熊野古道中辺路後編三日目の平成30年(2018年)11月25日(日)、中華黎明でお腹を満たした私とY原さんは、熊野本宮大社に向けて歩き始めたのですが、N松さん、Aにメッセージをしたところ、もう請川の登り口の近くまで来ているとのことだったので、N松さんとAを待って、4人で熊野本宮大社へと向かいました。
◇大斎原
中華黎明から、熊野川沿いを1時間ほど歩き、大斎原(おおゆのはら)に着きました。
(大斎原/鳥居)
写真の左側に、黒い影や、白っぽい光が写り込んでいますが、心霊写真ではありません。
私のiPhoneのレザーのケースが痛んで剥がれた部分があったのですが、そこを手で押さえずに撮ってしまい、カメラにその剥がれた部分が写り込んでしまったのです。
それはさておき、K井さんと熊野古道伊勢路を歩いたときの『婆娑羅日記Vol.27~熊野古道伊勢路&大峯北奥駈道旅行記in2016⑲(志古⇒本宮)』の記事でもお話ししましたが、熊野本宮大社は、元々熊野川、音無川、岩田川の合流点である大斎原と呼ばれる中洲の中にありました。
当時は約1万1千坪の境内に、5棟12社の社殿、楼門、神楽殿、能舞台などがあったのですが、江戸時代までその中洲へ渡る橋は架けられておらず、参拝者は歩いて川を渡り、着物の裾を濡らしてから参拝するのがしきたりだったそうです。
ところが明治22年(1889年)8月の大水害で社殿の多くが流されてしまったため、水害を免れた4社を現在の熊野本宮大社がある場所に遷座しました。その後、大斎原には新たな社殿は建てられず今日に至っているのですが、神が舞い降りた地として、大斎原はいまだに人々の信仰の対象となっています。
(大斎原)
大斎原の社殿跡には、現在、2つの石祠が建っています。
(大斎原/説明板)
説明板によると、左の石祠に、中、下各四社、右に元境内摂社(八咫烏神社、音無天神社、高倉下神社、海神社 他)を祀っているそうです。
中四社の第五殿には、忍穂耳命(おしほみみのみこと)、第六殿には瓊瓊杵命(ににぎのみこと)、第七殿には彦穂々出命(ひこほほでみのみこと)、第八殿には鵜葺草葺不合命(うがやふきあえずのみこと)、下四社の第九殿には、軻遇突智命(かぐつちのみこと)、第十殿には埴山姫命(はにやまひめのみこと)、第十一殿には弥都波能売命(みづはのめのみこと)、第十二殿には稚産霊命(わくむすびのみこと)が祀られています。
記紀(『古事記』と『日本書紀』のこと)によると、忍穂耳命は、天照大神の子で初代神武天皇の高祖父、瓊瓊杵命は忍穂耳命の子で初代神武天皇の曾祖父、彦穂々出命(彦火々出見命などとも表記)は瓊瓊杵命の子で初代神武天皇の祖父、鵜葺草葺不合命は彦穂々出命の子で初代神武天皇の父とされています。
(大斎原)
大斎原の参拝を終え、大斎原の大鳥居を潜り、現在の熊野本宮大社へと向かいました。
(大斎原/鳥居)
◇熊野本宮大社
K井さんと平成27年(2015年)5月に大峯南奥駈道を縦走したときも、平成28年5月に熊野古道伊勢路・本宮道を歩いたときも、熊野本宮大社に着いたときは、靴擦れや肉刺などで足は痛み、脚の筋力も使い果たし、満身創痍の状態で着いたのですが、今回はロードバイクを始めて筋力が着いたおかげもあってか、筋力も体力もまだ残した状態で熊野本宮大社を参拝することが出来ました。
(熊野本宮大社/鳥居)
鳥居の右側には、白河上皇の歌が飾られていました。
(熊野本宮大社/白河上皇の歌)
【咲き匂ふ 花のけしきを 見るからに 神の心ぞ そらに和らるゝ】
by白河上皇
これは、白河上皇が熊野詣でに訪れた際に、参道に咲く花をご覧になって詠まれた歌です。
参道の階段を上がった先にある拝殿には、毎年、今年の一文字が飾られていますが、平成28年(2018年)の一文字は、「励」でした。
(熊野本宮大社/拝殿)
拝殿を参拝した後、神門を潜り、本殿を参拝しました。
(熊野本宮大社/神門)
本殿の写真も左側に黒い影が写り、しかもピンボケになっていますが、これもiPhoneのレザーケースの剥がれた部分が写り、焦点がズレてしまったせいで、心霊写真ではありません。
(熊野本宮大社/本殿)
ところで、以前も何度かお話ししましたが、熊野本宮大社の由緒は次のように伝えられています。
~古代、熊野の地を治めた熊野国造家の祖神である天火明命(あめのほあかりのみこと)の息子である高倉下(たかくらじ)は、初代神武天皇が九州の日向から大和に東征するに際し、熊野で天剣「布都御魂(ふつのみたま)」 を献じて、初代神武天皇をお迎えしました。
そして、その時に、高御産巣日神(たかみむすひのかみ)が、天より八咫烏(やたがらす)を遣わし、神武天皇を大和の橿原まで導かれました。
第十代崇神天皇の御代、旧社地大斎原の櫟(いちい)の巨木に、三体の月が降臨しました。天火明命の孫に当たる熊野連(くまののむらじ)は、これを不思議に思い「天高くにあるはずの月が、どうしてこのような低いところに降りてこられたのですか。」と尋ねました。
そうすると、真ん中にある月が、「我は證誠大権現(家都美御子大神(けつみみこのおおみかみ))であり、両側の月は両所権現(熊野夫須美大神・速玉之男大神)である。社殿を創って齋き祀れ」とお答えになりました。
この神勅により、熊野本宮大社の社殿が大斎原(おおゆのはら)に創建されました。~
家都美御子大神が誰かについては諸説あり、素戔嗚尊(すさのおのみこと)と同一神だとの説が有力であるものの、後付けの可能性が高いというお話を『婆娑羅日記Vol.50~熊野古道中辺路旅行記後編in2018③(神倉神社→熊野速玉大社)』でもさせていただきました。
さらに、『婆娑羅日記Vol.50~熊野古道中辺路旅行記後編in2018⑨(熊野那智大社→飛瀧神社)』で、古代の出雲王朝の東王家である富家(とびけ。向家。)が口伝で伝える正当な歴史の伝承者である富當男氏の息子である斎木雲州氏の著書『大和と出雲のあけぼの』(大元出版)や『出雲と蘇我王国』(大元出版)には、『向家文書』などを始めとする出雲に伝わる出雲王朝の歴史などが記されているというお話をしました。
この富家に伝わる歴史は、『出雲口伝』とも呼ばれますが、この出雲口伝によると、古代日本の歴史は、概ね以下のような内容が伝えられています。
日本各地に渡来伝説のある徐福(本来の表記は「徐市」(じょふつ))は、秦の始皇帝の命で、不老不死の仙薬を探すため、東方の三神山(蓬莱・方丈・瀛州)に向けて、童男童女数千人と共に出航したのですが、徐福が上陸したのが、出雲口伝によると出雲とされています。
そして、前述の『出雲と蘇我王国』などでは、徐福は秦によって滅ぼされた斉の王族で、斉の王族は、消えたユダヤの十支族の一族だとしています。
ちなみに、徐福が連れて来た童男童女の集団も斉にいたユダヤ人であったそうですが、この徐福集団は機織(はたおり)の技術を持ってきたことから、ハタ族と呼ばれ、秦から来たことから、後に「秦族」の字があてられました。
出雲に上陸したとき、徐福は、火明(ほあかり)という日本人名を名乗りました(「●●命」や「●●尊」など、いずれも「みこと」と読みます。この「命」、「尊」は、いずれも尊号で、自ら「●●命」とは名乗らないので、「火明」と表記していますが、「火明命」と同一人物です。今後もこのブログでは、尊号を付けた名前と、尊号のない名前が混在しますが、ご容赦ください。)。
徐福は用意周到で、出雲に上陸する1年ほど前から、穂日(ほひ)と武夷鳥(たけひなどり)の親子を先遣隊として派遣したのですが、穂日と武夷鳥が出雲王家と謁見した際、徐福と徐福集団の移住の許可を求めました。そして、このとき、徐福のことを「道教の道士」だと紹介したそうです。
ちなみにここにおける道教は、ユダヤ教が色濃く影響していたとの指摘があり、このことも徐福が消えたユダヤの十支族の一族であったことを物語っています。
穂日と武夷鳥の親子は、出雲王家に仕えて諜報活動(情報収集、根回しなど)を行っていたようで、その結果、徐福は出雲上陸後、出雲王家の高照姫と結婚することに成功します。
『婆娑羅日記Vol.50~熊野古道中辺路旅行記後編in2018⑨(熊野那智大社→飛瀧神社)』で、出雲王朝には主王と副王がいて、主王の職名は「大名持(おおなもち)」、副王の職名は「少名彦(すくなひこ)」といい、代々の主王、副王がこれらの職名を踏襲したというお話をさせていただきました。
出雲王家には、東王家の富家(向家)と、西王家の神門臣家(かんどのおみけ)の2つの王家があり、この両王家が、主王と副王に交代で就任しました。
出雲口伝によると、第8代の主王「大名持」が八千矛(やちほこ)で、大国主とも呼ばれており、第8代の副王「少名彦」が、事代主(ことしろぬし)だと伝えられています。
そして、火明こと徐福は、主王の八千矛と副王の事代主の許可を得て、当時、出雲王国領の一部であった丹波に、秦族を徐々に移住させたそうです。
ところで、火明こと徐福が結婚した高照姫は、主王の八千矛と、出雲王家の分家である宗像家の多岐都姫(たぎつひめ)との間の子でした。
それにもかかわらず、手っ取り早く王になろうと焦ったのか、火明こと徐福は、秦から連れて来た海童と呼ばれる子供たちに主王の八千矛、副王の事代主を拉致させて、殺害してしまいます。
出雲口伝によると、この主王の八千矛、副王の事代主が同時に殺害された事件を嫌い、両王家の分家が出雲人の約半数を連れて、大和(現在の奈良県)に移住したそうです。
火明こと徐福と高照姫との間に生まれたのが五十猛(いそたけ)ですが、徐福は五十猛を高照姫に託して、秦に一時帰国しました。
その後、五十猛は、父の火明こと徐福が秦族を移住させた丹波に移住して、海部氏(あまべし)の祖となります。
この五十猛は後に香語山(かごやま)と名乗るのですが、この五十猛の子が、後の日本の歴史に大きく関わってきます。
徐福は、秦に戻ってから、不老不死の仙薬を得るためにはさらなる費用がかかると言って、秦の始皇帝からお金を出させ、再び日本に向けて出航します。
そして、再来日した徐福は、今度は饒速日(にぎはやひ)と名乗って筑紫(現在の佐賀県)に上陸し、出雲王家の分家の宗像家の市杵島姫と結婚し、穂屋姫を産みました。
そして、饒速日こと徐福は、高照姫との間の子である五十猛と市杵島姫との間の子である穂屋姫を結婚させ、その間に天村雲(あめのむらくも。天叢雲とも表記)が生まれたのですが、この天村雲が後に大和の初代大王になったと、出雲口伝では伝えられています。
出雲口伝によると、初代神武天皇は実在せず、天村雲が、初代神武天皇のモデルになったことになります。
そして、欠史八代といわれ、実在が疑われている第2代綏靖天皇から第9代開化天皇までの天皇も、出雲口伝では、天村雲の子孫として大和の大王の王位を継承したとされており、実在した大王だと考えられています。
記紀に記された歴史と大きく異なる歴史なので、多くの人は、にわかには信じがたいと思うのですが、歴代天皇が代々引き継いできた三種の神器の1つである草薙剣(くさなぎのつるぎ)の正式名称が天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)であることからすると、天村雲が実在したか、少なくともそのモデルになった人物が存在し、かつ、天皇家と関わりのあったと考えるのが自然だと思います。
以上の出雲口伝から、徐福=火明=饒速日となるのですが、徐福が出雲に上陸し、主王の八千矛(大国主)と副王の事代主を殺害した蛮行は、記紀では素戔嗚尊(すさのおのみこと)の悪行として記録されることになりました。
つまり、出雲口伝によると、徐福=火明=饒速日=素戔嗚尊になるわけです。
物部氏が記したとされる『先代旧事本紀』(せんだいくじほんぎ)には、徐福の名前こそ出てきませんが、「火明櫛玉饒速日尊」(ほあかりくしたまにぎはやひのみこと)という名前が記されており、火明と饒速日が同一人物であることを示しています。
徐福こと饒速日は筑後川流域で勢力を伸ばし、その息子の彦火々出見の頃には、筑後と筑前を支配するに至ったそうです。
その頃は、国名を「筑秦国」(ちくしんこく)と名乗っていたそうですが、それが訛って、後に「筑紫国」(ちくしこく)となりました。
彦火々出見は、記紀では瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)の子で、初代神武天皇の祖父とされていますが、出雲口伝では、徐福こと饒速日の子とされています。
九州で築いた筑紫国の王家の子孫が、物部氏の祖となっていきますので、筑紫国はいわば物部氏の作った物部王国ともいえるわけです。
熊野本宮大社の主祭神である家都美御子大神が、素戔嗚尊と同一神であるという説があるのですが、熊野には古くから徐福渡来伝説が残されています。
出雲口伝によると、徐福は筑紫に上陸して物部王国を築き、そのまま九州で亡くなっているのですが、物部王国の徐福の子孫がその事業を引き継ぎました。
そして、大和、播磨、出雲などで戦乱が起こり、大和が弱体化した機に乗じて、徐福の子孫である五瀬命(いつせのみこと)が物部王国の軍勢を率いて熊野に上陸し、五瀬命は途中で命を落としますが、その弟の宇摩志麻遅命(うましまぢのみこと)が大和を制圧したと、出雲口伝は伝えています。
『三国志』の魏志倭人伝などで卑弥呼が登場する前の日本国内の戦乱を「倭国大乱」と記していますが、これが、大和、播磨、出雲を巻き込む戦乱の時期と一致しています。この倭国大乱の引き金となった事件があったのですが、そのお話は、また別の機会にさせていただきます。
さて、上記の物部王国による大和制圧を、『出雲と蘇我王国』(斎木雲州著/大元出版)などでは、(第一次)物部東征と呼んでいますが、この物部東征によって徐福の子孫が熊野に上陸したのが、熊野の徐福渡来伝説として残されたようです。
また、出雲口伝を前提にすると、神武東征は、前述のとおり、徐福=饒速日の子孫が統治する物部王国が、熊野を経由して大和を制圧し、大和の王家を倒して政権を奪取した物部東征をベースに創作された物語だと考えられることになります。
記紀における神武東征は、日向(現在の宮崎県)から、後の初代神武天皇である神日本磐余彦(かむやまといわれびこ)が兄の五瀬命(いつせのみこと)を始めとする3人の兄と共に、瀬戸内海を経由して大和に攻め込みますが、失敗し、船で熊野に向かい、熊野から上陸し、大和を制圧する物語ですが(記紀でも、途中で五瀬命が命を落としています。)、出雲口伝による(第一次)物部東征では、徐福=饒速日の子孫である五瀬命とその弟の宇摩志麻遅命が、土佐沖を通って熊野から上陸し、大和を制圧したとされています。
土佐(現在の高知県)には物部川という川があるなど、物部氏所縁の場所があるのも、物部東征が、土佐沖を通ってなされたことと整合する事実だと思います。
また、記紀では初代神武天皇の長兄とされている五瀬命が、出雲口伝では物部王国の王族となっており、さらに、宇摩志麻遅命の兄とされています。そして、この宇摩志麻遅命は、記紀でも饒速日の子で、物部氏の祖とされています。
このように、熊野に残る徐福渡来伝説は、九州で亡くなった徐福の事業を引き継いだ徐福の子孫が統治する物部王国による物部東征の物語が伝説として残されたものと考えられるわけです。
そう考えると、熊野本宮大社の主祭神の家都美御子大神が素戔嗚尊と同一神であるとの説は、素戔嗚尊=徐福とする出雲口伝を前提とすると、全く違和感がないことになります。
物部東征によって熊野から上陸した徐福の子孫が、先祖の徐福=素戔嗚尊を祀るのは、自然だからです。
前述した熊野本宮大社の由緒に、熊野国造家の祖神が、天火明命だと記していることも、徐福=火明なので、非常にしっくり来るわけです。
出雲大社、熊野三山、大和の大神神社が、いずれも出雲の神と関係があるのではないかというお話を、このブログでも何度か書かせていただきました。
出雲口伝によると、出雲王家の姫(高照姫は、第8代大名持である八千矛(大国主)の娘、市杵島姫は出雲王家の分家の宗像家の出身)と結婚した徐福が、火明=饒速日=素戔嗚尊で、物部東征によって徐福の子孫が熊野に上陸して、大和を制圧したとされています。
ただし、物部東征によって倒された大和の王家は、天村雲から始まる王家なので、徐福の末裔が統治する大和を、徐福の別系統の末裔が統治する物部王国が攻めて、政権交代した歴史なのです。
そして、天村雲から始まる歴代大王は、出雲王家(出雲から大和に移住した出雲王家の分家を含む)出身の姫を娶っています。
このような事実から、出雲口伝を前提にすれば、出雲、大和は、全て出雲王家やその分家、そして出雲王家が元々祀っていた神と深く関係があることになります。
また、物部東征を行った五瀬命が徐福=饒速日と、出雲王家の分家の宗像家出身の市杵島姫との間の子である彦火々出見の子孫なので、物部王国もまた出雲王家と無縁ではないことから、出雲王家が元々祀っていた神を熊野でも祀られていたとしても、不思議はないのです。
この「出雲王家が元々祀っていた神」ですが、このブログでも、熊野三山で現在祀られている家都美御子大神、熊野速玉大神、熊野夫須美大神の前に、熊野三山では別の神が祀られていた可能性があるという話をさせていただきましたが、以上のお話を前提とすると、熊野三山で元々祀られていた神は、出雲王家が元々祀っていた神と同一である可能性があると思うのですが、このお話をするためには、出雲口伝による出雲の成り立ちからお話をしなければなりませんので、このお話は、またどこかでお話しさせていただきたいと思います。
◇最後に
熊野本宮大社の参拝を終えた私たちは、熊野本宮大社の近くで軽く食事をしてから、バスで紀伊田辺に向かい、電車を乗り継いで、東京に戻りました。
平成29年(2017年)11月2日(木)から11月5日(日)に、N松さんと二人で熊野古道中辺路の半分を歩き、今回は、その残りを、N松さん、Y原さん、Aと歩きました。
既に熊野古道中辺路を歩き終わっている脚力のあるK井さんはいずれも参加せず、ルートはN松さんが決めてくれました。
そのため、K井さんと歩くときと比べ、1日に歩く距離、時間も短めで、ペースも遅めになるので、苦行感は少なめの熊野詣でとなりました。
しかし、商店や自動販売機などが全くない山の中を歩くので、食料や水などでザックも重くならざるを得ません。
そのため、今回も、普通のハイキングとは異なる苦行滅罪の旅を味わうことができました。
そして、熊野を訪れるたびに、熊野で祀られる神や、熊野と出雲との関連性などについて、いろいろ思うところがあったのですが、斎木雲州氏の著書『大和と出雲のあけぼの』(大元出版)などと出会い、再び熊野を訪れたことで、さらに考察を深めることができたのも、大きな収穫でした。
今回で、熊野古道はほぼ歩き終わったことになるのですが、熊野古道紀伊路は、大阪エリアは、古道はほとんど残っておらず、一般道を歩くことになるので、そこを歩かずに、海南駅で降りて和歌山県内のルートを歩いただけでした。
そのため、いつかは、熊野古道をコンプリートすべく、その熊野古道紀伊路の大阪エリア部分も歩こうと思います。
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