日は照っていてもきつねさんほどの着方をしなければ寒いのが当たり前となった冬真っ只中。

私は、春に一つの区切りをつける形で9年ぶりに完全帰郷した故郷にいた。

 

9年ぶりに一方的にい続ける場所になった私の部屋は、場所の事もあってか他の部屋よりも一段と寒さが目立つ気温だった。

 

こういう場所だからこそ、ヒーターの良さを実感できるのだろう。

こういう実感も、常にあるもとで言えば9年ぶりの事と言えるだろう。

この記事を書いている時も、灯油のヒーターの暖房のもとで私は快適な中で過ごしていた。

 

 

 

 

時はいつしか年末。

コン日にとどまらず、私はコン年度の春に一つの区切りを迎えてから、常に『いつしかあっという間に過ぎた』という実感の中で日々を過ごしていた。

これほど常にそういった実感があるあっという間な時を過ごした経験は今までないと言っていいであろう。

そうなる事の典型例である『時間を忘れるほど楽しめている時』でさえもそういう実感はなく、長い時間の中でそれを十分楽しむ事が出来たという感覚があるほど、時の進みの早さをわざわざ実感した事がなかった私にとって、時の進みの早さをあらためて実感したのはこれが初めてと言えるであろう。

本当に充実した気持ちを持たなければ、つまらない時でも『早く過ぎてほしい』という意識のもとで早く過ぎてしまうものなのだろうか…

 

 

 

もちろん、ただ過ごしていたわけではなく、それまでも時にいつもの日常、時に一つの試練とも言える日など、コン年度も昨年に負けない色んな日々があった。

 

時に、これからどうなるんだと真っ先に思うほど不安に思う日もあれば、それをどうにか乗り切りつつもそれ以外特に進展があると実感出来ないような日もあった。

しかし、その都度私は昨年同様、どうにか乗り切り、今もその象徴としてこれからに向けた事を心置きなく行える平穏な中を過ごしている。

もちろん、まだ途中である以上油断してはならないのも事実ではある。

故郷で再スタートを切って以降の私は、まさしくそういった日々を毎日のように過ごしていた。

 

 

そういった日々の中、私はずっと身の周りの事を常に気にかけていた。

私の周囲は、決して今まで通りでいる事はなく、常に何かしらの変化や発展を起こしてそれを糧に色んな事があった。

その中には、私が普通に関心を向けるものもあった。

私は、いつも通りの日々を過ごしている中で、関心を持つ事への動向を見守っていた。

直に関わる事が出来なくても、その後の動向を見守る事は出来る。

そうしてこそ、復帰する時になったらすぐに着いていけるようになるのだ。

その動向の中には、『ここまで進んでいたのか…』と思うものや、『ここでこうなるのか…』といったような事など、いつも通りにいる中でそうではない色んな変化や発展があった。

 

中には、私自身の事を象徴するように大きな変化があったものもあった。

 

1年もしないうちに、新たな事を基本にここまで色んな事は変わるものなのかと私はあらためて実感した。

 

 

 

 

 

それと同時に、私はその動向を見守ってる中でひそかに痛感している事があった。

そしてその痛感は、ひそかにコン年度の事に限った事ではないという事も実感していた。

それは…

 

 

『それに乗り遅れている』という事だった。

この年…いや、それに限らず私はコン日に至るまでずっと色んな事において乗り遅れた日々を過ごしていた。

 

昨年度から私は、基本的に直に関わっていた事にまで及ぶほど、これまで関心を向けていた事に手をつけられなくなっていた。

その規模は、それなりに出来ていた事もとうとう焼きがまわったかのように出来なくなり、いつしか私は新たな事に手をつけるどころか、それまでの事にさえも手をつけられない状況になってしまっていた。

 

今思えば、あの時は今まで以上に尋常じゃない事態の中にいたのだとあらためて思う。

ここまでの事になりながらも、私は取り繕う事も出来ない中でその場しのぎにさえならない事をしていたのだと私はあらためて思った。
結局、昨年は多少の事が一時的に出来た程度で、今まで以上に乗り遅れている中で日々を過ごしていた以外の何ものでもなかったのだった。

 


私がポケモンのサンムーン世代に気を向けつつも、本編を買わないどころかグッズさえも買う事に消極的だったのも、ひそかにこういった背景があったからなんだとあらためて思った。

当時は、『気を向けるポケモンがいなかったから』だと言っていたが、アシレーヌさんというそれを真っ先に撤回したポケモンが出現したにもかかわらず、それでも別の理由があるかのように結局買わなかった。

 

あの時点で私は、イソップ物語における『ずっと遊び呆けて冬を迎えたキリギリス』のように、自分ではどうにもできないまでに追い詰められてる状態でいながら、それを改善しようとせず、あくまでこのままでどうにかやっていこうとしている中にいたのであろう。

 

ポケモンのニュージェネレーションへの乗り遅れは、私自身の追い詰められた境遇をひそかに示していたのだとあらためて痛感した。

 

ポケモンのジェネレーションもそうだが、それにとどまらず、遊戯王やデュエルマなどもいつしか新たなシリーズを買う事さえやらなくなったのを基本に、乗り遅れが広がっていっていた。

そもそも、今まで普通に出来ていた事さえできなくなっている時点で、さすがにどうにかすべきだと思うものだが、私はそれをどうにかするためにやるべき事を理屈をこねて最低限もやろうとしなかったため、それが結局関心を向けていた事が出来なくなる事にとどまらない事態を招く事になってしまったのだ。

今思えば、私は本当に何をしていたのだろうかとあらためて思うだけでなく、追い詰めてまでもそこにしがみつく事に納得していた私自身があらためて怖いと思った。

 

私が経験した乗り遅れは、今思えばそれ以上の事になっていたのだと私は痛感した。

それは、単に関心を向けてる事が出来なくなるだけにとどまった事ではなかったのである。

今となって、私は色んな事への乗り遅れを通してそれ以上の境遇の中にいたのだと気付かされたのだった。

 

 

 

 

ヒーターから音が鳴った。

 

 

…給油か。

私はヒーターを止めて、タンクを取り出すと灯油タンクが置かれている場所に向かった。

 

 

 

 

かつてはドラム缶から給油していたのだが、最近は消防法規模の安全面もあり、灯油はポリタンクだけになっていた。

マァ、その方が運びやすいからリーズナブルではあるけどね。

ポリタンクから灯油を入れてる中、私はずっと考えていた。

 

 

 

コン年度、私はどこまで行けただろうか…

色々あった中で、今の私はどこまで変われているのかな…

少なくとも、多少気を抜いた時もあったけど、それなりに進めてるのは事実だろう…

ここに戻ってから、当初や時にという形で色々あったけど、それを通して少なくとも市川にいた頃よりは十分いい方になりつつあるのも事実…

けど、誤解しちゃいけないのはまだ到達していないという事…

今までよりも前進してると実感出来てるなら、そこで立ち止まらずに進んでいく事を引き続きしていく事だよね。

 

 

 

 

こうして乗り遅れた実感をあらためて持っているのも、当時の事をあらためてそのように考え直すようになったのも、今の私は少なくとも今までよりは変われてる方になりつつあるからであろう。
今思えば、私は『一方的に機会を逃したまま立ち止まっていた』中にいたのかもしれない。
『その時出来る事』は、同時にその時『しか』出来ない事でもある。
実際出来るうちである『今この時』にやらなくては意味はなく、結局逃してしまうのである。

『その時出来る事』を『(今出来るなら)そのうちやればいい』と思って知らず知らずのうちに放置したままでいてはいけない。

今出来る事は『やがて出来なくなる中で今しか出来ない事』でもある。

そうである以上、それが出来るうちにそれを実行するためにやらなくてはならない事を今やらなくてはならないのだ。

例えそれが出来るようになっても、その時にそのやる事が出来る機会そのものがなければ意味がない。

出来るようになる事は、『それが出来る機会があるうちに』形にしてこそ意味があるのだ。

 

私はそういった事においても、乗り遅れた状態にいる事が目立っている中にその時も、そしてコン年度もいたんだとあらためて気づいた。

 

コン年度は、予想以上に乗り遅れ、それによって逃してしまった事も多かった。

コン年度は再スタートの年だったにせよ、市川にいた頃の事が影響していた事もあってか気を抜く事も多く、それによってそれなりに出来ていた事もいつの間にか先延ばししてしまったのが目立っていた。

私が関心を向けている事に着いていく事だけでなく、私は『私を変える事』に対してもひそかに乗り遅れた中にいたのだとあらためて実感した。

身の周りで起きていた事への乗り遅れは、それ自体にとどまった事ではなく、それを通して伝えてる形で表れた、私自身の『変わる事に対する乗り遅れの投影』だったである。

 

コン年度を述懐して、私はあらためてそれに心から気づいたのだった。

 

 

 

 

給油を終え、私は部屋に戻った。

タンクを入れて私は再びヒーターのスイッチを入れた。

 

 

 

 

 

今までの事を通してわかったのは、私はずっと乗り遅れた状態の中にわざわざい続ける形で立ち止まっていたという事。

そして、ようやくあらためてそれに気づけたという事だった。

 

気づいたならば、私はどうするべきか。

 

それはもう決まっている。

 

今この時も、前進しているという確信のもと、変わる事に通じる事を実行していく。

 

それだけである。

 

少なくとも、コン日までの私は乗り遅れた中でも決して立ち止まったままではおらず、少しずつ進んでいく日々を積み重ねていっていたのも事実。

 

気づいたというのは、決して『今からようやくスタートする』事ではなく、『既に進んでいた中、いつの間にか立ち止まっていた事に気づき、あらためて再び歩き始める』という事。

 

乗り遅れた日々を無駄にせず、それさえも糧に出来たという形で今この時も歩み続け、本当のゴールとそこからの新たなスタートへと踏み出せるようにする。

 

それこそが、乗り遅れた日々の意味を成す唯一の、そして本当の答えである。