熊野古道中辺路旅行後編三日目の平成30年(2018年)11月25日(日)、熊野古道中辺路小雲取越石堂茶屋跡まで辿り着いた私達は、熊野古道中辺路の名所の1つである百間ぐらへと向かいました。

 

◇小雲取越②

 石堂茶屋跡のすぐ先に、三重県の教育者・郷土史家である嶋正央歌碑がありました。

 

(嶋正央の歌碑)

 

歩まねば 供養ならずと 亡き母が のたまひてゐし 雲取に来ぬ

  by嶋正央

 

 34回も熊野御幸をした後白河上皇が撰した歌謡集『梁塵秘抄』にも、次にような今様(流行歌)が載っています。

 

熊野へ参らむと思へども 徒歩(かち)より参れば道遠し すぐれて山きびし 馬にて参れば苦行ならず 空より参らむ 羽賜(た)べ 若王子

  by『梁塵秘抄

 

 これまで、熊野詣では苦行滅罪の旅であるというお話をしてきましたが、「馬にて参れば苦行ならず」とは、まさにその熊野詣での意義が苦行滅罪の旅であることを表したものだと思います。

 

 嶋正央の歌碑の少し先には、賽の河原地蔵がありました。

 

(賽の河原地蔵)

 

 説明板には、次のように書かれていました。

 

 

(賽の河原地蔵/説明板)

 

 ~「賽の河原」とは、死んだ子供が行く所といわれる三途の川の河原。ここで子供は、親の供養のために石を積み上げて塔を作り、作っては絶えず鬼に壊される。そこへ地蔵菩薩が現れて子供を救うという。

 (中略)地蔵は、熊野詣でで亡くなった人々の霊を供養するために作られたものと思われる。~

  by「賽の河原地蔵」の説明板

 

 賽の河原地蔵の先は、林道との交差点まで、なだらかなくだりが続きます。

 

(賽の河原地蔵の先)

 

 林道との交差点の手前には、皇太子殿下行啓の地の碑が立っていました。

 

(皇太子殿下行啓の地の碑)

 

 平成4年の建立なので、この当時の皇太子殿下は、皇太子徳仁親王殿下のことです。

 

 林道との交差点を越えると、緩やかな登りとなります。

 

(皇太子殿下行啓の地の先)

 

 5分ほど登っていくと、木の隙間から周りの山々が見渡せるので、ピークはもうすぐです。

 

(皇太子殿下行啓の地の先)

 

 ここからさらに3分ほどで、百間ぐらに着きました。

 

(百間ぐら/説明板)

 

 百間ぐらの説明板の近くに石仏が鎮座しています。

 

(百間ぐら/石仏)

 

 そしてこの石仏の先に、もう1つ石仏が鎮座しています。

 

(百間ぐら/石仏)

 

 石仏の先には、北西に果無山脈(はてなしさんみゃく)、さらに西南の奥には、紀伊地方の最高峰である大塔山を中心とした大塔山系を眺めることができます。

 西に見えるのは、私は初めて聞く山の名前ですが、野竹法師という山だそうです。

 

 

 

(百閒ぐらからの眺望)

 

 百間ぐらに着いたときは、雲一つない快晴で、それらの山の稜線を鮮明に見ることができました。

 

(百間ぐらからの眺望)

 

 N松さんとAは、まだ百間ぐらに着いていなかったのですが、百間ぐらは、開けたスペースはあまり広くないので、あまり長く景色を楽しんでいると、他の参詣者に迷惑がかかってしまうと思い、少しの間、景色を楽しんでから、N松さんとAを待たず、私とY原さんは先に進むことにしました。

 百間ぐらの先は、通常の熊野古道で道も広くなく、座って休める場所もなかったこと、Aと同じペースで歩いているN松さんが事前にルートを調べていて、N松さんなら熊野本宮大社まで迷わずに辿り着けるという安心感もあったことも理由ですが、実は、請川に早く着いて、Y原さんと一緒に行きたいところがあったのです。

 

 百間ぐらから15分で、熊野古道伊勢路との分岐に着きました。

 

(道標)

 

 道標の「万歳峠・伊勢路へ」(万歳峠は、ばんぜとうげと読み、「万才峠」とも表記します。)と示された矢印の方に入っていくと、熊野古道伊勢路になります。

 

 平成28年(2016年)4月29日(金)から平成28年5月8日(日)まで、同業者同期のK井さんと熊野古道伊勢路大峯北奥駈道を歩きました。

 熊野市の花の窟神社から熊野本宮大社に向かう道も、熊野古道伊勢路の一部で、特に本宮道と呼ばれているのですが、この本宮道を歩いたときに、途中で1日テント泊をして、この分岐を通って、熊野本宮大社まで歩きました。

 

 そのときは、まだロードバイクも始めておらず、脚力もない中で、テント泊の道具一式などを含む重いザックを背負い、何日かおきにテント泊(残りは民宿などに宿泊)をしながら、伊勢神宮から熊野速玉大社まで6日かけて歩いたのですが、靴のインソールが合わなかったのか、4日目ぐらいから、靴擦れや肉刺ができ、歩くだけで足に痛みが走り、K井さんにかなり遅れをとってしまう状態でした。

 

 そんな状態でしたので、私がK井さんに追いつくまでの間の時間の余裕があると思ったK井さんは、この中辺路伊勢路の分岐のところにザックをおいて、私たちが今回訪れた百間ぐらまで往復してから、再び中辺路と伊勢路の分岐に戻ってザックをピックアップし、熊野本宮大社に向かったのです。

 

 私も、本宮道の途中でテント泊した翌日は足の痛みも薄れ、歩くペースも回復したので、K井さんと同じように百間ぐらまで行っても良かったのですが、このときに既に中辺路を歩き終わっているK井さんと異なり、私は、今回の熊野古道中辺路旅行で、N松さんたちと中辺路を歩き、百間ぐらを訪れる予定だったので、K井さんと本宮道を歩いたときは、私は百間ぐらには行かず、そのまま熊野本宮大社へと向かうことにしました。

 

 この中辺路と伊勢路の分岐を通ったときに、そのときの記憶が鮮明に蘇りました。 

 

 百間ぐらから請川の登り口まで、ずっと私の苦手な下り坂が続くのですが、この中辺路と伊勢路の分岐からは、K井さんと伊勢路を歩いた時に歩いた道なので、良いペースでY原さんと歩くことができました。

 

 中辺路と伊勢路の分岐から5分ほどで、松畑茶屋跡に着きました。

 

(松畑茶屋跡説明板)

 

 説明板によると、延享4年(1747年)の『三熊野参詣道中日記』には、灘五という者が、十年前に松畑茶屋を訪れた際に、茶屋の子に名前をつけたやったことを思い出し、その子の安否を尋ね、今では十一歳の美しい少年になっていたというエピソードが書きとめられているそうです。

 

 松畑茶屋跡からは、下り坂もかなり緩やかになり、私とY原さんのペースも、さらに上がります。

 

(松畑茶屋跡の先)

 

 松畑茶屋跡から30分ほど下ると、山の間から熊野川が見えました。

 

(請川の手前)

 

 請川の登り口まで、あと少しです。

 

 ここからさらに5分ほどで、民家が見え、請川の登り口に着きました。

 

(請川登り口)

 

 この熊野川の上流に、これから目指す熊野本宮大社が有ります。

 

(請川登り口)

 

◇中華黎明

 

 さて、百間ぐらで、N松さんとAを待たず、先を急いだのには、もう1つ理由がありました。

 

 熊野古道伊勢路を歩いたときに、K井さんから「請川バス停の近くに有るラーメン屋がけっこう美味い。」と聞いていたので、K井さんが百間ぐらに行っている間に先に請川に向かい、勧められた中華黎明に入って、チャーハン+ラーメンセットを食べたのですが、これがけっこう美味しかったのです。

 そのため、中華黎明Y原さんを連れて行きたかったのです。

 

 実は、熊野本宮大社に着いて、N松さんとAと合流してから、4人で昼食をとる予定なのですが、Y原さんは痩せているのにけっこう大食いで、私も、ラーメンは別腹と豪語しているので、中華黎明で、おやつ代わりにラーメンをいただいてから、熊野本宮大社に向かうことにしたのです。

 

 

(中華黎明)

 

 今回は、前回と同様、お得なチャーハン+ラーメンセットを注文しました。

 

(中華黎明/チャーハン)

 

 ラーメンは、前回は、ザ・和歌山ラーメンという感じの濃い目の色のスープだったのですが、今回は、薄めの色のスープになっていて、スープの味も少し変わったように思いましたが、それでも、Y原さんとかなり良いペースで小雲取越を歩いてきた後に食べるラーメンのスープは、胃に染みわたります。

 

(中華黎明/ラーメン)

 

 私は調子に乗って自家製餃子も注文し、Y原さんにもおすそ分けをしました。

 

(中華黎明/餃子)

 

◇次回予告

 中華黎明でお腹を満たした私とY原さんは、熊野本宮大社に向けて歩き始めたのですが、N松さん、Aにメッセージをしたところ、もう請川の登り口の近くまで来ているとのことだったので、N松さんとAを待って、4人で熊野本宮大社へと向かったのですが、次回は、そのお話からさせていただきます。

 

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