March28Sun2015/6:20pm

自転車で久しぶりにEDGEWATER_PLAZAの近傍にあるミツワに行った。三省堂が去りその後がどうなっているかを知らなかった。すると、三省堂に代わって紀伊国屋が入っていた。あまり本を最近買わなくなっていたが、紀伊国屋のミツワでの開設を祝って一冊買う気になった。

そこで買ったのが山本兼一著「利休にたずねよ」であった。13ドル(定価838円)であった。まあ、航空便輸入である、仕方があるまい。

直木賞の作品であるから、Entertaimentを求める作風になるのであろうが、此の場合は利休の侘茶の原点が彼の恋の逃避行にあるというわけだ。甚だしく探偵小説的な結論の持って行き方であるが,単なる読み物として尻を捲っているならこれで面白い。キッと黒茶碗の好みも、此の恋の逃避行で逃げ惑った先が浜辺の漁具小屋であるなら、其の時に在り合わせに持って行った湯のみ茶碗の一つへの郷愁であったというわけだ。

利休にたずねよ

僕には史実とFictionの混ぜ具合いが油と水のように分離している。

それに女に個性も色気もない。

はじめから逃避行からスタートさせておけばよかったのではないかと思える。高麗の皇女さまをもっと描いてくれればよかった。とすれば、これは日韓の新たな拉致問題に口実を与えたかもしれない。此の女は全然高麗の女の匂いがしない。

それに宗恩にも女の匂いがない。しかも、映画で中谷美紀なんて色気がぜんぜんないじゃない。

以上のような感想を書いて山本兼一「利休にたずねよ」を終えた気分になっていたが、昨日3月29日Sunに、熊井啓監督「千利休、本覚坊遺文」をネットで観た。此の映画は映画「利休にたずねよ」よりずっと重厚であった。利休の政治的な姿勢もはっきりしているし、まさに、信長に対抗した快川和尚のような明確な政治的なメッセージをもているようにおもった。

大徳寺の古渓が秀吉の母・大政所を病気平癒のために、秀吉に寺域内に天瑞寺を造ってもらっていながら、加持祈祷が臨済宗ではない宗教的テーゼを明らかにして秀吉に九州に追放されるが、その時利休亭に集まった古渓和尚ほか利休たちは虚堂智愚の掛け軸の前で、秀吉の政策について反抗的な意見を展開する。

此の虚堂智愚の詩というのが以下のモノである:
  送茂侍者
木叶辞柯霜气清
虎头戴角出禅扃
東西南北无人处
急急帰来話此情

であるが、あまり自信がないが訳してみる。
「木は斧で切られるのを拒むのを願い霜で清々しいのを願う
虎の頭は角を付けて禅額から飛び出る
東西南北、どこにも人はいない
早々に此の気分を話すのに帰ってきてください」

まぁ、古渓の九州追放について「早々に帰って来い」というのが意味だと思うが、これは明らかに秀吉の政治姿勢に反抗するメッセージを込めている。

井上靖の利休VS秀吉ではあきらに政治に対する宗教思想の対決姿勢があきらかである。

ところが、野上弥生子となると利休は芸術家であり、芸術家の思想と政治家の思想が合わないといったメッセージになる。

そして、山本兼一となると、利休の侘茶の根本思想は高麗女への思慕の現れになるのである。