞い降りた天使たちに決まってんじゃん!オッパイが垂れ下がったよぼよぼのくそばばぁ共にできるわけがないだろ!」

「えっ、じゃあ、おばあちゃんに会いに行くのは・・・?」

「そうでも言わないと、お前のってこねぇだろ」



 僕はすっかり忘れていた。僕みたいなタイプは、先生がテストに出るって言った重要なポイントを忘れちゃって、授業が脱線して先生が語るどうでもいい話なんてのを意味もなく覚えてるんだ。

今がまさしくそれだった。

僕は自然と握り拳になっていた。爪が手の皮に食い込むほどギューっとギューっと握りしめた。もし、今リンゴを渡されたら、マッチョの人が自分の筋肉自慢をする時にリンゴを粉砕するぐらいの握り拳だった。



「あれ、海君どうしたのかなー?」

 僕の態度に先輩は不思議そうな顔をして見ていた。本当に不思議そうに。僕は返事をしなかった。おもいっきし歯をくいしばっていた。そんな僕の態度に先輩はようやく僕が怒っていることに気づいたようだ。

「ごめんごめん。海ちゃん悪かったよ」

 ごめんポーズをして謝ってきた。

「せっかく京都まで行けたのに・・・」

「ごめんごめん」

「武田さんいい人だったのに」

「ごめんごめん」

「また車止めなきゃならないし」

「ごめんごめん」

「本当に悪いと思ってるんですか?」

「ごめんごめん。あっ、思ってるよ。マジで!」

 このまま険悪なムードは嫌だったから、このバカを許すことにした。本当にしょうがなくだ。本当に。実は天使たちに会いたくなったわけではない。本当にしょうがなく。

「よし、ピチピチなネエチャンたちを見に行くぞ!」

 許しを貰うと、このクソバカは態度をコロッと変え、行くぞと上機嫌だった。



 とりあえず僕たちは、サーキット場の天使たちに会いに行くことにした。

 

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

  

 

 

 

  

 僕と先輩は武田さんに事情を話してここで降りることにした。


「そうか、おばあちゃんに会いにいくのか」

 武田さんの声のトーンは変わらなかった。

「とりあえずですけど」

「そうか」

「ありがとうございました」

 僕らは武田さんにお礼を言った。

「そうだ、ちょっと待ってろ」

 そう言うと、武田さんはレストランの向かい側にあるコンビ二に走って行った。

「どうしたんですかね?」

「トイレだろ」

 先輩は煙草に火をつけた。



 少し経った後、武田さんは袋いっぱいの荷物を持って走ってきた。

「これ、使え」

 息を切らしながら、武田さんは袋いっぱいの荷物を僕らに渡した。中には、スケッチブックと、飲み物とたくさんの食料が入っていた。

「えっ?」

「スケッチブックは目的地を書く時や、メモ代わりに使え。ダンボールじゃあサマになんないだろ。水分はなるべく多く摂ったほうがいい。あと腹へったときはこれ食べろ」

「いいんですか?」

「悪いわけないだろ」

 僕らはもう一度お礼を言った。

「あと」

 そう言って、武田さんはポケットから御守りをだした。

「交通安全の御守りだ。俺のトラックにつけてたお古だけど、まだ効力はあるだろ」

 御守りを僕の手に置いた。

「楽しんでこいよ」

 そう言うと、武田さんは踵を返しトラックへ戻っていった。

「結構優しいんだな。武田っち」

 先輩の言葉を無視し、僕はトラックに乗り込もうとする武田さんに声をかけた。

「武田さん」

 僕は気になっていたことを聞いてみた。

「どうして乗せてくれたんですか?」

 武田さんは照れくさそうに笑い、髪の毛をクシャッとして、僕に言った。

「俺もしたことあるからさ。つまらない毎日から抜け出そうとしたことが」



 その時、僕は哲学者のように、世の中の真理を発見した。なんて、そんな大それたことはわかるわけはないけれど、たった一つだけど、それも、ものすごく小さくてささいなことだけどわかったことがある。



 武田さんは、少し不器用だけど、本当はものっすごく優しくて暖かいハートの持ち主だってこと。



 トラックは、僕らの旅路を応援するかのようにクラクションを空に向けて何度も放った。

「武田さーん、ありがとうございましたー!」

 僕は、武田さんのトラックが見えなくなっても手を振り続けた。

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

  

 

 

 

  

「へっ?」


 先輩の突然の下車宣告は、あまりに唐突でいてあまりに不気味だった。それも僕たちって、たちってことは僕も入ってるってことなんですけど・・・

「先輩何言ってるんですか?」

「ここで俺たちは降りるの」

「何でなんですか?理由を言ってくださいよ」

「旅は急いでもしょうがないだろ。時間に追われるのは不毛なことだ、悲しき現代人よ」

「何かっこつけてんですか」 

 本当にこの人の考えることはわからなかった。

「で、どうするんだ?車に乗るのか乗らないのかどっちだ?」

 筋肉隆々の腕を組みながら武田さんは言った。

「乗ります」

「降ります」

 僕たちは同時に言った。

「まぁ、決まったら言ってくれ。俺は車で待ってるから」

 そう言うと、武田さんはスタスタと車へ戻っていった。

「いいかげんにしてくださいよ!」

 武田さんの姿が見えなくなると先輩に肩をドンと軽く押した。僕は少しイラっとし始めていた。しかし、いつもなら確実にやり返してくる、それも二倍返し、いや、五倍返しにでもしてやり返すこの男が何も言ってこなかった。とても奇妙だったが、それは態度だけではなかった。先輩の顔がふっと陰りを帯びていた。

「ばあちゃん、体調があまり良くないんだ。もう年っていうのもあるんだけどさ。最近婆ちゃんに全然顔見せてないし、近くに来てるなら、デキの悪い孫でも会いに行ったら喜ぶかなって」

「先輩・・・」

 僕は先輩のことを勘違いしていた。無理やり連れてきたのに、あれこれ文句を言って先輩に迷惑ばかりかけてきた。本当はこんな心優しい先輩なのに。

「行きましょう。おばあちゃんのところへ」

「本当にいいのか?」

「いいですよ」

「本当に本当か?」

「もちろん」

「海大好きだ!」

 先輩はそう言うと抱きついてきた。

「やめてくださいよ!」

「大好きだぞ」

「気持ち悪いですよ!」

 先程とは打って変わってだった。

 でも、悪い気はあまりしなかった。

 目的地が一つ決まったから。

 

 僕は熟れたリンゴみたいに顔を真っ赤にした。

 二人は何事もなかったように視線を元の場所に戻した。

 僕はもう嫌になって顔をカクンと九十度折り俯いた。僕の耳には、車のエンジン音だけがむなしく響いてた。

 ブルルンブルンブルルル

 馬のようなエンジンの音が響いていたが、その音は次第に小さくなっていった。

 あれ、おかしいなと思い顔をあげてみると車は止まっていた。窓の外にはレストランがあった。


「そろそろメシの時間だ」

 相変わらずそっけなく武田さんは言った。

「もうそんな時間かー」

 先輩は携帯を閉じ車から降りた。僕も車から降りた。

 僕はある思いがふわふわと頭の中に現れた。

 もしかして武田さんは僕のお腹がなったから寄ってくれたんじゃ、なんて先ほどの怒りのベクトル向けてますよ発言から打って変わっての考えだった。でもそんなことはどうでもよかった。今、空腹はマックスに達しているので、そんなことよりも今は何を食べよっかなという考えが最重要問題だった。

 

 お店はファミリー向けのレストランだった。お昼ということで店内は結構込んでいた。席に座ると僕はすぐさまメニューを覗き込んだ。


「お前金あったっけ?」

 血眼でメニューを覗き込んでいた僕に先輩は言い放った。僕はそのことをすっかりと忘れていた。

「センパァ~イお願いしますよぉ」

 僕は猫なで声で先輩の腕を優しく撫でた。今の僕はプライドなんてものはなきに等しかった。

「お前気持ち悪いな」

「なぁに言ってんですか~」

 もう一度先輩の腕を彼女になったような優しく且ついやらしく撫でた。

「わかったよ!頼めよ!だから触るなっつーの」

「じゃあステーキセットで!」

 僕はものの二秒で注文した。

 そしてメニューが運ばれてくると、大食い大会に出場した人のように勢いよくジュージューと素敵な歌声を奏でているお肉さんを口の中に放り込んだ。僕は一言も発さず黙々とお肉さんを食べた。

「うまかったー」

 いつのまにか僕の怒りは完全に消えていた。それはもちろんこのお肉さんによってだった。

「あれ二人とも食べるの遅いですねー」

「お前が早いんだよ」

 先輩は冷やし中華をちゅるちゅると食べていた。

 武田さんは軽く笑った。

「もっと食べたかったら頼んでいいぞ」

「でも、僕お金ないんで・・・」

「俺がだしてやる」

「いいんですか?」

「おう」

 意外な言葉だった。武田さんは僕にメニューを渡してくれた。

 僕は少しだけ感動して涙が出そうになってしまった。

 僕はラーメンとチョコレートパフェを頼んですぐさまペロリと平らげた。そして本当にお会計は武田さんが全部出してくれた。僕と先輩は小学生みたいに元気にお礼を言った。

 


 店の外に出ると、日差しは一段と強くなっていた。店を出た途端に汗が毛穴から噴き出してくる。

「今どこら辺なんですかね?」

 先輩に聞いてみると、武田さんが

「ここは鈴鹿の辺りだ」

 と、答えてくれた。

 鈴鹿の言葉に先輩はピクリと反応した。そして武田さんに急にこう告げた。

「僕たちここで降ります」    

 

 

 

 

 

 

 車は三重県に突入した。

 赤い鉄骨製の古ぼけた橋を車はずんずか進んでいく。その先にはうっすらとジェットコースターらしきものが見える。多分、長島スパーランドだ。確か中学の社会見学で行ったな。


 キラキラと輝きを放っていた外の景色は、一時間もしないうちに新鮮さを失い、今や、どこにでもあるような見慣れた建物しか目に入らず時間つぶしの手段にすらならなかった。そして、車に乗せてくれた親切な武田さんのことは、今や、怒りの対象にと変化していた。それは、暇や空腹やこのどうしようもない雰囲気が武田さんにのせいだと、自然にベクトルを向けたんだと思う。


 僕は、本当に、呆れるほど、どうしようもなく手持ち沙汰になった。

 武田さんは無言で運転し、先輩は携帯のゲームに夢中、外の景色は単調。


「なんだよ?気持ち悪いな」

 気づいたら先輩の携帯に視線を見ていた。

「何でもないです・・・」

「ははーん、お前もしかして携帯捨てたこと後悔してるだろ」

 先輩の憎たらしい目が僕を覗き込んでた。

「すっ、するわけないじゃないですか!」

「ふーん、じゃあなんで動揺してんだよ?」

「してませんよ!」

「ならいいけどさ」


 そう言うと、先輩は携帯に視線を戻した。

 先輩の言うことはくだらなさすぎた。しかし、くだらないくせにその通りだった。僕は思いっきし後悔していた。

 なんであの時調子に乗って携帯を投げちゃったんだろう。

 最新機種にしたばっかなのに、学年のかわいい子ランキング第三位の、みかちゃんの番号を聞いたばかりなのに、寝ても覚めてもいつも一緒にいる僕の愛しの恋人を・・・



 僕は大馬鹿野郎だ。


 後先考えずに行動するからこうやって後悔ばかりするんだ。僕の悪い癖だ。僕は大きくため息をついた。やるせないほどのため息と同時に朝から何にも与えられていなかったお腹が寂しそうにグーと声を泣き声をあげた。

 その切ない音に武田さんと先輩はすぐさま僕の方を見た。

 とても恥ずかしかった。

 

 

 

 

 

  

 

 

 

  

 僕の名前は、平井海。

 広い海じゃなく、平井海。

 早口言葉をしたら、途端にアイテって舌を噛んじゃうかもしれないけど、僕の名前は言葉遊びなんかじゃない。これは、父さんがつけてくれた名前だ。

 父さんは海が大好きで、暇さえあれば僕をしょっちゅう海に連れてってくれた。一緒に泳いだり、釣りをしたり、砂でお城を作ったり。ということで、僕も自然と海が好きな少年になった。

 だからこの名前は嫌いじゃない。むしろ好きだ。

 海って広くて優しくて雄大なイメージがあるから。

 海はいいなぁ。



 でも、今僕はものすごい閉塞的な空間にいた。

 トラックの中というものすごい狭い空間に。

 広い海じゃなく、酷い膿のようなこの空間に。

 車は京都に向け、一号線をひた走っていた。

 


 あれから僕たちと武田さんとの会話は膠着していた。

 僕らが何を話しかけても、武田さんは、そうだ、とか、違う、とか、たまに頷くだけだった。何を話しても会話のキャッチボールは続けることはできなかった。

 先輩は次第に話すことも億劫になったみたいで、携帯のゲームに熱中していた。

 僕は思いっきし手持ち無沙汰だった。携帯は捨ててしまったし、荷物は何も持ってきてなかったし、ようは裸一貫ってとこだった。それに、寝ようと思っても、トラックの中は意外に振動があり、寝るに寝れない状況だった。

 車内の雰囲気は、家庭崩壊した家のように、どんよりとしていて僕にとってはこの空間は不穏でいて重かった。何かこの空気を感じないようにする方法はないか、もしくはぶっ壊す方法はないのか、と僕はずっと悩んでいた。

 

 そんな僕の気持ちの露知らずか、鼻くそをほじりながら携帯のゲームに熱中する男と、豪快な勢いで車を走らせる無口な男は、いたって無関心だった。

 

 

  

 

 

 

  

 ようやく、くそったれの毎日から抜け出せるんだ。

 窓から眺める外の景色は普段見慣れている景色だけど、今はすごくキラキラと輝いていた。それは、トラックのイスの高さがあまりに高いので、視線の景色がいつもとは違うし、初めてヒッチハイクに成功したってのもあるだろうし、知らない人の車に乗って知らない人の運転でどこかも知らないところへ行くっていうのもあるし、ってそんなこと挙げればキリがないんだけど、やっぱり一番違うのは、言わずもがな僕の気持ちなんだ。

 


 今、僕の未来は買ったばかりのスケッチブックみたいに真っ白なんだ。まだ、何も書かれていないし、書いてもない。どのページも開いても真っ白。旅行のように予定もなければ、終わりもない。ありきたりなルーティーンさえない。

 あるのは、真っ白なこれから。

 


 何をやろう?

 何を見よう?

 何を描こう?


 今にも僕の口から、ワクワクが一人歩きしそうだった。いや、もうスキップスキップランランランって感じだ。


「あの、名前は何ていうんですか?」

 旅先案内人の大男に聞いてみた。

「名乗るほどのもんじゃない」

「じゃあ、何て呼べばいいですか?」

「・・・・好きなように呼べ」

「おっさんはしげるっぽいから、しげるで」

 窓の外をぼんやりと眺めていた先輩が急に冗談めいて言った。

 しげると聞いた大男は、二、三人ぐらいは人を殺したことがあるような視線で先輩を睨んだ。

「もう、嫌だなー。ジョークですよ。ユダヤジョーク」

「ユダヤ人はジョークは言わない」

「ものの例えですってば」

 先輩は柄にもなく慌てふためいていた。

「・・・俺は武田だ」

 大男はぼそっと呟いた。

「僕は、海です。平井海って言います」

「僕は高橋です」

 先輩も謙虚そうに答えた。

「そうか」

 少しの沈黙。

「武田さんはどこに行くんですか?」

「京都だ」

 武田さんは、口からこぼれるような言葉でぽつりと呟いた。

 

 


  

 

 

 







  

 ずかずかと進んでいく大男の後を、僕は、刻印づけされたヒヨコのようにチビチビとついていった。更にその後には先輩がついてきていた。


「なんでついてくるんですか?」

 ぶっきらぼうに僕は言った。

「お前みたいに危なっかしいやつ一人にはできねぇからな」

「親みたいなこと言わないで下さい」

「まぁ、代理責任者ってとこ」

「勝手に責任者にならないで下さい」

「じゃあ漫画喫茶の立て替えた金返せ。今すぐな」

「それは・・・」

 


 金銭面に関しては、僕は限りなく弱者だった。多分、小学生と財布の中身を見せあいっこしたら間違いなく負けるだろう。

 そう言うと、先輩は普段のだらだらとした歩きをやめ、きびきびと大男の後をついて行った。


まったく、なんて男だよ。


道路の脇に停車してあった大男の車は、とても大きなトラックだった。それも普通のトラックではなく、デコトラと呼ばれているような代物だった。前面部と後部には豪華絢爛名な装飾品が付いており、荷物を載せる部分の側面には巨大な壁画のように、竜が空に昇っていく絵が描かれていた。


「乗れ」


 僕の先輩に対する態度よりもぶっきらぼうな大男の態度に、僕らはおどおどしながらも助手席に乗り込んだ。

 車内は外のピカピカとした飾りとは対照的に、いたって普通で、金閣寺と銀閣寺ぐらいのギャップがあった。


「よし、行くぞ」


 そう言うと、車は大きな唸り声を上げ進みだした。

 

 

  

 

 

 

  

 携帯は放物線をキレイに描きながら道路に転がった。


「あー、あとで後悔しても知らねぇからな」

「しないですよ。そんなもん」

「本当かよ」

「本当です」

 先輩は何やら、おかしな表情をしていた。

「じゃあ、後ろ向いてみ?」

 先輩はアゴで後ろをしゃくった。

 


 おもむろに後ろを振り向くと、いつの間にか僕の目の前には、雑草のようなごわごわとした無精ひげを顔全体に生やした大男が立っていた。


「携帯を道路に投げたのはお前か?あやうく事故になるところだった」

 答える間もなく、大男は僕の襟首を掴んだ。

「えっ、いや、あの・・・」

 あまりの迫力に僕はパニくってしまった。

「おい、答えろ」

 ゾウの足を髣髴とさせるぐらい大男の腕は太く力があった。

「・・・・僕です。すいません」

「なんで投げた?」

 尚も大男の尋問は続いた。

「じっ、自由になりたくて」

 大男は何も言わなかった。鋭い眼光で睨みつけていた視線を、ふっと、僕の足元に落とした。

「これは何だ?」

 僕の足元には、どこかへ、と書かれたヒッチハイクで使ったダンボールが転がっていた。

「こっ、これはヒッチハイクで使ってました」

「どこへ行くつもりだ?」

「えっ、いや、どこでもよかったんです。こんなつまらない毎日から抜け出せるなら」 

僕の言葉に、大男は無言になってしまった。僕はまずいこと言ったかなと思い、一発ぐらい殴られるのはしょうがない、とこの妙な沈黙の間に悟り、いつ殴られてもいいように歯を食い縛った。

「道路に携帯を投げるのは危ない。二度とこんな真似はするな」

 確信した。殴られる。

「乗れ。連れてってやる」

「へっ?」

 力を入れていた口元から気の緩んだ言葉が出てしまった。

「乗れって言うと?」

「なんだ、抜け出したいんじゃないのか?つまらない毎日から」

 僕はこの大男が何を言っているのかよくわからなかった。

「どういうことですか?」

「お前が乗るか乗らないかのどっちかだ?」

 そう言うと、大男は踵を返した。

 僕はその瞬間、エジソンのようにピンと閃いた。そして大きな声で大男に言った。

 乗ります!

 

  

 

 

 

  

 縁日にいる露店商のおじさんのように、うさんくさい笑顔をした先輩は僕の方を見ていた。とりあえず、何もなかったように挨拶をした。


「おはようございます」


 しかし、先輩は僕の挨拶を無視し、うさんくさい笑顔のまま僕に言葉を投げつけた。

「だっせー、お前マザコンじゃねぇかよ?」

 先輩の言葉に、何もなかったように振舞う作戦は音を立てて崩れた。

「はぁ?そんなわけないじゃないですか」

 怒りを露にした僕に、先輩はさらに挑発とも取れる言葉の散弾銃を僕に放った。

「散々俺にカッコいいこと言ったくせに、ママに怒られたらもう諦めるのかよ。そんなんだったら今すぐママのとこに戻って、ママー寂しかったよー、って言って泣きつけよ」

「先輩、言ってもいいことと悪いことがありますよ」

「俺には、どう考えてもいい事を言っているとしか思えないけど」

 この先輩の発言で、僕の我慢メーターは測定不能になった。僕は先輩に飛び掛った。

「おい、なにすんだよ!やめろ!」

「やめません!謝れ!」

 

 僕らはとてつもなく狭い空間で喧嘩を始めた。


マザコン野郎!」

「うるせぇ!三浪のくせに!」

「なんだと!童貞野郎!」

「パラサイトのくせに!」

 

 とても程度の低い喧嘩だった。

 しかし、この喧嘩は長くは続かなかった。


「何してるんですか?」

 怒声を聞きつけた漫画喫茶のスタッフが、僕らの部屋に入ってきたのだ。そして、説明するまでもなく僕らは漫画喫茶から追い出された。


 朝だというのに、太陽の日差しはハイテンションで、世界に光を注いでいた。目の前の大道路では目まぐるしく車が通り過ぎていった。

「てめぇのせいで追い出されたじゃねぇかよ」

「先輩のせいですよ」

 喧嘩は終戦したものの、喧嘩の余波は残っていた。

「んで、どうすんだよ。ママのところにでも帰るのかよ?」

 僕は先輩の方を向いて、宣言した。

「帰りません。帰るときは死ぬほど楽しんでからです」


 そう言って、僕は携帯を道路の方へ思いっきりぶん投げた。