2026/5/20 中国・東北地方旅行 旅順① | 歴史好き感染症科医の旅行ブログ

 

の続き。

 

 

タクシーを呼び、次は「旅順日露監獄旧跡博物館」を目指す。

 

 

 

 

入り口。

入場料無料。予約必要無し。

 

 

 

(歴史、見どころ)

 

 

実際に監獄として使っていた建物を博物館に。

元々ロシアが建設途中のものを、日露戦争勝利後に日本が引き継ぎ完成させた。

抗日活動家などを収監し、強制労働や処刑なども行われた模様…

ハルビンで伊藤博文を暗殺した安重根もここに収監され処刑されたという。

 

2026/5/14-16 中国・東北地方旅行 ハルビン | 歴史好き感染症科医の旅行ブログ

 

広い。

 

 

ガチで監獄。

 

 

 

有刺鉄線…

 

 

灰色の壁の建物はロシアが建設したもので、赤煉瓦の建物は日本が建設したものらしい。

 

 

独房。

 

 

後から振り返ると、この辺りに安重根が死ぬまで過ごした独房があったようだが、時間もないので慌ててみたから普通にスルーしていた。

多分、視界には入っていたが、どの房だかよくわからなくなってしまったのが残念。

 

拷問部屋

 

 

当時の日本人職員の模型。

 

 

中央から2方向を見渡せる構造。

ゴールデンカムイに登場した北海道の網走監獄も同様の構造みたいだが。私は、昔、釧路までは行ったものの吹雪いたため電車運行停止し、網走は行き損ねた。

いつかは行きたいが、流石に東京からは遠いからなかなか…

 

 

 

 

 

繰り返しになるが、赤煉瓦の部分は日本軍が建設したところ。

 

 

 

 

医務棟の一室。

 

 

 

この近くに処刑室がありました。

底が抜ける形で執行される絞首刑のための部屋。

なんとも言えない雰囲気がありました。

 

死亡者の埋葬の様子を再現した模型。

 

 

棺桶。

 

 

1時間くらいでさらっと見ました。

通路は狭いところも多く、中国人の団体客が所々詰まって、見て回るのに少し時間を取られました。

見応えありました。

 

 

スタンプラリー観光を続行する。

次は「旅順博物館」へ。

 

 

 

 

 

 

(旅順博物館。歴史、見どころ)

 

 

 

日露戦争後、日本が物産陳列所として1915年に着工し、1917年に「関東都督府満蒙物産館」として正式開館。

中国東北部や内モンゴルの文化・歴史を研究・誇示するための拠点だった。

旅順の歴史についての博物館というより、珍品を陳列した博物館。

1000年前のものがわんさか。

 

この博物館の目玉であるシルクロードの2体のミイラは写真撮影禁止。

1000年以上も前のものだが、保存状態はかなり良い。

流石に動き出しそうとまでは思わなかったが、ご遺体の風貌がしっかり残っており、ああ、今でもこんな見た目の中国人いるなぁ。というくらい。

千年前の人も、基本的には我々と大きくは違わないと感じる。

ネットで検索すれば画像は出てくるので、興味ある人はどうぞ(生々しいのでここには載せません)。

 

 

旅順博物館。主館は見れましたが、この時点で16時をまわったので分館までは見れませんでした。

満足して退館。

 

 

 

旅順博物館の周辺は「太陽溝(たいようこう)歴史文化街区」と呼ばれ、19世紀末から20世紀前半にかけての帝政ロシアと日本統治時代の近代建築がそのまま残る「屋根のない建築博物館」であるとのこと。

付近を散策する。

①が旅順博物館。周囲に多くの歴史的建造物が残る。

 

 

 

(太陽溝(たいようこう)博物館。歴史、見どころ)

 

 

19世紀末にロシアが旅順を支配した時に、この辺りを「新市街」として開発した。日露戦争後は、今度は日本がそれを引き継ぎ、「関東軍司令部」や「関東庁」などが置かれ、満州進出の政治・軍事の中心地として機能させた。

先程の地図に沿って太陽溝歴史地区を散策。

 

左は「中ソ友誼記念塔」。1957年に完成。1950年代、中国とソ連(当時)の友好・団結の象徴として建てられた。

右の奥の建物は「関東軍司令部」。

 

 

ここに関東軍の司令部があったのは1919年から満州事変勃発の1931年まで。

1931年に満州事変が起こると、前線指揮のため奉天(現:瀋陽)に移転したらしい。

その後、満州国が建国し、新京(現:長春)が首都として定められると、今度は新京に移転した。

 

長春の関東軍司令部は先日見た。

 

2026/5/16-18 中国・東北地方旅行 長春 | 歴史好き感染症科医の旅行ブログ

 

 

近くから。

 

 

側面。

 

 

本日は昼を食べずに観光を続けた。

軽食をつまみたかったが、スーパー含めて丁度良い店が目に付くことなく、貴重な時間を優先し。

 

だが、さすがにエネルギー不足。

カフェを見つけたので入ることにした。

 

 

外装通りの綺麗な内装。

 

 

生き返った。

 

 

 

その後、散策を再開。

比較的よく撮れた写真のみ貼り付けていく。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そして、旧「旅順大和ホテル」。

 

 

(歴史)

 

 

満州国皇帝の溥儀もここに泊まっていたらしい(正確には皇帝になる前)。

1931年に起きた九・一八事変(満洲事変)の後、天津の日本租界を脱出した溥儀は、関東軍の手引きによって旅順へ移され、1931年末から約105日間にわたってこのホテルに滞在した。

当時は関東軍の厳重な監視下に置かれており、ホテルの2階部分に寝泊まりしていた。

滞在中の1932年2月24日には、ホテルの1階レストランにて、関東軍高級参謀の板垣征四郎らと満洲国建国に向けた重要な密談を行い、建国を祝って乾杯したという記録が残されているとのこと。

溥儀が「満洲国皇帝(当初は執政)」として担ぎ出される直前の、運命的な準備期間を過ごした極めて重要な歴史の舞台。

なお、近隣の「旧大連ヤマトホテル(大連賓館)」や「旧新京ヤマトホテル」にも溥儀の宿泊記録や足跡が残されているため、満鉄ヤマトホテル系列の多くの施設に滞在歴があるらしい。

(大連のヤマトホテル跡は翌日に目にすることになる。 2026/5/19-21 中国・東北地方旅行 大連(+旅順) | 歴史好き感染症科医の旅行ブログ

 

 

その後、歩いて行けなくもない距離だが、時間もないし、多少距離があるのでタクシーに乗って「旧旅順駅」へ。

 

 

(旅順駅。歴史、見どころ)

 

 

 

エメラルド色の綺麗な駅舎。

 

 

 

 

 

 

その後、近くの「軍港公園」から旅順港を眺める。

 

日露戦争時、ここに太平洋艦隊が停泊しており、この砲撃のための座標確認のために、見晴らしの良い203高地で激闘が繰り広げられたのは先程述べた通り。

法に触れる恐れがあるので写真は割愛。

 

①の奥まった湾になっているところが旅順港。外海の影響を受けず波が静かなので軍艦の停泊にはうってつけとのこと。

最後に、旅順港が綺麗に見えるという白玉山に登ることにした。

 

 

 

既に18時をまわっている。夜間は閉鎖されるとの情報を目にしたが、近いのでダメ元で入り口まで行ってみることにした。

 

入り口のスタッフに「入って大丈夫か?」とアプリで翻訳した中国語を見せたら、いいから行け!と手で少し手荒に合図された。

入れないと思ってたのに入れた。しかも、入場料がかかると聞いていたが取られず。

いずれにせよ、ラッキー。

 

先程、203高地で会った日本人大学生らは、「入場料は結構適当な所がある」と言っていたが、確かにそうかもしれない。現に203高地も取られなかったし、彼らにいたっては私も行った「水師営会見所跡」でも取られなかったようだ。

 

 

遠くに見える塔が目的地のようだ。

 

 

(白玉山。歴史、見どころ)

 

 

この「白玉山」は「李鴻章」が命名者。

学生時代、世界史で、よくテストに出た人。

清国の全権大使として、日清戦争の講和条約である下関条約を締結した人物である。

昔、下関に行った時に、その締結が行われたという料亭の建物は見たことがある。中は入らなかったが。

 

中腹にあるこの大砲は「甲午古砲」と呼ぶらしい。1881年に清朝政府がドイツのクルップ社から李鴻章が購入したカノン砲(大砲)とのこと。口径は150mm。

元々は日本軍の迎撃用として老鉄山砲台に設置されていたようだが、日露戦争後に旅順を占領した日本軍が戦利品として現在の位置に移設したらしい。

つまり本物?

 

 

中国では日清戦争を「甲午戦争」と呼ぶらしい。なので「甲午古砲」。

 

 

さらに登る。リフトでも行けるようだが、既に営業時間は過ぎており止まっている。

 

 

上から見えた旅順港は思ったより小さい。

確かに景色は良かったが、天気が良ければさらに絶景だったろう。

法に触れる恐れがあるので写真は割愛。

 

 

白玉山の一番高いところ(標高130m)の塔。

この塔は「表忠塔」という。

乃木希典や東郷平八郎らの発案により、戦没した日本兵の慰霊と戦勝記念を目的として建てられたもの。

 

 

 

確かに、年季を感じる。

 

 

また、先程、行った203高地も遠目に見えた。

 

 

 

これで旅順の大体の名所は行ったはず。

 

本当に疲れました。3万歩歩きました。

 

 

 

タクシーを呼んで、行きと同じく1時間程度で大連に戻りました。

大連、旅順の移動はタクシーを使ったにも関わらず往復で5000円していないと思います。

電車でも行けるらしく、運賃はかなり安いようですが、乗り換えが多く、下手したらタクシーの倍の時間を使うらしいです。

黙ってタクシーに乗り込んで正解でした。

 

旅順では、カフェでの飲食、タクシー移動、観光地の入場料でちょくちょくお金を使いましたが、それでも今回の旅順1日観光で1万円も使ってないと思う。

見たいところも自由に見れたし、5万円のパック旅行は参加しなくて正解でした。

 

 

今日は、雨の中自分でもよく頑張ったと思う。

今回の旅順の旅では、私の人生の中で、日本軍の戦場というものを一番身近に感じた気がする。

来てよかった。

 

正直、先人達はなんのために命を懸けて、ここで戦っていたのか?

彼らが命懸けで戦う意味がどれくらいあったのか?

結局、人類の歴史は戦争を繰り返してきた中で、なんて無駄なことをしてきんだろう。時代的にそうしなければならなかったとしても、無駄なことに命をかけたな。と思ったりもする。

ひょっとして彼らが戦わなくても我々の生活は大きく変わらなかったのかもしれないとも感じたりもするが。

 

しかし、最近こちらの本を読んで戦争について改めて考えさせられた。

私の祖父は1920年と1924年生まれで2人とも太平洋戦争で兵役についている。この本の定義によれば青春を戦争、そして死とともに過ごした「戦中派」である。

 

 

この本で特に恐ろしいと思ったのは、厚生省のデータに基づいた、生年毎の太平洋戦争での人口の減少率についての記載である。

戦前の1940年と戦後の1947年を比較しているのだが、1921年、22年、23年生まれの減少率はなんと27.9%、28.0%、27.0%らしい。

私の祖父2人はこれらを挟む形の生まれになるが、まぁほぼ同世代というわけで、つまり彼らの世代は3人〜4人に1人が戦争関連で死亡したということになる。

これについては、この本で繰り返し述べられていたが、なぜ俺が助かりアイツが死んだのか。生涯を通じて自問自答した人も多かったという。

まぁ、結局は運以外の何者でもないという結論になるようで、死んだものに申し訳ない、死んだやつらの分もしっかり生きなければ。つまり、生きながらにして死を横に置いて生きてきた世代と言えるとのこと。

私は祖父達からそのあたりの心境を突っ込んで聞いたことはない(というか聞けなかった)が、身近な世代でもこんな感じ。

 

まぁ個人的には、結局は、この絵が一番上手く表現しているかなと思う。

 

今のこの平和な生活を、戦争で傷つき血塗れた兵隊が支えている絵。

(若干過激なので必要箇所は塗り消し。興味ある人はリンクからどうぞ)

 

 

 

 

現在の我々の生活のために頑張ってくれたのだから、やはり感謝の気持ちは忘れてはいけないなと思う。

 

さて、今の日本は戦争はなくて良かったと思いつつ、その後は大連で、昨日行った「東関街」の同じ店で海鮮を食べました。

 

2026/5/19-21 中国・東北地方旅行 大連(+旅順) | 歴史好き感染症科医の旅行ブログ

 

 

 

 

 

そして、ホテルに帰り、隣のローソンで夜食を購入。

 

Lay'sのキュウリ味は中国限定らしいが。

 

 

本当にキュウリみたいな味でした。

ローソンは少し値段高め。

 

つかれて爆睡。