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外相、「忍耐は無限ではない」と北朝鮮への圧力強化を訴え

 【ハンブルク=松永宏朗】アジアと欧州諸国の関係強化を目的としたアジア欧州会議(ASEM)の第8回外相会議が、28日夜(日本時間29日未明)、開幕した。
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 麻生外相は夕食会で、北朝鮮が2月の6か国協議で約束した核放棄の「初期段階の措置」を履行していないことについて、「忍耐は無限ではない。必要があれば北朝鮮への圧力を強化すべきだ。(北朝鮮の)すべての核兵器と既存の核計画の放棄を実現することが大事だ」と強調。拉致問題の解決に向けて、「国際社会との連携を強化していきたい」と訴えた。

 北朝鮮をめぐる問題は、最終日の29日に発表される議長声明に盛り込まれる見通しだ。

 夕食会では、イランがウラン濃縮活動停止を迫った国連安全保障理事会の追加制裁決議を無視していることに対し、各国から懸念の声が相次ぎ、「国際社会が一体となって対処していくべきだ」との意見が大勢を占めた。イラクとアフガニスタンの復興に関しては、今後も復興に協力していく方針を確認した。

 外相会議には、43か国と欧州連合(EU)、東南アジア諸国連合(ASEAN)の外交担当者が参加している。
(2007年5月29日12時4分 読売新聞)

外相、「忍耐は無限ではない」と北朝鮮への圧力強化を訴え : 国際 : YOMIURI ONLINE(読売新聞)

中山補佐官、初の訪米へ 「拉致」協力求める

 北朝鮮による日本人拉致事件を担当する中山恭子首相補佐官が28日から6日間の日程で初めて訪米し、政府やシンクタンク関係者と会談する。
 訪米するのは、「有力な有識者の中にはまだ拉致問題を正しく理解していない人がいる」とみているためだ。直接面会して拉致の実態を説明、理解と協力を求める。
 中山氏はまた、さきの訪中で中国政府が、予想以上に拉致問題への関心が低いとの心証を得たため、再度の訪中も検討している。中国政府は、日本政府の調査で偽物と判明している横田めぐみさんの「遺骨」問題など北朝鮮側の主張をほぼうのみにしている印象を受けたといい、こうした事実誤認もただしていきたい考えだ。

中山補佐官、初の訪米へ 「拉致」協力求める-政治ものニュース:イザ!

北朝鮮の欧州拉致事件、「有本恵子さん家族の24年間の活動経緯」PJNが直接取材

【PJ 2007年05月28日】- 今から24年前の1983年、留学先の欧州で失踪した兵庫県神戸市の有本恵子さんについて、このほど、警視庁公安部(兵庫県警と合同捜査)は、有本さんらの欧州での拉致事件の実態解明に乗り出した。PJニュースは24日、有本恵子さん家族のこれまでの24年間の活動経緯などを、恵子さんのお母様、嘉代子さん(81歳)に、聞いた。

 -恵子さんは、1982年3月に神戸外大を卒業され、同年4月10日、自ら語学留学を希望され、伊丹空港からロンドンに出発されたのですね。

 「そうです。それから約1年経過した1983年6月に、帰国を知らせる手紙が届きました。それまでに何度か送ってきた手紙には、楽しく勉強をしている様子がひしひしと伝わってくるものだったので、留学先での生活は、楽しいのだなと思っていました」

 ―これまでのメディアの情報などでこの時点ですでに、よど号犯の妻、八尾恵さんと恵子さんが出会っていたようだと言われていますが、この情報は真実なのでしょうか。

 「この情報は真実です。5月ごろに出会ったようで、八尾恵さんと恵子とは、短期間の間に急激に親しくなったようです。八尾さんに『市場調査』の仕事があると言われ、恵子はその仕事を簡単に考えたのかもしれません。仕事があることを嬉しく思ったかもしれません」

 -その年(1983年)の8月9日に、ローマ字打ちの電報が神戸市の恵子さんの実家に届いたということですが、文面は、どのようなものだったのでしょうか。

 「文面は、『仕事が見つかる。帰国遅れる。恵子』とだけ、書いてありました」

 ―その後、手紙が届いたということですが、電報がきてから、どのくらい経過した時期だったのでしょうか。

 「その年の10月です。手紙の冒頭に、『先に帰国延期の電報が届き心配しているのでは』と書き、『貿易関係の仕事』をアルバイトで2~3カ月手伝うという内容でした。『皆さん信頼の置ける人ばかりなので、ご安心ください』とも書いてありました」

 ― その手紙以降、まったく音信がなくなったということですね。その後、1988年9月に、札幌の石岡亨さんのご家族からの電話で、恵子さんと石岡さんと松木薫さんが、平壌にいることがわかったということですが、ご家族が、恵子さんが失踪したと感じてから、この時までの5年間、恵子さんの消息をつかむために、どのような活動をされたのでしょうか。

 「まず、兵庫県警に届けを出しました。翌年(1984年)の春ごろだったと思います」

 ―兵庫県警は、どのような対処をしてくださったのでしょうか。

 「県警は『外国で起きたことなので』というばかりでした。2、3度足を運んだと思います。その後、県警の方が、自宅に近い長田署へ行くように言ってくださり、長田署にも、3度くらい行ったと思います。長田署では行く度に、恵子の身長、体重、足のサイズ、写真はないのかなどを聞かれたので、『この聞き合わせは、外国で亡くなった日本人の照会なのでは』と問いました。家族としては、警察にお願いしているのは、そういう調査ではなかったので、嫌な思いがしました」

 ―警察を頼っても、頼りにならないということを感じられてから、88年までは、どのような心境で時を過ごされたのでしょうか。

 「忘れないといけないと思いました。意識的に、恵子のことを言わないようにしていました。恵子は、帰国間際に、お金を盗られたりするような事故に巻き込まれて、殺されて、どこかに放置されてしまったのではないかと考えたりしていました」

 ―消息を絶ってから5年が過ぎた時期に、石岡さんからの手紙で、恵子さんが平壌にいることを知らされたときの心境は、どのようなものだったのでしょうか。

 「死んでいると思っていたのが、生きているということがわかり、家族は喜び、安堵しました」

 -その後、石岡亨さん、松木薫さんのご家族と、娘さん、息子さんの救出について、相談されたのですか。

 「松木さんについては、連絡先が書かれていなかったので、石岡さんは、連絡する術がなかったそうです。石岡さんのご家族に司法書士をされている方があり、石岡さん家族は、法的なこと、政治的なことをよくご存知でした。石岡さん家族が、北朝鮮は社会党とパイプがあるので、社会党の議員さんに相談してみてはどうかと言われました。当時、土井たか子さんが社会党の議員さんでしたので、西宮市今津にある土井さんの事務所に出かけていき、秘書の方に概要を伝えました」

 ―土井たか子さんは、救出のために、ご尽力くださったのでしょうか。
 「土井さんからは、連絡はありませんでした」

 ―その当時、社会党が全く動いてくれないために、自民党の有力代議士を頼り、東京の議員会館まで行かれたということですが、その当時のご家族の思いとは、どのようなものだったのでしょうか。

 「わたしが、東京の議員会館に行ったのは、88年の10月末ごろだったと思います。当時、幹事長だった安部晋太郎事務所に行き、概要を説明したところ、秘書の方が『警察庁に行きましょう』とおっしゃり、警察庁に連れて行ってくださいました。警察庁では、わたしの言うことを聞き取ってくださり、書面に記録されていたように思います。警察庁から、外務省にも連れて行ってくださいました。外務省は、『国交がないですからね』とおっしゃいました。さらに、『この問題は、難しいので、表面化するよりも、黙って伏せておいた方が、娘さんに危険が及ばないのではないか』などと言われました。そのとき、そう言われたことで、娘が危険な目に遭わないためには、どうしたらいいのか考え、悶々とした思いに駆られた記憶があります」

 「それからしばらく経った 90年12月20日すぎのことなのですが、『週刊文春』の記者が、家に突然取材に来られたことをきっかけに、年末にかけて各社マスコミがうちの家に取材にこられました。なぜ、週刊文春が家に来られたのか、当時、この問題を知っていたのは、安部さんの事務所と警察庁と外務省しかありませんでした」

 ―そのことがきっかけで、ご家族は、実名を公表して、救出を訴えることを考えられたのですか。

 「年が明けて、石岡さん、松木さんのご家族と相談し、記者会見を開いて氏名を公表して救出を訴えることに決めました。会見の段取りは、NHKがお世話をしてくださり、1月16日に予定されました。前日の15日夜、NHKの記者の方から、『記者会見の前にぜひ、会ってほしい人がいる』と言われ、翌日の16 日、記者会見当日、ウニタ書房の遠藤忠夫氏を紹介されました。遠藤氏にお会いしたところ、『記者会見は止めてほしい。金丸さんが訪朝のために、これまで水面下で動いていたのに、今、ここでこの問題が出てきては、何もかもぶち壊しになってしまう。わたしたちは、金日成と太いパイプを持っている。わたしに任せてくれれば、1-2カ月で解決できる。恵子さんたちは、生きている。会見を中止すれば、助けてやる』と言われました」

 「もう、その時点で、会見場に記者の方々がおられたんですよ。各社の記者の方を待たせた状態でしたので、わたしたちとしては、せっかくお忙しい中、集まってくださった記者の方に悪いという思いで、困惑しました。結局『会見では住所と氏名は言わないようにしてください』と言われ、会見では、名前を公表することができませんでした。ちょうど、その日、湾岸戦争が始まる前日だったこともあり、記者の方々からは、その取材を放って、こっちの取材に来たのになどと、不満、怒りを露わにされました」

 「今、考えると、住所と氏名を言わない会見を遠藤氏が求められた意味がわかるのですが、そのときは、わかりませんでした。事件を公表して世論を喚起し、国に早期解決を促すという記者会見の目的は、その会見では達することはできなかったのです」

 ―その後、97年に横田めぐみさんのご家族と家族会を結成される運びとなったのですか。
 「95年のはじめごろに内容証明付きで、報道各社、警察の記者クラブに事情を説明する書面を送ったのですが、どこの社も相手にしてくれませんでした。家族会を結成したのは、それから2年後の97年3月25日のことです」

 ―家族会結成後、報道されたりすることで、多くの方々に、拉致問題を知っていただくことになり、現在に至ったということでしょうか。

 「そうですね。その後、02年9月に、小泉首相が日朝首脳会談で、北朝鮮が長年否定していた日本人の拉致を初めて認めました。あの時は、わたしたちも午前中は、議員会館で会談の進展を見守っていました。マスコミ各社が、どこからの情報からか、有本恵子さんが帰れることになるようだという情報を得ておられたようで、わたしたち家族は、マスコミ各社から、同じような質問の取材に個別に応じました。当然、その日には、帰ってこれるとは思いませんでしたが、マスコミがそのような情報を得ているということは、恵子は、もしかすると、帰れるかもしれないと期待もしました。ですが、帰ってくることができたのは、恵子ではない5人の方々でした」

 ―最後に、有本さんとして、政治家に望むことはありますか。

 「わたしと主人は、政治家の方々に、『子供を取り返してほしい』と言ったことはありません。『国を変えてほしい』とお願いし続けています。北朝鮮の今の政権が変わらないと、事態が進展しないように思っています。また、この問題は、個人の問題ではないという認識で、どのくらいの政治家の方々が、信念を持って、本当に真剣に取り組んでおられるのか。そのような認識の政治家の方は、数少ないように思います」

 「安部首相は、首相になられる前から、拉致問題に大きく関わってくださいました。その方が、現在の首相ですので、わたしたちは、安心しています。拉致問題解決に向けて、今は、いい状態だと思っています」【了】

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