7時に起きようとしたら起きれず8時半に起きた…

朝から若干調子が悪い。

鼻と喉が痛く痰が…

 

嫌な予感…大気汚染で鼻喉をやられた上に風邪が?

モロッコの二の舞になることが心配になる。

 

2025/12/16 欧旅㉗ マラケシュ5日目 旧市街の必見名所観光 | 歴史好き感染症科医の旅行ブログ

 

 

宿に付いている朝食。

食堂の雰囲気は良いが、ブッフェというわけではなく出てくるものも特に美味しそうではない。

 

ソーセージやハムは安い肉って感じで若干不安になる。

カットフルーツを出してくれたが心配になり申し訳ないが手を出さなかった。

 

 

インドはどうしても食中毒が頭をよぎるので落ち着かない。

 

朝食の後もなんとなく体がだるい気がする。

微熱があるのか。

 

結局10時半位に出発。相変わらず外に出るのが怖い。

 

まずは「セント・ポールズ大聖堂」

 

 

立派な教会だ。

 

 

 

 

入場料無料ではあるが入り口で寄付を求められた。

100ルピー(170円)だけあげたけど特に文句は言われなかった。昨日のスーパーの物価を見る限り、こちらなら十分なのだろう多分。

 

(解説)

 

 

 

1847年に完成したアジア初の英国国教会の大聖堂。

ステンドグラスが綺麗と。

東インド会社の軍事技師であったウィリアム・ネアン・フォーブス少将により設計。

 

大聖堂内は写真撮影禁止。

撮影者にスタッフが積極的に声かけていたからそれなりに厳重。

 

確かにステンドグラスは綺麗だったが、ネット上にも写真は転がっていない。

 

大聖堂内はかなりしっかりしていてヨーロッパを思わせるつくり。だが、扇風機が回っていたりでここが南国ということを思い起こさせる。

 

数を見たわけではないが、日本の教会より立派。

 

2025/9 新潟県 新潟市① | 歴史好き感染症科医の旅行ブログ

 

 

なんで日本の教会はイマイチに感じてしまうのだろう…

 

 

 

 

色々な理由はあるようだが、信者が少ないことによる資金不足はあるようで。

 

 

この教会内部には植民地時代を感じさせるものが多数あった。

19世紀の人物の墓や記念碑である。

 

一際目立つ形でこの教会を設計した東インド会社の軍事技師であったウィリアム・ネアン・フォーブス少将の碑があった。

 

あと、コルカタ警察、東インド鉄道会社(East Indian Railway Company)の偉い人の墓。

 

また、インド大反乱に巻き込まれて戦死・戦病死した人達の墓。

1857/6/17の夕にデリーで死んだと具体的な日時までかかれた若い兵士の墓まで。

 

 

 

(1857/6/17のインド大反乱の状況)

 

 

 

イギリス軍によるデリー包囲戦まっただ中!

デリーの史跡巡りでデリー包囲戦は激戦だったことが伺えたがその最中に亡くなったのだろう。

 

2026/3/28② デリー2日目 1857年のインド大反乱の史跡を中心に見て回る | 歴史好き感染症科医の旅行ブログ

 

 

まぁ何故彼の墓がコルカタにあるかはよくわからなかったが。

 

あと気になったのは「Hari Har Sandel」という人物とその家族の墓があったが…

家族まで一緒にここに入って大聖堂内にそれなりのスペースを取っているということはこの教会に貢献した人なんだろうか。

 

(Hari Har Sandel 何をした人か)

 

 

 

19世紀半ばに活躍したインド人の先駆者的な宣教師。

初代大聖堂宣教師で、ベンガル語での礼拝を始めた人。

 

なるほど…コルカタでのキリスト教普及を進めた人。

 

まぁ言うほどコルカタはキリスト教徒は多くないみたいだけど。

 

 

 

 

加えて私の目を引いたのは確か1840〜50年代に18歳で亡くなったという、F.J.Delbouxという人の妻の墓。

彼女の母親が死を悼んでここに墓をつくったと書いてあったが、説明書きの横に彼女を姿を形どったレリーフが掘ってあった。

母親の悲しみが伝わってきた感じで印象に残った。

 

 

ここの墓に入っている人たちは私が見る限り20〜60歳代で亡くなっている人が多く、当時の生活の過酷さの一端を見た気がする。

当時はお互いの環境が違いすぎてイギリス人がインドで生きるのは相当に大変で早死にした人が多かったと聞いたことあるし。

また、これらの墓は彼らの家族・友人や部隊の仲間などの有志が建てたと掘り込んである記載があるものが多く、150〜200年近く前の人達の想いが伝わってきた気がする。

 

中はそこまで広くない大聖堂だが、30分程度見入ってしまった。

 

 

次は「ビクトリア・メモリアル」を目指す。

 

 

 

 

この辺りは落ち着いた雰囲気はあるが、やはり至る所にゴミが散乱していて気分が萎える。

そして油断するとやはり小便の臭い。

 

 

そして鼻、喉に加えて目にも排気ガスが入り目が染みる。

鼻を噛むと鼻水が少し黒い。

 

 

「ビクトリア・メモリアル」に到着。

とても綺麗である。

施設内の入場料は500ルピー(約900円)

 

 

購入のために並んでいる列に少しスペースを空けていると後ろの人が次々と割り込んでくる。

デリーでもそうだった。なぜインド人は割り込むのか。

 

 

順番が生存に関わるとは。

やはりインドは環境が過酷。

 

入場料を払っているときに物乞いがお金をくれと言ってきたが無視。

とりあえず、直感で引っかからないのに詐欺にあったトラウマもあり、観光地で話しかけてくる人は無視することにした。

 

2026/3/30① アグラ1日目 マージ・マハル、ベビータージ | 歴史好き感染症科医の旅行ブログ

 

 

後ろの人が小額を喜捨していたが、どうせ私が喜捨しても「金持ちな外国人なんだからもっと寄越せ」となるんだろうし。荒んだ心。

 

 

(ビクトリア・メモリアル 解説)

 

 

1901年に死去したビクトリア女王を偲びつくられた。

タージ・」マハルと同じラジャスタン州の白い大理石が使われている。

 

確かにタージ・マハルに威容がどことなく似ている。

 

 

前に立つ像については誰の像かよく分からず。

 

ドームの上に立つのは勝利の女神のブロンズ像。

 

 

中は博物館になっている。

 

ビクトリア記念堂の建設時の様子の写真が多く残されていて大変興味深かった。

また、植民地時代の絵画や武器など展示がありとても勉強になった。

インドの英雄(ガンジー、ボース他多数)に関する絵画もありそれも良かった。

 

また館内写真撮影禁止と結構表示があるのに皆気にせずパシャパシャ撮っていたのは気になった。警備員も特に止めてない。

デリーでも貴重な建築物に「触るな」と書いてあるのにペタペタと触っている現地の人も多く見たし、日本ほど注意書きは守らないのか。

 

内部は全て見るのはすごく時間がかかるだろうと思っていたが、想定程広くなかったので逆に助かった。

 

真ん中のビクトリア女王の若い頃の姿の彫像と内部の装飾とのコラボは写真映えして多くの人が写真を撮っていた。

ビクトリア女王の彫像の顔はイギリス、スリランカ、インドで見たものと変わらない。美人だったんですね。

 

満足して外に出て庭を散策して北へ。

 

 

池に映った姿も良い。

 

 

どの角度から見ても綺麗。

北側から。

何か像が。

 

 

こちらもビクトリア女王のようだ。こちらは晩年の姿か。

 

 

敷地は結構広い。

やばい、熱中症になる。だるい…

 

敷地から出て近くに像。

 

 

Rishi Aurobindoという人物らしい。

 

 

インドの独立運動家、哲学者、ヨーガ指導者、詩人。政治的な独立運動のリーダーから、精神世界を探求する聖者(リシ)へと転身した、インド近代史において非常に重要な人物とのこと。

多分、ビクトリア・メモリアル内のインドの英雄の絵画群の中にこの人の絵もあったと思う。

少し特徴的な風貌。

 

 

 

その後、「Garer Maath」という公園を横目に見ながら北上。

 

 

 

公園内は炎天下で遮るものがないので、車道沿いを。

 

 

というか公園内もゴミが散乱しておりあまり綺麗ではない。

 

 

そんな中でも現地の人達はクリケットを楽しんでいる。

 

 

さすが世界ランキング一位の国。

 

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さらに北に行くと像。

 

 

そして昼寝しているホームレス。

 

結構色んなところに人や犬が寝ているのでビックリする。

特に犬は狂犬病を持ってるから尻尾を踏まないように気をつけないと。まぁインドでは人も狂犬病持っているかもしれないけど…

 

像の人は「Raja Rammohan Roy」

 

(像の解説)

 

 

 

「近代インドの父」と称されるインドの社会・宗教改革者。

19世紀初頭のインドにおいて、西洋の近代思想とインドの伝統を融合させ、社会の近代化に大きく貢献した。

当時のインド社会に残っていた、夫を亡くした妻がその火葬の火に飛び込んで殉死する悪習「サティー」の撲滅に尽力。彼の精力的な反対運動の結果、1829年にイギリス東インド総督によってサティーを禁止する法律が制定されたとのこと。

 

 

そこから北は日影なし。

やばい、ずっと向こうまで道が続いている。

 

 

この通り沿いは像、碑、観光名所が多いが。

 

「Purvi Kaman Vijay Smarak পূর্ব কামান বিজয় স্মারক」

 

 

(解説)

 

 

 

1971年の印パ戦争勝利25周年を記念して、1996年に建設されたフォート・ウィリアム(Fort William)内に位置する、東方司令部(Eastern Command)の戦没者慰霊碑。

 

インド・パキスタンが仲が悪い理由はこれ。

 

(インド・パキスタン戦争)

 

 

 

 

ちなみにタージマハル観光の時にガイドさんに徴兵に行った事があるのかと聞いてみたが、「無い」という答えだった。

 

後で調べてみたらインドは一貫して完全志願制らしい。

インドでは軍職は安定した人気のある職業の一つであり、徴兵しなくても十分な志願者が集まるとのこと。パキスタンも同様。

 

 

この戦没者慰霊碑はフォート・ウィリアム(Fort William)内にあるのだが…

 

 

 

(フォート・ウィリアム 解説)

 

 

 

 

 

植民地時代にイギリス軍によりつくられた八角形の要塞。

現在はインド陸軍東部司令部の拠点として使用されており、一般市民や観光客の立ち入りは厳しく制限されている。

八角形の要塞は遠目からも見えると聞いていたのだが、残念ながら私は見るとこはできなかった。

 

こちらがフォート・ウィリアムの方向だが…

 

木で何も見えない。

 

ちなみに先ほどのゴミが散在し、地元民がクリケットを楽しんでいた「Garer Maath」という隣接する公園。

あそこは元々は練兵場だったらしい。

 

 

そしてまた像。

 

 

Dr. B. R. Ambedkar。

 

(解説)

 

 

 

 

インド憲法の父。

独立後のインドで初代法務大臣を務め、インド憲法の起草委員長として憲法を執筆。

憲法の中に「不可触制」の禁止と差別の撤廃を盛り込み、カースト差別の禁止・ダリット(不可触民)の解放への法的基盤を築いた。

「ヒンドゥー教徒として生まれたが、ヒンドゥー教徒としては死なない」と宣言し、1956年に数十万人の支持者とともに仏教へ集団改宗し、新仏教運動(ネオ・ブッディズム)を起こした。

 

 

さらにこちら。

 

 

イスワル・チャンドラ・ヴィディヤサガール(Iswar Chandra Vidyasagar)

 

(解説)

 

 

19世紀インドの教育者、社会改革者、そして現代ベンガル語散文の父として知られる偉人。

当時のインド社会における女性の地位向上や教育制度の近代化に生涯を捧げた。

その驚異的な知識と学識から、「知恵の海」を意味する「ヴィディヤサガール(Vidyasagar)」という称号を授けられている。

 

 

さらに北上。

これは、何かの碑?

 

 

「インド国民軍(INA)戦没者慰霊碑(Monument of INA Martyrs)」

INAについては、デリーの赤い城(レッド・フォート)の博物館で学んだが…

 

2026/3/28① デリー2日目 ジャーマー・マスジッド、レッド・フォートなどを観光 | 歴史好き感染症科医の旅行ブログ

 

 

(解説)

 

 

 

ここに書いてある「レッド・ロード」というのは、今炎天下で私がフラフラになりながら像や碑の写真を撮りまくっていたこの通りで良いのだろうか?

地図で見ると「インディラ・ガンディー・サラニ(通り)」となっているが?デリーの国際空港名と同じ。

 

(インディラ・ガンジー通り 歴史)

 

 

 

 

なるほど。

元々はイギリス軍により建設され、赤い砂利が敷かれていたのでレッド・ロード。

INA(インド国民軍)とレッド(赤)から「血」を想定したが…良かった…

1985年にインディラ・ガンディー通りと改名。

像な碑がゴテゴテあり重要な通りであるとは思っていたけど、やはり1820年の建設からイギリス植民地時代から現代に至るまで、軍事・政治・文化の重要な舞台となってきたとのこと。

 

 

またこの碑の近くに犬の死体があった。

首に少し装飾のついた紐状のものが乱雑に巻かれていた。

誰が悼んで巻いたようだ。

犬の遺体とか初めてみた。

人の遺体を見てないだけ幸い。

 

 

また像。

「マタンギニ・ハズラ(Matangini Hazra)」

 

 

(解説)

 

 

 

マハトマ・ガンジーの思想に強い影響を受けた女性革命家。

イギリス人の銃弾に倒れる。

 

近くに「Shaheed Minar」

 

 

 

近寄って根元まで見に行く元気はない。

写真には写してないが、このすぐ右横の地面には多くの薄汚れた格好をした現地人が横になっており、写真を撮っている時にこちらを見てきたので気まずかった。

 

(解説)

 

 

 

元々は東インド会社の指揮官を功績を称えるために1828年に建てらられたが、のちにインド独立のための殉教者を称えるものに変更。先程の旗を持った女性革命家(イギリス軍の銃弾で死亡)の像が近くにあったのも納得。

 

 

 

道路の反対側。

この写真には色々な物が詰まっている。

 

 

奥に「エデン・ガーデンズ Eden Gardens」というスタジアム。クリケットの競技場らしい。

 

その手前の塔みたいなものは「The Cenotaph দ্য সেনোটাফ」というらしい。

 

そして俯いている像。下に「Police memorial」と書いてある。

「Police memorial」は職務中に殉職した警察官のための記念碑らしい。

このあたりは官庁や警察関連の施設が多くあるとのこと。

 

これからさらに北上してその辺りを見ていく。

 

 

 

「The Cenotaph দ্য সেনোটাফ」についての解説は以下。

 

 

 

 

第一世界大戦の死者を追悼する碑。

確かに先ほどの写真も根元に兵士っぽい像が少しだけ見えた。

 

もう少し行くとさらに像。

 

 

これは「スバース・チャンドラ・ボース」の像。

先程INA(インド国民軍)の碑が近くにあったが、INAの総司令官だった彼の像がここにあるのも納得。

 

また私の途上にはなかったが、マハトマ・ガンジーの像もこの近くにあるようだ。

 

知名度でbig 3に入るインドの英雄達の像があるということは、コルカタの人々がこの辺りを中心と考えているという事が伝わってくる。

 

 

また像。

 

 

共産主義の理論的創始者であるカール・マルクスとフリードリヒ・エンゲルスを記念した記念碑。

コルカタを含む西ベンガル州は、かつて数十年にわたり共産主義政党による政権が続いていた歴史があり、市内にはこのような共産主義に関連する記念碑や通りの名前が今も残っているとのこと。 

 

 

立て続けに像で申し訳なかったですが、そこに何故その像が建てられたかを考えると現地の人の価値観がわかる気がする。

勉強になりました。

 

 

そしてさらにコルカタの中心に迫る。

 

②へ続く。