◇序章

 

 平成30年(2018年)11月の前までで、坂東三十三観音の札所のうち、埼玉県(同行者は同業者同期のK井さん)、群馬県(同行者はK井と私の幼馴染のS井君)、神奈川県(同行者はS井君)、栃木県(同行者はK井さん)、茨城県(同行者はK井さんとS井君)の札所をロードバイクで巡り、残すは千葉県東京都の札所となりました(ただし、神奈川県は、小田原市飯泉にある⑤勝福寺が残っています。)。

 

 東京都の札所は、⑬浅草寺の1ヶ所のみですが、K井さんは既に⑬浅草寺は訪れているので、千葉県の札所を巡るまでに、⑬浅草寺で納経しておくことを勧められました。

 

 そこで、平成30年(2018年)12月29日にロードバイクで⑬浅草寺を参拝することにしました。

 

◇浅草寺

 

 文京区目白台の自宅から⑬浅草寺まで、ロードバイクで40分ほどで着きました。

 

 本来なら、雷門から仲見世を通って、宝蔵門を抜け、観音堂まで行きたかったところですが、観光客で混雑している雷門付近で駐輪場を探し、ロードバイク用のウエアのまま、観光客で混雑している仲見世を歩くのもどうかと思い、Garminのナビで指示された⑬浅草寺観音堂と、浅草神社の間の駐車場に駐輪させていただき、そのまま、観音堂を参拝し、納経させていただきました。

 

 ロードバイク用のウエアを着たオジサンが、御朱印帳を片手に、観音堂で小声で般若心経と御本尊の御真言を唱えている姿は、少し滑稽だったかもしれません。

 

 

 さて、⑬浅草寺は、山号を金龍山といい、坂東三十三観音の第13番札所となっていて、浅草観音とも呼ばれています(浅草寺の頭に冠している⑬の数字は、いつもと同様、札所の番号を示しています。)。

 

 ⑬浅草寺公式ホームページによると、寺伝には、⑬浅草寺の草創について、次のように記されているそうです。

 

~寺伝によると、ご本尊がお姿を現されたのは、飛鳥時代、推古天皇36年(628)3月18日の早朝であった。
宮戸川(今の隅田川)のほとりに住む
檜前浜成竹成兄弟が漁をしている最中、投網の中に一躰の像を発見した。仏像のことをよく知らなかった浜成・竹成兄弟は、像を水中に投じ、場所を変えて何度か網を打った。しかしそのたびに尊像が網にかかるばかりで、魚は捕れなかったので兄弟はこの尊像を持ち帰った。
 
土師中知(名前には諸説あり)という土地の長に見てもらうと、聖観世音菩薩の尊像であるとわかった。そして翌19日の朝、里の童子たちが草でつくったお堂に、この観音さまをお祀りした。「御名を称えて一心に願い事をすれば、必ず功徳をお授けくださる仏さまである」と、浜成・竹成兄弟や近隣の人びとに語り聞かせた中知は、やがて私宅を寺に改め、観音さまの礼拝供養に生涯を捧げた。
 浅草寺に伝わる縁起には、観音さま示現の日、一夜にして辺りに千株ほどの松が生じ、3日を過ぎると天から金の鱗をもつ龍が松林の中にくだったと記されている。この瑞祥が、後につけられた山号「金龍山」の由来となった。また現在、浅草寺寺舞として奉演されている「金龍の舞」も、これに因む。~

 (浅草寺の公式ホームページの『浅草寺の歴史』より引用)

 

 その後、大化元年(645年)に勝海上人⑬浅草寺を開山し、観音堂を修造し、夢告によって、隅田川で授かった御本尊を永代秘仏と定めたそうです。

 そして、平安時代には比叡山から慈覚大師円仁)が来山し、秘仏の御本尊のお前立本尊を、この慈覚大師が謹刻したと伝わります。

 

 このことから、⑬浅草寺では勝海上人開基慈覚大師中興開山としているそうです。

 

 天慶2年(939年)11月に平将門の乱が起こると、それによって⑬浅草寺は荒廃してしまいますが、平将門の乱の鎮圧後に安房守に任じられた将門の従兄弟の平公雅が、天慶5年(942年)に、藤原秀郷の後任として武蔵守に任じられた際、⑬浅草寺七堂伽藍を整備し、雷門仁王門が創建されたと伝わります。

 ちなみに、雷門は、風神・雷神を祀る門なので、正式には風雷神門といいます。

 また、仁王門は、現在は宝蔵門と呼ばれています。その理由は、後述します。

 

 その後、長久2年(1041年)12月22日に起きた大地震により、観音堂を含む境内のほとんどの堂宇が倒壊してしまいました。

 寂円上人が永承6年(1051年)に観音堂の再建を果たしますが、延暦3年(1079年)12月4日に、原因不明の火災によって焼失します。もっとも、御本尊は、観音堂の西方にあった榎の梢に自ら避難したとの言い伝えが残されており、実際、御本尊は焼失を免れたようです。

 

 それ以降も⑬浅草寺は度々焼失し、江戸時代に入ってからも、寛永8年(1631年)、寛永19年(1642年)に焼失しますが、江戸幕府第3代将軍徳川家光の援助により、慶安元年(1648年)に五重塔、慶安2年(1649年)に本堂が再建されました。

 しかし、昭和20年(1945年)3月10日未明の東京大空襲により、観音堂、五重塔などが焼失してしまいます。

 

 現在の鉄筋コンクリート造の観音堂は、昭和26年(1951年)に竣工し、昭和33年(1958年)に落成したものですが、再建にあたり、昭和天皇から金一封を拝領したそうです。

 昭和35年(1960年)には、松下電器産業(現:パナソニック)の当時の社長松下幸之助の寄進により、雷門が再建されました。

 さらに、昭和39年(1964年)には、大谷重工業大谷米太郎夫妻の寄進により、宝蔵門が再建されました。

 ちなみに、大谷米太郎は、元々は、砺波山(後に改称して鷲尾嶽)という四股名で幕下筆頭まで昇進したことのある稲川部屋所属の力士で、力士を辞めてから、酒屋の経営を始めたのを皮切りに、様々な事業を展開し、戦前には鉄鋼王とまで称された実業家で、ホテルニューオータニも創業しています。

 

 宝蔵門は、元々は仁王像を祀っていることから、仁王門と称されていたのですが、大谷米太郎の寄進によって再建された際、経蔵を兼ねて伝来の経典や寺宝を収蔵することから、宝蔵門と改称されました。

 

 ⑬浅草寺は、上記の武将、実業家の人たちのほかにも、鎌倉幕府初代将軍源頼朝、室町幕府初代将軍足利尊氏、第4代鎌倉公方足利持氏、小田原北条氏第2代当主北条氏綱、徳川幕府初代将軍徳川家康など、多くの人々の寄進、援助に助けられながら、庶民の寺として、多くの人々の信仰を集め続けているわけです。

 

 

 さて、観音堂で納経を終えた私は、観音堂の北西にある影向堂御朱印所)に向かい、行列に並び、御朱印をいただきました。

 

(⑬浅草寺/御朱印)

 

 納経帳に記された⑬浅草寺御詠歌は、次の歌です。

 

 深きとが 今より後は よもあらじ 罪あさ草へ まゐる身なれば

 

 

 ところで、前述のように、今回、⑬浅草寺観音堂と、浅草神社の間の駐車場にロードバイクを駐輪させていただき、そのまま、観音堂を参拝し、納経したのですが、その際、観音堂が大きくて、近くからではカメラに収まり切りませんでした。

 しかも、ロードバイク用のウエアだと肌寒かったのと、この後、ロードバイクで本駒込の友達夫婦の家を訪れる約束をしていたこともあって、結局、⑬浅草寺境内で写真を撮りそびれてしまいました。

 そのため、今回は、⑬浅草寺の写真は、御朱印の写真のみとなってしまいました。

 

◇次回予告

 

 同い年の男友達C野さんのお誘いで、平成31年2月8日(金)から二泊でタイに行ってきたので、次回はそのお話からさせていただきます。

 

 

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