先月(2022年10月)、BS日テレで放送していたものをようやく見た。ヴェネツィア映画祭で銀熊賞を受けたというが、石庭、茶室、あらゆる画面が外国人に受けそうだと思った。井上靖の原作を二年前に読んでいたのでメモを読み返してみた。

 

 千利休を三船敏郎が演じている。利休はとても上背のある人だったというから、それもありかなと思う。タイトルロールに映る龍安寺の石庭、その他の映像、光の使い方など、すばらしい。本覚坊は利休の弟子で、奥田瑛二が演じている。本作では、彼の夢や回想に現われる師匠利休についての語り部役である。時々利休が幽霊になって現われて師弟が問答する。この師弟を食ってしまいそうな存在感があるのが、織田有楽斎役の萬屋錦之介で、本覚坊に問いかける役である。だから映画と原作はかなり構成が異なっているのだ。

 茶道に興味のある人ならば、茶人たちが帛紗を使ったり、茶をたてたりする場面、侘び寂びの茶室、掛け軸、活花、さまざまな茶道具など、目が離せないと思う。私も二度目に見直した時は、時々画像を静止させたり、聞き直したりした。

 太閤秀吉役の芦田伸介はちょっと物足りない。秀吉は面白くて切れ者で、気まぐれで、千利休に精神的に威圧されていたのではないかと思うからである。

 利休は、師の古渓が九州に流罪となるにあたり、大徳寺の面々を招いて茶会を催す。そこに掛けるお軸は、秀吉より預かった虚堂(きどう)の墨跡である。映画では説明されないが、その内容が気になったので検索したら見つけた。古渓に早く戻ってほしいというメッセージのようである。

 意味はこちらのブログにもあるが、映画内でも訳されている: 「木の葉は枝を離れ、晩秋の気は冷たく清い、今や学徳秀でた者は禅堂を出ようとしている 願わくば早く帰りきてその心の内を語り・・・(聞き取れない)

 利休は日が暮れるまでこの軸を見ていた。この茶会も、利休の侘び茶も、太閤の権力への挑み以外のものではなかった。

 

 山上宗二が著した茶の秘伝書の話が出てくる。ここで、山崎の妙喜庵での茶会について語られる。その床には「死」という軸が掛けられていた。太閤秀吉の勘気を買った宗二(上條恒彦)の存在感と死に様が印象的だ。

 

 枯れかじけて寒かれ」という思いの中に寂しさはないと利休の幽霊は語る。究極のミニマリズムに身を置いて毅然と満ち足りている利休像である。

 

 古田織部は、私にとっては斬新なデザイナーのイメージであるが、この映画では加藤剛が演じる武将であった。往年の美男俳優ここにあり。その茶室には「侘数寄常住、茶之湯肝要」という軸が掛かっている。茶の心は四六時中常に持つべき、茶をたてることも怠るな、という師の訓戒である。[茶の心って何だろう? 一期一会のことかしら? 心穏やかにということかしら? 世俗の価値観から自由であれということかしら? 「足るを知る」ということかしら?]師の形見として、織部は竹の茶杓を賜っており、それを位牌のように保有していた。妙喜庵の茶室にいた三人には死の約束があったと織田有楽斎は言う。

 

 利休の孫、千宗旦に、本覚坊は、利休の死因は朝鮮出兵に対する異議を唱えたことに対するお咎めだと語るが、まあ、そのような個別事項ではないような気がする。千利休は戦国乱世の茶人であった。世俗の欲望から超越した彼の侘数寄という茶道は、天下を取って贅の限りを尽くす豊臣秀吉の感性や哲学と真っ向から対立するものであり、両者は認め合える存在ではなかったのだろう。

 

 終盤、武将と茶人が集う城は松本城のようだ。侘び茶は死を覚悟した武将たちの儀式だったのだ。[あの世に旅立つ時は何も持っていけないものね。]

 その他のロケ地はこちらに記載されている。女優が出てこないところが潔い。