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廃仏毀釈
明治2(1869)年は、鹿児島の寺院にとっては受難の年となりました。
廃仏毀釈と呼ばれる出来事で、藩内にある1066寺を全て廃寺にするという動きがあったためです。
こうした動きは、すでに島津斉彬が藩政を担っていた時期からも徐々に始まっていましたが、島津家ゆかりの寺院にまで及んだのは明治 2年のことでした。
明治新政府によって、明治元年に「神仏分離令」が発布されたことがひとつの転機となり、動きは加速されることになりました。
また、明治 2年に島津忠義の夫人の葬儀が仏式ではなく神式で実施されることになったことも影響が大きかったとされています。
こうして、島津忠良の菩提寺であった日新寺や島津貴久の菩提寺であった南林寺も、例外なく廃寺となります。
明治維新の影で 、このように、 鹿児島では、貴重な仏教文化や美術が失われる という、大変 不幸な出来事があったのです。
鹿児島県は、昭和初期に編纂された 4巻と、 昭和の時代をまとめた2巻のみ、史料そのものが少ない上、」
「廃仏毀釈」の運動は、明治新政府の「神仏分離」政策を契機に突然勃発し、日本国中 を巻き込んで寺院や仏像を破却して、わずか数年で終わってしまいました。
廃仏毀釈の機運が完全に終息するのは 1876(明治9)年頃のことです。
江戸時代には 寺院数が9万ヶ寺もありましたが、廃仏毀釈によって半分の 4万5000ヶ寺ほどになったといいます。
特に南九州では徹底的に寺院が破却されました。
鹿児島県では江戸末期までには県内に 寺院が 1066カ寺あり、僧侶が2964人いたとの記録があります。
ところが、 1874(明 治7)年までに寺院・僧侶ともにゼロになってしまいました。
「破却率」はなんと 100% です。
徹底的とはこのこと。
薩摩藩の全ての寺院が無くなったわけ ですから、 主君・ 島津家の菩提寺 ( 日新寺 、 南林寺 ) も無くなったということになります。
一般庶民や武士の菩提寺 も無くなり、主君の菩提寺までもが無くなってしまったのです。いや、無くしてしまった のです。
こうやって、 薩摩藩における廃仏毀釈は苛烈を極め、明治初期、寺院と僧侶が完全に消滅。
これほど広域に、寺院が完全消滅した地域は他にない といいます 。
徹底的に徹底的なんですね。
それは、薩英戦争をきっかけにして薩摩藩が富国強兵策に舵を切り、西洋化を急ぐ余り、寺院という歴史的な価値が軽んじられた結果 、 時代の幕開けにあたり、薩摩藩は仏教を「生贄(いけにえ)」にした ということでもあるのです。
また、 寺院は焼き払われてそこから金属が取られ、一部は偽造通貨の精算に充てられた と もいいます 。
薩摩藩の廃仏毀釈は、薩摩が国学に傾倒 したこともあるのですが、第一の目的は 寺院が保有する金属の徴収にあり、 つまりは 集めた金属で大砲などの武器を造るということでした。
そして、これらの結果、幕末に薩摩が「大活躍」する軍事的基盤の1つになったのでし た。
ところで、 鹿児島県では「廃仏毀釈はなかったこと」のように扱われているといいます。
廃仏毀釈による史料の少なさが、公的調査の妨げになっているだけではな く、 鹿児島で は寺院の過去帳が失われているため、個人のルーツを辿れるよすがが存在しない といいます。
このようにして 鹿児島県民のアイデンティティをも失わせたのが薩摩藩における廃仏毀釈だった といえます 。
現在においても、 廃仏毀釈に関する 県民の 関心、認識 も低い し、 行政も県民も歴史を大切にしていない と批判されることも多いそうです。
さて、 寺院が無くなったので、鹿児島県には、仏教由来の国宝、国の重要文化財がひとつも存在しないそうです。
文化財の数が極めて少ないので、県の文化財関連予算規模は少ない結果、廃仏毀釈に関する調査・寺院の復元などが進まないという悪循環に陥っているそうです。
今でも 鹿児島県では「古寺巡礼」など という言葉が聞かれることはまずない、と言います ね。
廃仏毀釈がおさまり、浄土真宗が特に熱心に開教(新たに寺院をつくること)活動を実 施したことで、 487ヶ寺まで戻していますが、鹿児島県は47都道府県の中では、現在においても 6番目に 少ない寺院数になっています。
でも、なぜ鹿児島の人々は、廃仏毀釈に抗わず、徹底的に寺院を破壊したのでしょうか? そこには薩摩藩独特の権力構造があったからではないかと指摘されています。
鹿児島は伝統的に中世から武士が多かった。
明治初期の鹿児島における武士率は 26.4 %であり、全国平均の5.7%を大きく上回っている。
そこで戦国時代、島津家は「外城制 度」という支配構造を構築していく。
「外城(とじょう)制度」とは、島津家の居城である「内城」に対して、武士を効率よ く配置するため、領内を区分し、その拠点として外城を数多く設けるというもの。
18世紀半ばには、113の外城が完成していたそうです 。
これはほぼ「一村一城」の構造で 、かつ 武士は「半農半兵」の状態で地域に溶け込み、監視の目を光らせた そうです 。
そのため、鹿児島ではいわゆる檀家制度がほとんど機能 せず、 村ごとに寺があるにはあっただが、地域に入り込んだ武士の権限が大きく、寺檀関係は極めて脆弱であった ようです。
言い換えれば、鹿児島における寺院は、 「 おらが村の寺」ではなかったわけ なんですね。
廃仏毀釈時、檀家や民衆が寺を守る意思がみられず、無批判に寺院を廃止に追い込んだ背景に、この外城制度は無視でき ません 。
さらに、薩摩独自の「郷中教育」が廃仏毀釈に拍車をかけたとの見方もあるようです。 「郷中教育」って何でしょう?
それは、地域ごとに先輩が後輩を指導する武家教育のシステムのことです。
厳格な上下関係のもとで武芸や道徳などの教育が行われ、西郷隆盛 や大久保利通は郷中教育で鍛え上げられたおかげで大成したとの評価もあります。
このように薩摩では郷中教育が普及していたことから、大衆向けの寺子屋や私塾の数が 他の地方に比べて極めて少なかったのです。
明治初期までに寺子屋は全国で 15000箇所ほどありました。
例えば、幕末、薩摩藩と 並んで近代国家を推し進めた長州藩では 1304の寺子屋と106の私塾が存在していたといいます。
これは、熊本、長野とともに全国トップ 3に入ります。
では、薩摩藩の場合、寺子屋はどのくらいあったのでしょうか?
なんと寺子屋はわずか 19しかありませんでした。
私塾 はたった 1つだそうです。
とにかく鹿児島では、いざ廃仏毀釈になって武士が寺院の破壊を始めた時も、多くの人が抵抗するなんてことはなかったのです。
「上からの命令だから」ということで、権力に従順に従い、仏像や寺院の破壊に加担していったのです。
さらに言えば、寺子屋が少なかったことは廃仏毀釈だけでなく、その後の鹿児島の教育 の在り方にも大きな影を落としました。
1872(明治5)年、明治政府はフランス式の「学制」を定め、全国に小学校を整備し ていきました。
小学校の校舎は神仏分離政策によって寺院本堂や庫裏(くり)を転用していくケースが少なからずありました。
つまり、近代の「学制」は寺子屋の流れを踏襲していると言えます。
教育学者の梅原徹は、 1874(明治7)年の『文部省第2年報』より、全国の就学率を弾き出しているそうです。
それによると、就学率の全国平均は 32.3%。
東京では 57.8% の就学率でした。
ところが鹿児島は 7.1%と全国ワースト1だそうです。
そもそも寺子屋の少ない鹿児島では、近代学校教育でも全国的に遅れをとることになっ てしまいました。
ところで、 『宗教年鑑 平成 27年版』によれば、鹿児島県と面積がほぼ同じの山形県で1486ヵ寺、広島県で1724ヵ寺です。
鹿児島県は 前出のように 487ヵ寺(全国42位)だそうです。
隣の宮崎県 の場合は 344ヵ寺。
ちなみに、日本全国で寺院数が一番多い都道府県は愛知県で、 4589ヶ寺あるそうです。
京都や奈良ではないのですね。
そして、全国で一番寺院数が少ないのは、沖縄県で 87ヶ寺です。
沖縄の場合は 「本土」と歴史が異なりますから単純な比較は無理ですが。
京都や奈良の寺院数を調べてみましたら、正式に登録されているもので京都市内の神社 がおよそ 800、寺院がおよそ1700だそうです。
日本全国の寺院の数は 7万7000にのぼ ります。
一方、日本全国の神社の数は約 8万8000ですが、神社の数が一番多い都道府県は約5000の新潟県です。
ちなみに、全国のコンビニの総数は約 5万5000、郵便局の総数は2万4000だそうで す。
南四国の高知県も激烈な廃仏毀釈に見舞われた地域です。
1870(明治3)年3月時点で613ヶ寺ありましたが、1877(明治10)年までに206ヶ寺にまで激減しました。
「破却率」は 66%です。
高知県といえば、四国 88カ所巡り(お遍路)の舞台です。
県内には 16ヶ寺の霊場がありますが、内9ヶ寺が廃仏毀釈によって廃寺になっています。
現在、県内寺院数は 365ヶ 寺まで戻ってますが、往時の約6割の水準でしかありません。
さらに、廃仏毀釈は島嶼部にも及びました。佐渡は江戸時代まで寺院数が多く 539ヶ- 1 寺を数えましたが、わずか80ヶ寺になってしまいます。
「破却率」は 85%です。
隠岐では、およそ 106ヶ寺がゼロになりました。
ここも「破却率」は 100%です。
島という閉鎖されたコミュニティの中で、ひとたび点火された廃仏毀釈の炎は一気に燃え上がったようです ね 。
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