熊野古道中辺路旅行後編初日の平成30年(2018年)11月23日(金)、熊野那智大社の参拝を終えた私たちは、隣の青岸渡寺(せいがんとじ)に向かいました。

 

◇青岸渡寺

 

 青岸渡寺は、補陀洛山寺(ふだらくさんじ)を開いた裸形上人(らぎょうしょうにん)が仁徳天皇の御世に開基したと伝えられております。

 

 裸形上人はインドの僧侶で、何らかの理由で那智の浜に6人の僧侶と共に漂着したそうです。

 その後、仲間の僧侶たちはインドに帰りましたが、裸形上人はこの地に留まり、那智御瀧那智の滝)で修行し、後に、滝壺から長さ八寸(約24cm)の仏像を掴み出したと伝えられています。

 

 西国三十三所札所会監修の『西国巡礼~三十三所の歴史と現代の意義』によると、それから200年ほど経った推古天皇の御代に、大和から生仏上人が来山し、椿の霊木で高さ約3mの六臂如意輪観世音菩薩坐像(ろっぴにょいりんかんぜおんぼさつざぞう)を造像し、裸形上人が感得した観音像を体内に納めて本尊とし、推古天皇の勅命で堂社を建立したそうです。


 その後、一千日(3年間)の瀧籠りをした花山法皇が永延2年(988年)に御幸した際、西国三十三ヶ所の第一番札所に定めたと伝わります。
 

 青岸渡寺の本尊である如意輪観世音菩薩を祀る本堂は、織田信長の兵火によって焼失してしまい、現在の本堂は、天正18年(1590年)に豊臣秀吉が再建したものです。

 この本堂は、如意輪堂と称されていました。 

 ところで、日本では欽明天皇13年(552年)に百済から
仏教が公伝して以降、古来の日本神道と外来の仏教を融合調和する神仏習合が進み、神社の境内には神宮寺が建てられ、寺の境内には鎮守社が建てられ、同じ境内に神社と寺が同居するようになりました。
 
修験道は、この神仏習合の信仰で、青岸渡寺は、熊野那智大社と併せ、神仏習合の修験道場でした。

 
熊野本宮大社熊野速玉大社にも同じように仏堂が建てられていたものの、明治維新に伴う神仏判然令神仏分離令)で如意輪堂を除く全ての仏堂が廃されてしまいましたが、如意輪堂は破却を免れ、その後、信者によって青岸渡寺として復興しました。

 ただし、神仏判然令のため、当時は、熊野那智大社からすぐ隣の青岸渡寺に行くには、一旦熊野那智大社の参道の階段を降りてから、青岸渡寺の参道の階段を登って青岸渡寺を参拝しなければならなかったそうです。


 ちなみに、青岸渡寺という寺号は、如意輪堂を再建した豊臣秀吉が、母である大政所を弔うために高野山に建立した青巌寺に由来するそうです。
 

 

(青岸渡寺)

 

 私は、同業者同期のK井さんとロードバイクで坂東三十三観音巡りをしているのですが、『婆娑羅日記Vol.47~奈良旅行記in2018⑬(南法華寺)』でお話ししたように、K井さんからの提案もあり、関西を訪れた際に、西国三十三観音巡りもすることにして、平成30年(2018年)9月15日からの二泊三日の奈良旅行の際に、西国三十三観音の第6番札所の南法華寺壷阪寺)を皮切りに、奈良県内の札所も巡りました。

 

 青岸渡寺は、前述のとおり、西国三十三観音の第1番札所となっているのですが、前回訪れたときは、まだ西国三十三観音巡りを始めていなかったので、今回、改めて西国三十三観音納経帳御朱印をいただきました。

 

 

(青岸渡寺/御朱印)

 

 青岸渡寺御詠歌は、次の歌です。

 

補陀落や 岸打つ波は 三熊野の 那智のお山に ひびく滝津瀬

 

 

 御朱印をいただき、本堂を出ると、眼下に青岸渡寺三重塔那智御瀧が見えます。

 

 

(青岸渡寺の三重塔と那智御瀧)

 

 この三重塔も、織田信長の兵火によって焼失したのですが、しばらく再建されずにいて、やっと再建できたのは、昭和47年(1972年)になってからでした。

 

(青岸渡寺の三重塔と那智御瀧)

 

 三重塔は300円の参拝料で拝観することができるのですが、前回に引き続き、今回も時間の関係で拝観できませんでした。

 

 1階には、那智御瀧にまつわる多くの伝説に登場する不動明王、2階には西方の極楽浄土に住まう阿弥陀如来、3階には慈悲の菩薩である飛瀧権現(ひろうごんげん)の本地仏である千手観世音菩薩が祀られているそうなので、次の機会にはゆっくり拝観できたらと思います。

 

◇飛瀧神社

 

 三重塔からさらに数分下っていくと、飛瀧神社(ひろうじんじゃ)があります。

 

(飛瀧神社/鳥居)

 

 飛瀧神社熊野那智大社別宮ですが、那智御瀧が御神体で、本殿も拝殿もありません。
 お瀧拝所から見る
那智御瀧は、圧巻です。

 

(那智御瀧)

 

 飛瀧神社の主祭神は大己貴命(おおなむちのみこと)ですが、この大己貴命は、通説では大国主神と同一神と解されています。

   

 これに対し、この大己貴命は、事代主神(ことしろぬしのかみ)と同一だと唱える研究者もいるようですが、古代の東出雲王朝の王家である富家(とびけ。向家。)に代々伝わる『向家文書』などによれば、大己貴命事代主神は別の神だと思われます。

 さらに言えば、この『向家文書』などを始めとする出雲に伝わる出雲王朝の歴史が真の歴史だとすると、大己貴命が、大国主神と同一神というのも、間違ってはいないのですが、正確ではありません。

 

 少し詳しくお話しします。

 

 富家の伝える正当な歴史の伝承者である富當男氏の息子である斎木雲州氏の著書『大和と出雲のあけぼの』(大元出版)や『出雲と蘇我王国』(大元出版)には、『向家文書』などを始めとする出雲に伝わる出雲王朝の歴史などが記されていますが、それによると、出雲王朝には主王副王がいたそうです。

 そして、主王職名は「大名持(おおなもち)」、副王職名は「少名彦(すくなひこ)」といい、代々の主王、副王がこれらの職名を踏襲しました。

 

 出雲王朝の真実を隠蔽したい『日本書紀』、『古事記』では、意味を分からなくするために、わざと主王の職名を「大己貴」(おおなむち)とし、副王の職名は、漢字の順を逆にして、「少彦名」(すくなひこな)と記したと伝えられています

 

 『日本書紀』が、完成した時の政権の中枢にいた藤原不比等によって、都合の悪い真実が隠され、藤原家にとって都合の良い歴史に改竄された可能性が高いと指摘する専門家もいますが、その中央からの圧力が少ない中で地元の人が書いた『出雲国風土記』や『伯耆国風土記』には、「少名彦」と、出雲に伝わる正しい職名が記されています。

 

 ただし、これらの漢字の故意の改変という主張は、出雲側の言い分に過ぎず、実際、古代の日本には漢字がなかったので、音だけが伝わっていて、漢字が伝来してからその音に合う漢字を当てたに過ぎないため、同じ神、同じ天皇でも、読み方が同じなのに、『日本書紀』と『古事記』でも違う漢字が当てられていることは、通常だという反論もあるかもしれませんが、少なくとも、『日本書紀』と『古事記』は、出雲神話にかなりの紙面を割き、出雲の国譲り神話で日本の統治権を禅譲したように記して、出雲を立てているように見せながら、大和王権が成立した後にも残る出雲の痕跡などをなるべく矮小化して記そうとしたことが見て取れるのも事実なので、ここでは、両者にそれぞれ言い分があることをお伝えしておきます。

 

 それはさておき、話を戻すと、この主王の大名持と副王の少名彦の職名は代々踏襲したとお話ししましたが、つまり、主王大名持副王少名彦は、複数いたわけです。

 

 『向家文書』などによると、第8代主王大名持」が、八千矛(やちほこ)で、大国主とも呼ばれていたと伝えられています。

 また、第8代副王少名彦」が、事代主(ことしろぬし)だと伝えられています(ただし、「事代主」の漢字は当て字だそうです。)。

  

  そうすると、大己貴命大国主神と同一神というのは、第8代大名持大国主神であるという限度では、当たっているのですが、第8代少名彦である事代主とは、別の神であることは明らかなので、大己貴命事代主神は、別の神だということになるわけです。

 

 この『向家文書』や『出雲国風土記』などに伝わる出雲王朝の歴史は、正史である『日本書紀』と異なる内容が記されているために偽書だとされている古史古伝(『古事記』や『日本書紀』などと著しく異なる内容の歴史を伝える文献の総称。)の複数の文献と一致している記述なども多く見られることから、『日本書紀』や『古事記』が隠蔽した真実の歴史が潜んでいる可能性が大いにあるという点で非常に興味深く、さらに、実は熊野三山に祀られる神々と出雲が関連があるのではないかとも思っているのですが、それについては、追々このブログの中で考察していきたいと思います。

 

◇民宿わかたけ

 

 飛瀧神社の参拝を終えた私達は、バスでJR紀伊勝浦駅に向かいました。

 

 熊野古道中辺路はこの後、熊野那智大社の西側にある那智高原公園を抜けて、大雲鳥越小雲鳥越という難所を越えて、熊野本宮大社に向かうのですが、大雲鳥越を越えた小口まで宿はありません。

 そのため、本当はこのまま熊野那智大社の近辺に泊まりたいところですが、そこに泊まりたいところなのですが、この辺りは、既に閉館してしまっている宿坊などもあり、泊まれる宿は、あまりありません。

 

 そこで、平成28年(2016年)11月にK井さん、N松さんと熊野古道大辺路を歩いてから熊野那智大社を参拝した後、宿泊した「民宿わかたけ」が「マグロと地酒の宿」と謳っていて、食事も美味しくて、日本酒の品ぞろえも良かった記憶があったので、今回はN松さんが「民宿わかたけ」を予約してくれていました。

 

 そのため、元来た道を戻ることになってしまうのですが、バスでJR紀伊勝浦駅に向かい、「民宿わかたけ」にチェックインしました。

 

 朝から歩き通しだったので、私たちはまずお風呂に入り、それから、大広間で食事をさせていただきました。

 

 最初に、地ビール「熊野古道麦酒」で乾杯しました。 

 

(民宿わかたけ/熊野古道麦酒)

 

 ビールで疲れが一気に癒えます。

 

 そして、刺身の盛り合わせ熊野牛のすき焼きめばち鮪のカマの塩焼きなど、コースの料理が次々と出てきます。

 

(民宿わかたけ/刺身の盛り合わせ)

 

 ビールを飲み終えた私達は、早速、紀土などを始め、和歌山奈良日本酒を中心に、いろんな日本酒を飲ませていただきました。

 

(民宿わかたけ/熊野牛のすき焼き)

 

 本当は早めに寝て、明日に備えたいところですが、日本酒好きの私とAはテンションが上がり、Y原さんも、それほどお酒が強くないN松さんも、大広間で食事ができる時間いっぱいまで、付き合ってくれました。

 

(民宿わかたけ/めばち鮪のカマの塩焼き)

 

 民宿わかたけは、ご主人が日本酒に詳しく、ご主人が直々にお勧めの日本酒を紹介し、徳利にお酒を注いでくださるので、日本酒好きとしては、ご主人に勧められた日本酒は、やはり飲みたくなるわけです。

 そんなわけで、かなりの量の日本酒を堪能させていただきました。

 

 また熊野古道を歩いて、紀伊勝浦に宿泊する機会があれば、必ず、この民宿わかたけに宿泊したいと思います。

 

◇次回予告

 

 翌朝、民宿わかたけをチェックアウトした私たちは、バスで熊野那智大社まで戻り、そこから、熊野古道中辺路の難所の1つである大雲取越へと向かったのですが、次回はそのお話からさせていただきます。

 

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