「あなた方が36年をいうなら」

「私は370年をいわねばならない」
 沈寿官  (司馬遼太郎、故郷忘じ難く候{ふるさとぼうじがたくそうろう})

1970年代、韓国の美術界から招かれた薩摩焼14代「沈寿官」氏は、ソウル大学での講演での締めくくりにこう語った。

第二次世界大戦後いち早く立ち直った日本に比べ、朝鮮戦争もあり、当時の韓国は立ち直りが遅れていた。旅行中、沈氏は、会う人ごとに日帝36年間の圧政を言われた。

豊臣秀吉の朝鮮侵略は、領土拡大の野望だけではなく、当時大名や富裕商人の間で流行してきた「茶の湯」、
やきもの戦争の要素もあった。薩摩藩の島津氏は、沈氏らの祖先を薩摩に捕虜として連行した。

彼らの祖先は、城下に住まわそうとした薩摩藩の使いのものに、「日本軍に内応した朱嘉全らがいる城下には行かぬ」と返答した。

島津公はそれに対し、苗代川に屋敷を与え、武士として厚遇したという。それに応え身を粉にして働いたのだろう。やがて代を重ね、薩摩焼として薩摩藩の重要産業にまで発展させていった。

そんな土地柄の美山(苗代川)で育った沈少年は村を離れ、中学に進学することとなった。朝鮮の血は流れていたが自分は紛れも無い日本人。と思っていた彼は入学式当日、日本人にはない姓のために「この中に朝鮮人がいる」と言われいわれなき暴行を受ける。

父はその日のことを自分の経験から予測していた。少年を優しく迎え「なんでも一番になりなさい」とさとした。

当時は韓国も苦しんでいた。ロシアを破り、中国や韓国を植民地化し、敗戦から復興した日本に対してやっかみ、うらみつらみを言う風潮がほとんどだった。

「あなた方が36年をいうなら」

「私は370年をいわねばならない」

・・・・・聴衆たちから拍手はなかった。代わりに370年ぶりに故国に戻ってきた子孫に、見事な合唱で応えた。
沈氏は涙で壇上に立ちつくした。

恨みや憎しみを捨てたとき、初めて人は過去と決別することが出来る。