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旅順一日観光まとめ①
ある意味、この旅のハイライト。
正直、今回は1週間でハルビン、長春、大連と移動していく中で、プラスして旅順に行くのは詰め込みすぎだろうと当初は考えていた。
また一般に出回っている旅順の一日観光ツアーも、最小参加人数が2名〜のものが多く、1名だと5万円以上する高額プランしか見つからず。
そのため、大連に来るまでは、旅順行きは諦めていた。
しかし、この一週間を中国で過ごし、タクシー料金の安さと便利さを肌で感じ、大連から車で一時間の距離の旅順へは案外簡単に行けるのではないかと思えてきた。
ということで、旅程の最後に体に鞭打ち頑張って旅順に行ってみることにした。
朝の起床後。大分疲れが溜まって案の定動けなかったものの、なんとか9時にホテルを出発。
大連〜旅順は40〜45kmの距離とのことだが、結局一時間足らずの乗車時間で、10時前には旅順に到着した。
(旅順の歴史)
旅順は、19世紀後半から第二次世界大戦戦後まで目まぐるしく支配者が変わった天然の良港。
日露戦争時の「203高地」は日本人の間では特に有名。
まずは、旅順市内から見て東に位置する「東鶏冠山の北堡塁」から観光する。
堡塁(ほうるい)とは、敵の攻撃を防ぐために、土砂、コンクリート、石などで頑丈に構築された要塞(陣地)のこと。
(東鶏冠山北堡塁。歴史、見どころ)
知名度は劣るが、203高地と並ぶ、日露戦争の旅順戦における激戦地のひとつ。
強固なロシア軍要塞があった場所で、ここを攻略するために8000人の日本軍兵士が命を落とした。
何故そのまでの犠牲を払ってまで、この要塞を落とさなければならなかったのか?
ai先生にまとめてもらった。
なるほど。
敷地の入り口。
天気は生憎の雨…
大砲。
地図。
この先から入場料を取られる。
25元(約600円)。事前予約は必要無し。
戦時の要塞の絵と、現在の敷地図。
道なりに階段を登っていくと機関銃が待ち構える。
ロシア軍のかつての陣地内に入ったらしい。
こちらによるロシア軍の銃撃で日本軍は文字通り蜂の巣に…
有刺鉄線には高圧電流を流したらしい。
ロシア軍が使った塹壕跡。
さらに少し登っていくと要塞の壁が。
その一端に「日本軍の爆破口」。
日本軍は、多大な犠牲を払いながらここを爆破することで、要塞内の侵入に成功したらしい。
要塞の中はこんな感じ。
振り返って日本軍の爆破口の方を見ると…
女の人の横顔にみえる偶然。
ここの入場チケットのデザインもこれ。
そして、要塞の外壁がこちら。
当時の銃痕だろう。
まさに蜂の巣。
120年以上経っても激戦の様子が伝わる。
そこからさらに要塞の内側に。高台になっているので少し階段を登ると。
ロシア軍の指揮所。
その隣のこの空間。
ここは、当時この要塞の防衛を指揮し、ロシア軍の精神的支柱だったコンドラチェンコ少将が日本軍の砲撃で亡くなった場所とのこと。
ここにある中国語の案内板。
こちらをgoogle翻訳すると、戦後に日本軍がここで少将が亡くなったとことを示す碑を建てたと書いてある。
右の石碑がそれ。確かに日本語。
「露国コントラデンコ少将戦死之所」
案内板の古写真と同じアングルだが、流石に100年近く経てば周囲の様子は変わっている。
特に木々が生い茂ってる点。戦時中は激しい砲撃などのため禿山だったようで、古写真の奥の石碑は今では見ることはできない。
古写真で確認できる方向に向かうと、奥の石碑は今でもあった。
「東鶏冠山北堡塁」の碑。
近くに大砲。
戻って指揮所の近くには兵士の宿舎。
こんな所で寝ていたのか?結構狭い。まぁ、最前線だったし。
と思って、回り込んで正面入口に行くと…
まぁ確かに宿舎だったと言うことが伝わる。
一階と二階を隔てる床はこの120年の間に崩れ落ちたのか?
敷地内に「日露戦争陳列館」というものがあり覗いたが、主に旅順の歴史がメインなようで、この東鶏冠山の戦いを主題に置いたものではなかった。
時間もないのでさらっとだけ見学してこの史跡を後にした。
陳列館を出ると雨足が強くなっていて萎えたが、次に「水師営会館所跡」を目指す。
入り口がわかりづらく迷ったが…
(水師営会見所。歴史、見どころ)
1904〜1905年の旅順攻防戦の結末は日本の勝利で終わったが、その停戦・降伏調印は、日本とロシアの両軍司令官の乃木希典 大将とアナトーリイ・ステッセル中将によりここ水師営で行われた。
入場料は25元(約600円)。事前予約必要なし。
奥にあるオレンジ色や屋根の建物(レプリカ)で調停が行われた。
建物内は写真撮影不可らしい。
建物の入り口に入ると左右の部屋にわかれる。それぞれの入口上部にはロシア軍控室(右)、日本軍控室(左)と書いてあった。
写真からもわかるように、大きな建物ではなく、各部屋は5人も入ればかなり手狭。
現在、右の部屋には当時の写真が展示されており、左の部屋には机と長椅子が置いてあり、背後に会見所という垂れ幕が壁にかかっている。
どうやら、左の部屋の机で会見し、調停のサインをしたらしい。
部屋というか小屋自体が、冬はめちゃくちゃ底冷えしそうなとても質素な作り。
ここは元々は農民の李さんの家で、日本軍が野戦病院として使ってたらしい。
だが、何故こんな侘しい家でわざわざ歴史的大戦の調停を?
なるほど。この一帯は破壊し尽くされて、ふさわしい場所のふさわしい建物がこれくらいしかなかったと。
恐ろしすぎる…
会見所の机(レプリカ)。
会見前は、日本軍の野戦病院として、この机は手術台としても使われていたとのこと。
くすんで一見では気付かなかったが、よく見れば日本語で何やら文字が書いてある。
「明治三十八年一月二日水師営に於ける第一師団衛生隊包帯所を以て、日露両軍使旅順開城談判所に充てられたる際、この手術台上に白布を被いて卓子と為し、両軍使相対して、条約を締結したるものなり。第一師団衛生隊医長横川徳郎識す」
と書いてあるらしい。
陸軍第一師団といえば、「ゴールデンカムイ」の主人公である「杉本佐一」が所属していた部隊。
旅順の激戦を傷だらけになりながらも鬼神の如く戦って生き残ったため、「不死身の杉本」と渾名されたという設定。
旅順攻防戦における各師団の展開。
ai先生にまとめてもらったがわかりやすい。
なるほど、第一師団はここ水師営から東の203高地にかけて展開していたのか。
そして、第七師団の鶴見中尉、月島軍曹、谷垣ニシパらは予備戦力として、第一師団と共に203高地に投入されたと。
ちなみに先程の東鶏冠山の戦いに展開されたのは、第十一師団。
東鶏冠山(①)、水師営(②)、203高地(③)の位置関係はこんな感じ。
203高地はこの後行きます。
第七師団。
ちなみに敷地の端のこの木。
乃木希典が会見のためにここに到着した際に馬を停めた木とのこと。
この貧弱な木に馬なんか停めれるのか?と思ったら、どうやら「四代目」とのことでした。
それはもはや別の木ではないのか?
ちなみに、中国人観光客で賑わっていた東鶏冠山と違い、ここは私以外誰一人観光客はいませんでした。
そんなに見るとこもないのですが、落ち着いた雰囲気のため、ダラダラ20〜30分位じっくり見てましたが結局誰も来ず。
中国人はあまり興味ないのか?
ここのスタッフの方は、今回中国に来て初めてというくらい日本語がペラペラで、安心感がありました。
日本人観光客は多いんだろうな。
旅順攻防戦の終戦直後は跡形もなかったというこのあたりですが、現在は結構賑わってました。
水師営会見所の入り口から伸びる通り。
少し歩きましたが、飲食店とかもそこそこありそう。
にしても、相変わらず雨が止まない…
足元が、びしゃびしゃで体が冷えてきたが、このまま観光を続ける。
次は、今回の旅順観光のメインである「203高地」へ。
「203高地」へ。
入場料は有料と聞いていたので入り口でチケットを買おうとしたら私の前の2人組の客が揉めている?
よく聞けば彼らが話しているのは日本語。
この旅で初めて日本人に会った。
まぁ、今までも多分いたんだろうが、中国人も日本人も見た目だけじゃ判別つかない。
今回の旅での他の日本人との接点は、先日のハルビン市博物館で、入場の際にIDなどの書類記入をした際、私の前の客が日本人であったことに気付いたという程度。
とりあえず、その日本人2人組に話しかけてみた。
2人は大学生。
ここにはもちろん、私と同じく203高地を観光に来たとのこと。
先程少し揉めていたように見えたのは、入場料のことで。
よくわからないが、結局は入場料は要らないと言われたとのこと。
なので、便乗して私も2人と一緒に敷地内へ。
このチケット売り場から203高地までは距離がある。
目指す方向は同じ。なので、2人と話しながら進むことにした。
(203高地。歴史、見どころ)
日露戦争において、ヨーロッパのバルト海からロシアの「バルチック艦隊」がアジアに向けて航行中していたが、これがアジアに到着し、旅順港に停泊していた「太平洋艦隊(旅順艦隊)」と合流すると日本海軍に勝ち目はなかった。
2つの艦隊の合流前に旅順にいた太平洋艦隊を撃破する必要性があった。
そのためには、艦隊の正確な位置を把握できる観測点の確保が重要だったが、その絶好のポイントが「203高地」だった(最高点の標高が203mのためこの名前)。
そして、ここを巡って激戦が繰り広げられたわけだが、日本軍は要塞化された203高地に決死の突撃を行い、最終的にここの攻略に9日間を要し、5000人の死者と12000人の戦傷者を出した。
その後の戦況としては、203高地の観測結果から、旅順港の太平洋艦隊の撃沈に成功し、のちに東郷平八郎率いる日本海軍が、残りのバルチック艦隊を日本海海戦で撃破。そして、最終的に日本は日露戦争に勝利した。
なので、この203高地はまさに日露戦争の勝敗の分岐点となった戦い。
なお、中国人の間では、この場所は史跡というより「桜の名所」で有名らしい。
ただし、今は桜の季節ではなく、今日は雨という悪条件。
我々3人以外は、誰も203高地に登る者はいなかった。
奥の203高地を目指す。
段々と近づいてきた。
ここをかつて日本人が命懸けで進撃していったと思うと…
「ゴールデンカムイ」
「坂の上の雲」
古写真によれば日露戦争当時は禿山。
これは、ロシア軍による防衛上の戦略的伐採(日本軍のための遮蔽物にならないように)と、日本、ロシア両軍の激しい砲撃戦(数万発。山の形が変わるほどの攻撃だったともされる)により残った草木も吹っ飛んだためらしい。
怖ろしい…。
中腹に到着。
右手に「ニ〇三高地」と書いてある。
チケット売り場から「桜の名所」という公園を通ってここまで10分足らず。
話しながらだと、あっという間。
ここからさらに頂上を目指す。
ちなみにこの大学生たち。彼らは今回「青島」から中国に入ったらしい。
往復チケットが2万円だったそうだ。それは安い。
そして青島から船で大連にわたり、北朝鮮の国境沿いの「丹東」に行って引き返してきたらしい。
大連から北朝鮮の国境…
実は、私の親戚には、満州国出身者が一人いる。
父方の祖父の弟の奥さん。つまり私の血の繋がってない大叔母。私の父のイトコの母。
彼女は、終戦頃に大変な苦労をしたようで、満州国が崩壊し、ソ連軍が迫って来る中で命からがら日本に向けて逃げたらしい。大連から現在の北朝鮮国境まで歩いたとのことだが、その途中で母と妹等を亡くし、無事日本に辿り着けたのは本人と姉一人だけだったようだ。
ご本人は現在認知症を患っているので、この話は娘さんである父のイトコから聞いたのだが、彼らが旅行した道は、私の大叔母が終戦頃に避難したルートに近かったのだろう。
その件を彼らに話したら神妙な顔をしていた。
彼らも私と同じ歴史好きということで、それなりに話が盛り上がり、彼らの知識の豊富さには少し驚いだが、「実際の戦争経験者から戦争の話を聞いたことはない」といっていた。
彼らは20歳。そうか…これがジェネレーションギャップ。この年代になると、もう戦争経験者の生の声は届かない世代になるのか。
薄々は感じでいたが、個人的に少しショックな出来事でした。
重みはまるで違うが、とりあえず、私から親戚から聞いたことのある戦争体験をいくつか話しておいたら喜んでいた様子。
そして、話に熱中していたら、またまた気づいたらという感じで山頂に着いていた。
先程の中腹からは5〜10分くらい?話をしながらなので感慨とか浸ってる間もなく、本当にあっという間。
激戦地とかいうから、どれだけ険しい場所なのかと勝手なイメージをしていたが、小話しながら登れてしまう普通の山。
むしろ、丘(ai先生に聞いたら、地形の規模としてはやはり「丘(丘陵・小山)」らしい)。
気を取り直して辺りの観光開始。
ここで大学生らと別行動とした。
頂点に「爾霊山の碑」。
乃木希典が「なんじ(爾)」の「たましい(霊)」の宿る山ということで命名し、戦死者の慰霊のための碑を建てた。
弾丸の形。
近くにロシア軍が使った152mmキャノン砲(レプリカ)。
この旅順要塞を強固に防衛していたロシア軍の主力重砲の一つらしい。
雨の中、旅順港がなんとか見えたが、思ったより遠い。
(法に触れる恐れがあるので写真は割愛)
「進撃の巨人」で獣の巨人がスラバ要塞からの投擲で港の艦隊を壊滅したシーンは旅順戦のオマージュというが…
しかし、流石にここからでは砲撃は届かないのでは?という距離。
そして、やはり日露戦争における史実では、ここでの観測情報を受けた港の近くの大砲が太平洋艦隊を撃沈したとのこと。
少し行くと太平洋艦隊を撃沈させた日本式280mm榴弾砲(レプリカ)。
来た方角と反対の斜面を少し下るとロシア軍の塹壕跡が…
50〜100mとか長い距離残っていた。
実際、こんな感じで白兵戦やってたのだろう。恐ろしい…
近くにロシア軍の指揮所跡。
小さい。指揮官もこんなとこから指揮を…
大きいと砲撃のターゲットになったのかな?
さらに少し下ると碑が。
中国語と併記し、日本語で「乃木保典戦死の場所」と書いてある。
「乃木安典」は旅順戦を指揮した乃木希典の次男。
乃木希典には子供は2人しかいなかったが、2人ともこの旅順戦で戦死した。
部下にムチャな作戦を強いていたが、自身も相応の覚悟で臨んでいたことがわかる。
ちなみに、乃木希典は明治天皇が亡くなったすぐ後に、武士の作法に従って割腹して自分の喉を突いて自殺した。肝の座り方が現代人の私には理解できない。当時の人が生きていた時代は想像を絶するほど過酷。
ちなみにアイドルグループ「乃木坂48」に冠される「乃木坂」の名は、この乃木希典が自殺した私邸がこの坂の近くにあったから命名された。
元々は幽霊坂という名前だったらしいが、乃木大将の忠誠心と死を悼み、後に「乃木坂」へと改名されたらしい。
乃木保典の死地から山頂の方を望む。
こちらに進軍してる最中に亡くなったか…
ロシア軍の砲弾が近くで炸裂し、その破片を頭部に受けたことで即死したらしい。死の直前に見たのはこちらの景色か。
しかし、昔と違い生い茂る木々が時間の経過を感じさせる…
史跡を見て回るのに雨の中山道を動き回ったので足元がぐちゃぐちゃで気持ち悪い。
その後、山を下って、入り口のチケット売り場に戻る。
②へつづく。














































































