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 5世紀 高句麗 角抵塚古墳壁画 現中国吉林省

朝青龍の気持ちを代弁してみました。

相撲のルーツはモンゴルの砂漠、2~3世紀の頃だという。

西へ向かったルーツは、トルコを経てレスリングとなり、もう一つは騎馬民族の南下にともない、高句麗の朝鮮半島を経て、日本に根付いた。

中国は儒教の関係か、裸でとる角力(すもう)は野蛮だということで、根付かなかったようだ。

日本では、歴代天皇家が熱心で7世紀の後半には、天武天皇、持統天皇が角力をとらせた記録があるという。

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大童山文五郎 写楽画  あんまし関係ないけど、可愛くて載せました。

日本で相撲は独特の発展をし、江戸時代には黄金時代を向かえ、出羽の国出身の7歳で115センチ、71キロの子供が化粧回しを着けて土俵入りをするような、ショー的な要素が要求されるようになっていった。

その流れで発展してきた2000年近く後の日本の大相撲は、気持ちをむき出しにするような仕草、野蛮さは、相容れません。

朝青龍にしてみれば、オレがルーツだっていう気持ちがあり、強けりゃいいじゃないか、示談にもなった話に何を言ってんだろうってことだろう。

オレはヨーロッパから、朝鮮半島まで征服したチンギスハンの末裔、謹慎中サッカーしたからとか、負けた相手にダメ出ししたとか言われても「いちいちうるせ~な」ってことだろうね。

以上朝青龍を代弁してみました。

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裏山(焼山登山道)から見た後生掛温泉全景

後生掛温泉は、八幡平アスピーテラインの秋田側にあります。

アスピーテラインは、冬期間は豪雪のため、後生掛温泉に行くのには東北道、鹿角八幡平から南へ1時間ほどかかります。

このツアーに参加するのは、今年で4回目となります。

毎年、この温泉をベースに2泊3日のスキーツアーをするわけですが、最初の年にこの温泉がいっぺんで気に入りました。

全館地熱を利用したオンドル。湯治客との雑魚寝と温熱地獄の衝撃は凄かったですね。

とにかく暑くて眠れない。窓を少し開けるとかのテクニックを覚えるのに何年かかかりますね。

それと、湯治客との語らい。昔頑張ったお年寄りが湯治に来てるんですよ。今回もおじいさん達と話しましたよ。
その方は年に三回、15日ずつ来るんだって。

いいですね。って言ったら、「おめはん方だば、も少し頑張ってがら来(こ)」って言われたよ。

いや、オレも結構年なんですよ。と答えたら、あと10年頑張れっだって。やだな~5年にしてよ。

温泉は、宣伝するわけじゃないけど、最高だよ。もちろん湯量は豊富。天然サウナ、蒸し風呂、泥湯。今回風呂入ってたら、あ~人間が堕落してしまう。とか思っちゃいました。

ボクの目的は山に入ってスキーをすることなんだけど、温泉という根っこの部分がしっかりしているから、悪天候でも
楽しめるのが最高ですね。

すぐそばにある秋田八幡平スキー場は、林間も滑れるからボク好み。土日しかやってないアットホームさも、いいですね。月曜から金曜までは、15名以上の団体に貸切開放するんですよ。僕たちはピステをかけないでもらって、深雪滑りの練習をするんですよ。

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焼山へは旅館の通路から出て向かいます。

今回は悪天候のため、最終日に国見台をスキーで往復しました。


リーダーは、鳥海山祓川から外輪まで2時間で登る、伝説の男T隊長だから今日は安心です。

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早くも難関、裏山に向かう橋

写真が下手でごめんなさい。この幅50センチくらいの橋を渡ってからシールを着けたスキーをはきます。これが恐いんだよ。

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スノートレッキング気分も味わえます。

二時間程で国見台に着きました。美味しい斜面が3ヶ所ほどありましたが、下手なボクは転んでばかり。言い訳をすれば、テレマークって、かかとがフリーだから向かっていくと前にコケルんだよな。

途中平らなところで転んでみんなに迷惑をかけながら1時間ほどかけて温泉に戻りました。

ところが、裏山に戻ったところで、超急斜面の下に宿が。

リーダー、そこを降りろって!イメージ的には旅館激突のイメージなんだよね。

行きましたよ。男3人、女の子2人。「太っても枯れても男の子」

無事転がり降りました。

みなさんも機会がありましたなら、ぜひお出かけ下さいね。

「あなた方が36年をいうなら」

「私は370年をいわねばならない」
 沈寿官  (司馬遼太郎、故郷忘じ難く候{ふるさとぼうじがたくそうろう})

1970年代、韓国の美術界から招かれた薩摩焼14代「沈寿官」氏は、ソウル大学での講演での締めくくりにこう語った。

第二次世界大戦後いち早く立ち直った日本に比べ、朝鮮戦争もあり、当時の韓国は立ち直りが遅れていた。旅行中、沈氏は、会う人ごとに日帝36年間の圧政を言われた。

豊臣秀吉の朝鮮侵略は、領土拡大の野望だけではなく、当時大名や富裕商人の間で流行してきた「茶の湯」、
やきもの戦争の要素もあった。薩摩藩の島津氏は、沈氏らの祖先を薩摩に捕虜として連行した。

彼らの祖先は、城下に住まわそうとした薩摩藩の使いのものに、「日本軍に内応した朱嘉全らがいる城下には行かぬ」と返答した。

島津公はそれに対し、苗代川に屋敷を与え、武士として厚遇したという。それに応え身を粉にして働いたのだろう。やがて代を重ね、薩摩焼として薩摩藩の重要産業にまで発展させていった。

そんな土地柄の美山(苗代川)で育った沈少年は村を離れ、中学に進学することとなった。朝鮮の血は流れていたが自分は紛れも無い日本人。と思っていた彼は入学式当日、日本人にはない姓のために「この中に朝鮮人がいる」と言われいわれなき暴行を受ける。

父はその日のことを自分の経験から予測していた。少年を優しく迎え「なんでも一番になりなさい」とさとした。

当時は韓国も苦しんでいた。ロシアを破り、中国や韓国を植民地化し、敗戦から復興した日本に対してやっかみ、うらみつらみを言う風潮がほとんどだった。

「あなた方が36年をいうなら」

「私は370年をいわねばならない」

・・・・・聴衆たちから拍手はなかった。代わりに370年ぶりに故国に戻ってきた子孫に、見事な合唱で応えた。
沈氏は涙で壇上に立ちつくした。

恨みや憎しみを捨てたとき、初めて人は過去と決別することが出来る。