クリスマスも過ぎて年末真っ只中。

あっという間に過ぎたと思う日もあれば、ようやくと思う日もある事だろう。

コン年度は、どういった一年を過ごしただろうか。

 

 

コン年度、私は昨年以上に色んな事があり、それを乗り切る中で日々を送っていた。

そんな中で、私は昨年度からずっと引きずっていた事があった。

それが、『好きな事に手をつけられないでいた』という事だった。

それは、ポケモンに限らず、そうなるまでは当たり前のように手をつけていた遊戯王にも表れていた。

最後にパックを購入したのがいつだったか忘れているほど、私は遊戯王にも手をつけられない状態が続いていた。

コン年度になって、ひとまず久々にシングルカードをようやく購入する事は出来たが、パックの購入は確実性と狙ってるカードがなかったという事もあり、コン日に至るまでずっと保留していた。

 

そうした中、私はある日将来の復帰に向けた誼も込めて久々にパックを購入する事にした。

復帰するならば、シングルカードを購入した以上はパック購入もそれなりにしておいて損はないと思い、私は『リンクヴレインズパック2』を購入した。

一応、リンクヴレインズパック2には私が狙っているカードもあったので、そういう誼もある。

というわけで、早速私は基本的な買い方として、リンクヴレインズパック2を10パック購入した。

 

その場では開封せず、自宅に戻った後に開封した。

こういう開封結果は本当に久しぶりだとあらためて実感する。

遊戯王の楽しみは、対局本編だけでなくこういうのもないとね。

 

まず最初は…

 

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色んなカテゴリーに合わせたカードがあり、それに関する新規のカードがスーパーレアとして入っているのがリンクヴレインズパックの特徴である。

しかも、どうやら封入されてるレアは必ずスーパーレア以上が保障されてるようである。

ウルトラレアが必ず(基本全てがそうという形で)入っているのは以前からあったが、こういうバランスのとれた封入保障は私からすれば初めての事と言える。

 

続いては…

 

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古参のカテゴリーもあれば、最近導入されたカテゴリーもあるのが最近の遊戯王である。

ヴレインズ世代になってからは、必ずと言っていいほど新たなカテゴリーが導入される事が目立っていると言える。

カードゲームも、長く続くと新たなカテゴリーを導入する事が目立ち始めるものであり、中には新たな効果をルール規模で導入する形式もある。(MTGで言えば、『スレッショルド』や『待機』などのような『そのパックを象徴する名称を付けた新たな効果』がそれに当たる)

遊戯王も既存のカードとの組み合わせから一旦離れる形で新たなカテゴリーを頻繁に導入するようになったが、ルール規模の導入は召喚方法にとどめている。

遊戯王にとっては、ルール規模の導入である『召喚方法』はジェネレーションを象徴している事である以上はなおさらな事と言えよう。(儀式召喚というジェネレーションとは関係なく導入された召喚方法もあるが)

 

続いては…

 

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北欧神話を意識したカテゴリーとこれもまた長く続いているカードゲームに表れる傾向がある『既存の有名カードのリメイク』である。

懐かしのラグナロクカテゴリーのリンクモンスターと、古参のカードのリメイクであるパーシアスのリンクモンスターで、リメイクに伴って効果を元ネタから一新したのもある。

一応、パーシアスにおいては、『チャーリーズエンジェルス』デッキとだいぶシナジーしてるので、これを機に新たなデッキが作れそうである。

 

 

 

そして、コン回の購入で1枚だけウルトラレアが封入されていた。

それは…

 

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なんと、私が狙っていたカード本人である『混沌の戦士 カオスソルジャー』だったのである。

私がリンクヴレインズパック2を購入したのは他でもないこのカードが目的だったのだが、それがいきなりヒットするとは…

10パック買った中、唯一当たったウルトラレアであい、しかもそれがこれだったという復帰に拍車をかけれそうな展開はまさしく久々の快挙であり、久々の本格的な実感だった。

シングルでゲットする事を前提にしていたが、せっかくだから当てる形式で挑戦してみようと思っていたのもあるだけに、それがさらにその実感を上乗せした。

やはり、ただゲットするだけでなく、『見事に当ててゲットした』という事は他とは違う良さを実感させてくれる事と言えよう。

 

これならば、メインデッキである『だじゃれライトニング』を基本に、色んなデッキで活用できる。

シングルでゲットしたイゾルデで続いて、カオスソルジャーも遊戯王本格復帰に通じる糧に出来るであろう。

 

来年度は、今までの事を一新する形で遊戯王の復帰にとどまらない新たなスタートを切れる年にする。

 

遊戯王も、それを象徴するものとして本格的に活かせるようにしてみせよう。

 

新たなこれからへのリンクは、すぐそこである。

 

日は照っていてもきつねさんほどの着方をしなければ寒いのが当たり前となった冬真っ只中。

私は、春に一つの区切りをつける形で9年ぶりに完全帰郷した故郷にいた。

 

9年ぶりに一方的にい続ける場所になった私の部屋は、場所の事もあってか他の部屋よりも一段と寒さが目立つ気温だった。

 

こういう場所だからこそ、ヒーターの良さを実感できるのだろう。

こういう実感も、常にあるもとで言えば9年ぶりの事と言えるだろう。

この記事を書いている時も、灯油のヒーターの暖房のもとで私は快適な中で過ごしていた。

 

 

 

 

時はいつしか年末。

コン日にとどまらず、私はコン年度の春に一つの区切りを迎えてから、常に『いつしかあっという間に過ぎた』という実感の中で日々を過ごしていた。

これほど常にそういった実感があるあっという間な時を過ごした経験は今までないと言っていいであろう。

そうなる事の典型例である『時間を忘れるほど楽しめている時』でさえもそういう実感はなく、長い時間の中でそれを十分楽しむ事が出来たという感覚があるほど、時の進みの早さをわざわざ実感した事がなかった私にとって、時の進みの早さをあらためて実感したのはこれが初めてと言えるであろう。

本当に充実した気持ちを持たなければ、つまらない時でも『早く過ぎてほしい』という意識のもとで早く過ぎてしまうものなのだろうか…

 

 

 

もちろん、ただ過ごしていたわけではなく、それまでも時にいつもの日常、時に一つの試練とも言える日など、コン年度も昨年に負けない色んな日々があった。

 

時に、これからどうなるんだと真っ先に思うほど不安に思う日もあれば、それをどうにか乗り切りつつもそれ以外特に進展があると実感出来ないような日もあった。

しかし、その都度私は昨年同様、どうにか乗り切り、今もその象徴としてこれからに向けた事を心置きなく行える平穏な中を過ごしている。

もちろん、まだ途中である以上油断してはならないのも事実ではある。

故郷で再スタートを切って以降の私は、まさしくそういった日々を毎日のように過ごしていた。

 

 

そういった日々の中、私はずっと身の周りの事を常に気にかけていた。

私の周囲は、決して今まで通りでいる事はなく、常に何かしらの変化や発展を起こしてそれを糧に色んな事があった。

その中には、私が普通に関心を向けるものもあった。

私は、いつも通りの日々を過ごしている中で、関心を持つ事への動向を見守っていた。

直に関わる事が出来なくても、その後の動向を見守る事は出来る。

そうしてこそ、復帰する時になったらすぐに着いていけるようになるのだ。

その動向の中には、『ここまで進んでいたのか…』と思うものや、『ここでこうなるのか…』といったような事など、いつも通りにいる中でそうではない色んな変化や発展があった。

 

中には、私自身の事を象徴するように大きな変化があったものもあった。

 

1年もしないうちに、新たな事を基本にここまで色んな事は変わるものなのかと私はあらためて実感した。

 

 

 

 

 

それと同時に、私はその動向を見守ってる中でひそかに痛感している事があった。

そしてその痛感は、ひそかにコン年度の事に限った事ではないという事も実感していた。

それは…

 

 

『それに乗り遅れている』という事だった。

この年…いや、それに限らず私はコン日に至るまでずっと色んな事において乗り遅れた日々を過ごしていた。

 

昨年度から私は、基本的に直に関わっていた事にまで及ぶほど、これまで関心を向けていた事に手をつけられなくなっていた。

その規模は、それなりに出来ていた事もとうとう焼きがまわったかのように出来なくなり、いつしか私は新たな事に手をつけるどころか、それまでの事にさえも手をつけられない状況になってしまっていた。

 

今思えば、あの時は今まで以上に尋常じゃない事態の中にいたのだとあらためて思う。

ここまでの事になりながらも、私は取り繕う事も出来ない中でその場しのぎにさえならない事をしていたのだと私はあらためて思った。
結局、昨年は多少の事が一時的に出来た程度で、今まで以上に乗り遅れている中で日々を過ごしていた以外の何ものでもなかったのだった。

 


私がポケモンのサンムーン世代に気を向けつつも、本編を買わないどころかグッズさえも買う事に消極的だったのも、ひそかにこういった背景があったからなんだとあらためて思った。

当時は、『気を向けるポケモンがいなかったから』だと言っていたが、アシレーヌさんというそれを真っ先に撤回したポケモンが出現したにもかかわらず、それでも別の理由があるかのように結局買わなかった。

 

あの時点で私は、イソップ物語における『ずっと遊び呆けて冬を迎えたキリギリス』のように、自分ではどうにもできないまでに追い詰められてる状態でいながら、それを改善しようとせず、あくまでこのままでどうにかやっていこうとしている中にいたのであろう。

 

ポケモンのニュージェネレーションへの乗り遅れは、私自身の追い詰められた境遇をひそかに示していたのだとあらためて痛感した。

 

ポケモンのジェネレーションもそうだが、それにとどまらず、遊戯王やデュエルマなどもいつしか新たなシリーズを買う事さえやらなくなったのを基本に、乗り遅れが広がっていっていた。

そもそも、今まで普通に出来ていた事さえできなくなっている時点で、さすがにどうにかすべきだと思うものだが、私はそれをどうにかするためにやるべき事を理屈をこねて最低限もやろうとしなかったため、それが結局関心を向けていた事が出来なくなる事にとどまらない事態を招く事になってしまったのだ。

今思えば、私は本当に何をしていたのだろうかとあらためて思うだけでなく、追い詰めてまでもそこにしがみつく事に納得していた私自身があらためて怖いと思った。

 

私が経験した乗り遅れは、今思えばそれ以上の事になっていたのだと私は痛感した。

それは、単に関心を向けてる事が出来なくなるだけにとどまった事ではなかったのである。

今となって、私は色んな事への乗り遅れを通してそれ以上の境遇の中にいたのだと気付かされたのだった。

 

 

 

 

ヒーターから音が鳴った。

 

 

…給油か。

私はヒーターを止めて、タンクを取り出すと灯油タンクが置かれている場所に向かった。

 

 

 

 

かつてはドラム缶から給油していたのだが、最近は消防法規模の安全面もあり、灯油はポリタンクだけになっていた。

マァ、その方が運びやすいからリーズナブルではあるけどね。

ポリタンクから灯油を入れてる中、私はずっと考えていた。

 

 

 

コン年度、私はどこまで行けただろうか…

色々あった中で、今の私はどこまで変われているのかな…

少なくとも、多少気を抜いた時もあったけど、それなりに進めてるのは事実だろう…

ここに戻ってから、当初や時にという形で色々あったけど、それを通して少なくとも市川にいた頃よりは十分いい方になりつつあるのも事実…

けど、誤解しちゃいけないのはまだ到達していないという事…

今までよりも前進してると実感出来てるなら、そこで立ち止まらずに進んでいく事を引き続きしていく事だよね。

 

 

 

 

こうして乗り遅れた実感をあらためて持っているのも、当時の事をあらためてそのように考え直すようになったのも、今の私は少なくとも今までよりは変われてる方になりつつあるからであろう。
今思えば、私は『一方的に機会を逃したまま立ち止まっていた』中にいたのかもしれない。
『その時出来る事』は、同時にその時『しか』出来ない事でもある。
実際出来るうちである『今この時』にやらなくては意味はなく、結局逃してしまうのである。

『その時出来る事』を『(今出来るなら)そのうちやればいい』と思って知らず知らずのうちに放置したままでいてはいけない。

今出来る事は『やがて出来なくなる中で今しか出来ない事』でもある。

そうである以上、それが出来るうちにそれを実行するためにやらなくてはならない事を今やらなくてはならないのだ。

例えそれが出来るようになっても、その時にそのやる事が出来る機会そのものがなければ意味がない。

出来るようになる事は、『それが出来る機会があるうちに』形にしてこそ意味があるのだ。

 

私はそういった事においても、乗り遅れた状態にいる事が目立っている中にその時も、そしてコン年度もいたんだとあらためて気づいた。

 

コン年度は、予想以上に乗り遅れ、それによって逃してしまった事も多かった。

コン年度は再スタートの年だったにせよ、市川にいた頃の事が影響していた事もあってか気を抜く事も多く、それによってそれなりに出来ていた事もいつの間にか先延ばししてしまったのが目立っていた。

私が関心を向けている事に着いていく事だけでなく、私は『私を変える事』に対してもひそかに乗り遅れた中にいたのだとあらためて実感した。

身の周りで起きていた事への乗り遅れは、それ自体にとどまった事ではなく、それを通して伝えてる形で表れた、私自身の『変わる事に対する乗り遅れの投影』だったである。

 

コン年度を述懐して、私はあらためてそれに心から気づいたのだった。

 

 

 

 

給油を終え、私は部屋に戻った。

タンクを入れて私は再びヒーターのスイッチを入れた。

 

 

 

 

 

今までの事を通してわかったのは、私はずっと乗り遅れた状態の中にわざわざい続ける形で立ち止まっていたという事。

そして、ようやくあらためてそれに気づけたという事だった。

 

気づいたならば、私はどうするべきか。

 

それはもう決まっている。

 

今この時も、前進しているという確信のもと、変わる事に通じる事を実行していく。

 

それだけである。

 

少なくとも、コン日までの私は乗り遅れた中でも決して立ち止まったままではおらず、少しずつ進んでいく日々を積み重ねていっていたのも事実。

 

気づいたというのは、決して『今からようやくスタートする』事ではなく、『既に進んでいた中、いつの間にか立ち止まっていた事に気づき、あらためて再び歩き始める』という事。

 

乗り遅れた日々を無駄にせず、それさえも糧に出来たという形で今この時も歩み続け、本当のゴールとそこからの新たなスタートへと踏み出せるようにする。

 

それこそが、乗り遅れた日々の意味を成す唯一の、そして本当の答えである。

時にいつの間にか、時にあっという間、時にようやくという様々な中で2018年も年末を迎えた。

 

コン年度は、中盤からはほとんどがいつも通りの日常を他にありそうにないような中で過ごしていたに等しいような年だった。

今この記事を書いている時も、それなりの事をした以外は『昨日の今日』をいつも通り過ごしているように送った日だった。

 

コン年度は、正直今まで以上にあっという間に過ぎたと真っ先に言う事が出来るほど早い一年だったとあらためて思う。

その背景は、やはりそれなりに色々あった事と、何よりそうなるような日々を普通に過ごしていたからだろう。

 

 

しかしその反面、コン年度は、こういった事に通じる形で大きな転換期でもあった。

一番の出来事はやはり、市川を発ったという事であろう。

当時は、そうなった後の『今考えられる中』での不安があり、実際それを乗り切るまでの事が色々あって大変な中にいたが、いつしかそれも何の前触れもなしに今はそれなりに収束して、ひとまず今も『私だけがわかっている新たなこれから』に向けた事に邁進している。

もちろん、『今は』それに向けた事を心置きなく行えるモラトリアムとして与えられている事である以上、今の平穏を過信せず、あくまでここから新たなこれからへ変わっていけるようにしなくてはならないのも忘れずに…

 

コン年度は、一言でまとめると『再スタートの年』だったと言えよう。

2018年は、新たなこれからを築くために、今までの事から全て脱却して新たなこれからを築く事に通じる事に1年を捧げる年だった。

その最初を飾ったのは他でもない市川を離れ、故郷に戻った事であろう。

当時は、むしろ再スタートできるかどころか、故郷に戻ったらそれに通じる事が出来なくなると真っ先に思っていたので、正直不安だった。

しかし、今となってはそれは今のままではそういう可能性はあるが、今後の私の在り方次第で今はまだ気づいてないに過ぎない形で新たなこれからに向けた事が出来るようになるものだったと、実際その通りにする形であらためて実感した。

本当の事は、その時にならなければ明確にわからないものというわけだ。

それをみすみす逃す形で今既にわかってるに過ぎない事をこの後も今まで通りにするか、すぐに実感はわかなくても、新たなこれからに通じる事を見つけてそれを実行していくかのどちらかなのだ。

コン年度は、変わる事における今まで気づかなかった事に気づき、それのもとで実行出来た年だったとも言えよう。

 

 

故郷に戻った後、私はこれまでの事を一新する形で私の在り方を変える事が出来た。

その中には、市川にいる間は気づかないどころか、『これが普通だ』と主観的に納得していた在り方にあらためて間違っていた事に気づいて直したのもあった。

あらためて思うと、私はこんな間違ってる以外の何ものでもない事を普通の事と自然に思うほど納得していたのかと痛感した。

あらためて日頃の行いや日々の在り方の恐ろしさを実感した。

 

 

 

ひそかに私は色んな難に見舞われていた昨年の夏、故郷に戻るよう言われた事があった。

私もひそかに薄々市川での暮らしが既に限界が近いと感じていたので、それも一理あると思っていた。

しかし、先ほども述べていた『(今考えられる事を踏まえれば)故郷に戻れば新たなこれからに通じる事が出来なくなる』という理由と、何より私のこれまでの不甲斐なさの焼きがまわる事による地獄を見るのを恐れたがために、私はあくまで市川にいる間にどうにかするという理屈のもと、結局どうにか取り繕う形で市川に再び残るのを選んだ。

 

しかし、結局これは単に市川にいる事への執着による一時的な逃げでしかなかったのだと私はあらためて思う。

 

今思えば、どっちにしろこうなるのだったらそれこそ昨年の夏に潔く故郷に戻ってやり直した方がよかったのかもしれない。

そうすれば、もっと早いうちに私の在り方を今のような(少なくとも、当時より遥かにマシな)在り方に変える事が出来ていた可能性はあっただろう。

ただそうでありたいという理由だけであくまでしがみつく事をするのは、しばらくはその通りにはなれど、それは決して続かず、やがてはしがみついていた事を後悔する以外の何ものにもならないのだと私は悟った。

 

この経験は、私に『本当のこれからを築くための潔さ』を持つ事の大切さを初めて実感させてくれる機会となったのだった。

ようやく今までの事から離れた事により、すぐではなくても最終的にそこに辿り着いた形で今までにない変化と発展を遂げる事が出来た。

こうなれたのも、他でもない『潔く今までしがみついていたところから離れたから』である。

思ってみれば、私が新たなこれからを築く事に通じる事に出会えたのも、『今までいたところから思い切って抜け出したから』だった。

3年前のあの時も、それにたどり着くまでは決まっていつも通りの日々を過ごしていた中から『私自身を磨きなおそう』と2014年に初めて決めて、新たなこれからを築いたからこそ成り行きのもとでそうなれたのだ。

今のままでもどうにかなってるという理屈のもとで結局今まで通りでいたら2015年にあった転換期はなかったであろう。

全ては、『今まで通りでいなかったから』こそあった事なのだ。

 

 

そして今、私はそれを私の在り方全ての規模で再び形にしようとしている。

もちろん、今はまだそうなる真っ只中なので、実際の事が起きるまでは気を抜かずに邁進していく。

 

コン年度は、私にとって『変化を受け入れ、生まれ変わる年』だった。

それは私が思っているような事になかなかならず、時に試練を伴う事もあったが、今となったはそれは『今までの私全てから脱却する事に通じるもの』だったのだと実感できる。

 

来年度は、それに続く勢いで真の新たなこれからを築いていける年になるであろう。

それを形にするために、今もこの後もあらためて進んでいく事にする。

 

 

 

きつねさん。

もうすぐだよ。

きつねさんの鳴き声。

それを聞いた時、一体何をイメージするだろうか。

擬音語で言えば、誰もが真っ先に連想するのは間違いなく『コンコン』であろう。

私もきつねさんに関心を持つ以前から、実際のきつねさんもそういうオノマトペに近いような鳴き方をすると真っ先に思っていた。

もとい、『きつねさんは実際鳴き声を出すのか』とさえ思う時があったほどだ。(単にそういうのを見た事すらないだけなんだけど)

 

 

きつねさんに目覚めてからしばらくして、動画サイトに足を運んだ時、ふと私は思いついた。

 

『動画サイトなら、きつねさんの実際の鳴き声を投稿してるのがあるんじゃないかな…?』

 

 

 

 

というわけで、私は早速きつねさんの動画を探す事にした。

 

検索をしてみると、後に詳しく知る事になった『キツネ村』を基本に、きつねさん関連の動画が一気に表示された。

その際、私はストレートに『キツネ 鳴き声』と検索したので、それをストレートに表示した動画が真っ先に表れていた。

私は早速それを拝見した。

 

 

そして、これが私の中でのきつねさんのイメージに一気に革命を起こす事に通じたのである。

 

 

その時に視聴した動画はこれだった。

 

 

案の定、これもキツネ村の動画である。

 

動画を再生してすぐにきつねさんの鳴き声が明らかになった。

その鳴き声は、今まで真っ先に抱いていたきつねさんの鳴き声のイメージを一気に覆したのだった。

 

この動画の説明文にもある通り、きつねさんの鳴き声は『こやーん』という、どちらかというとわんこのような声だった。

また、きつねさんの漢字に使われている『瓜』が意味している擬音語として『くわー』という鳴き声をする時もあった。

 

この事実はきつねさんに関心を向けたからこそ出会えた事である。

わざわざきつねさんの鳴き声の実態まで知ろうと思ったのも、きつねさんへの目覚めが本物以上だという事の現れと言えるだろう。

 

そして、この動画を機に、私はきつねさんについて意識する時は『こやん』という表現を鳴き声を意識した形で言うようになったのだった。

 

この動画が私に与えた影響はひそかに大きい。

きつねさんの鳴き声のイメージを覆したのを皮切りに、私の中では常にこの声がきつねさんに対する事の象徴としてよぎるようになった。

今も時折、きつねさんのこの鳴き声を思い出しては、きつねさんに思いをはせている。

 

ゆくゆくはこの鳴き声をこの動画の舞台で直に聞きたいものである。

 

そしてそれはそう遠い話ではない事である。

 

こやーん!

 

こやーん!

 

こやーん…

 

今世間では、最近発売されたゲームの影響のあってか、『イーブイ』に今まで以上に注目が向いている。

ブイズパーティーに再びスポットが当てられている事もその影響ゆえの事と言えるだろう。

イーブイも、ついにピカチュウと同じポジションまで上り詰めたというわけか…

まさしく、立場的にいい部位(イーブイ)に入れたというわk(はい次いこ次)

 

 

イーブイに関心を向けたのは、ポケモンセンターから発祥した『イーブイコレクション』が始まりだった。

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以前から、シャワーズから始まる形でブイズパーティーの進化系には関心は向けていたが、ひそかに『イーブイ本人』にはそれほど気を向けていなかった。

 

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一応、グッズ全般と等身大ぬいぐるみ、さらにはイーブイのデザインをモチーフにしたDSや指輪を購入した事はあったが、それも私自身がほしいからではなかった。(今では結局私が持つ事にはなってるが…)

それからは、様々な事を経てブイズパーティーの他のポケモンへの関心を広げ、初代関心を向けたブイズパーティーにとどまらず、そこから色んなブイズパーティーに関心を持っていった。

 

 

やがて、イーブイの存在は映画本編に登場したり、アニメ本編にもレギュラー出演するようになるなど、今まで以上に広がりを見せるようになっていった。

それもあってか、イーブイの事が描かれた事もそれなりに目立つようになり、イーブイ本人に関心を向ける事もひそかに目立つようになっていった。

その規模は、リオルやマグマラシに表れてる事のように、『進化させる事が全てじゃない』といった形で、『イーブイという存在そのもの』にまで向くほどに発展していた。

 

 

そして現在…

当時の私からすれば、イーブイの存在はそれこそポケダンを基本とした派生作品で主人公やそのパートナーとして選択できる形で出演するのが精一杯だと真っ先に思っていた。

それが、『ピカチュウと同じポジションで主人公そのものになる』事に発展しようとは…

新たに発売されたスイッチのゲームは、イーブイの存在を今まで以上に大きくしたと言えるだろう。

イーブイは今や『イーブイとしての存在そのもの』が特別となったのである。

 

 

それは、今まで気づかなかった事にあらためて気づかせる事にまで発展した。

 

今日は11月21日。

コン日に至るまでこの日を特に意識した事はなかったが、ある場所で小耳に挟んだ事を機に、その印象は一気に発展する事となった。

 

11月21日をゴロに置き換えると…

 

 

11月21日→11(いい→イー) 21(ぶい→ブイ)→イーブイ

 

…となる。

 

そう、何とも灯台下暗しな話だが、今日11月21日は『イーブイの日』なのである。

ひそかにこういう事は、コン年度に初めて発表されたものだった。

これも、イーブイが今まで以上に注目されたからと言えるだろう。

 

公式では既にその事を伝えていたらしいが、今ほどは広まらなかったようである。

あらためて今日、イーブイの日が幅広く広まった事を踏まえれば、いかにコン回のイーブイのゲーム発売の影響が大きいかがわかる。

同時に、イーブイに進化における可能性があるように、イーブイ本人にもピカチュウと同じ立場になれる素質があったという事があらためて実感されると言えるだろう。

 

色んなポケモンに進化出来るポケモンだけでなく、それとは別の『イーブイという存在だからこそある素質』がイーブイにあり、それが長い年月を経てついに開花したのである。

だいぶ昔に、イーブイ一体で複数の相手をまとめて空の彼方にふっ飛ばした事があったり、イーブイの姿でその魅力を幅広く伝えたりと、イーブイの扱いは進化以外の事でも、既に色んなところで表れてるように、ひそかに特別なものだったのである。

 

 

コン回の記念日を機に、イーブイの存在意義はさらに広がりを見せるだろう。

ブイズパーティーのオリジンであり、全てはこの子がいてこその存在であるイーブイ。

今まで以上に、イーブイの活躍をあらためて見守っていこうと私は思う。

 

 

初の主役ゲーム発売、そしてあらためて記念日おめでとう、イーブイ。

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