先週金曜日(平成27年9月11日(金))から昨日(平成27年9月13日(日))の三日間で、熊野三山から高野山に至る参詣道である高野道を歩いてきました。


◇序章

 『婆娑羅日記Vol.23~大峯奥駈道縦走記in2015①(行者還トンネル西口⇒弥山小屋』(http://ameblo.jp/tribune-ns0731/entry-12068032544.html)でもご紹介させていただきましたが、世界文化遺産『紀伊山地の霊場と参詣道』の参詣道とは、以下のものを指します。

 熊野古道
  ・小辺路(高野山と熊野本宮大社を結ぶ道)
  ・中辺路(田辺と熊野本宮大社、熊野那智大社を通って熊野速玉大社を結ぶ道)
  ・大辺路(田辺と那智勝浦を結ぶ道)
  ・紀伊路(淀川河口の渡辺津と熊野本宮大社、熊野那智大社、熊野速玉大社を結ぶ道)
  ・伊勢路(伊勢神宮と、熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社を結ぶ道)

 大峯奥駈道(吉野と熊野本宮大社を結ぶ道)
 
 高野山町石道(九度山の慈尊院と高野山を結ぶ高野山の参道)

 
 このうち、高野山町石道と、大嶺奥駈道の南側の3分の2(南奥駈道)は既に歩いていたので、同業者同期のK井さんから、今度は熊野古道の1つである小辺路を歩こうというお誘いをいただき、高校の先輩のN松さんも誘って、小辺路を歩くことになりました。

 ちなみに、熊野古道は、熊野三山(熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社)の参詣道なので、小辺路は、高野山から熊野三山までの参詣道のことを言い、反対に、熊野三山から高野山までの参詣道は、高野山の参詣道なので、高野道と呼ぶのが正確なんだそうです。
 同じ道でも、終点がどちらかによって、呼び方が変わるわけですね。

 
 今回は、元々小辺路を歩く企画だったのですが、スケジュールの関係で、熊野を出発して、高野道を歩く企画となりました。


◇徐福公園

 先週木曜日(平成27年9月10日(木))21時40分池袋駅東口発の三重交通の高速バスで和歌山県新宮市の新宮駅へと向かいました。

 翌朝(平成27年9月11日(金))7時40分に新宮駅に着いた私たちは、神倉神社へと向かったのですが、その途中に徐福公園があったので、寄ってみました。
 

徐福公園①(楼門)
  (徐福公園/楼門)

 私たちが訪れた
徐福公園は、元々あった徐福を中心に、平成8年(1994年)に整備されたばかりの新しい公園で、立派な楼門も、そのときに建設されてものです。
 ちなみに、その元々この地にあった
徐福は、元文元年(1736年)に建立されたもので、その墓の「秦徐福之墓」という文字は、紀州藩初代藩主:徳川頼宣が、儒臣の李梅渓に書かせたものと伝えられているのですが、新宮市には、遅くとも室町時代の末期には、既に徐福の墓があったようです。

  この立派な
楼門を潜ると、徐福石像があります。
 

徐福公園②(徐福像)
(徐福公園/徐福の石像)

 
 司馬遷が著した中国の歴史書『史記』の巻百十「淮南衝山列伝」によると、徐福(『史記』では、「徐市(じょふつ)」と明記されている。)が始皇帝「東方の三神山に長生不老(不老不死)の霊薬がある。」と具申し、始皇帝の命により、3000人の童男童女と百工(多くの技術者)を従え、五穀の種を持って東方に船出し、平原広沢(広い平野と湿地のこと)を得て、王となり、戻らなかったとされています。


 徐福は、に滅ぼされた琅邪群(現在の中華人民共和国山東省の東部)出身で、斉の民衆は、秦の過酷な労役に駆り出されるなどの搾取を受けていました。
 また、徐福は、一説には夏王朝の初期に徐王国の王に封じられた徐家の末裔ともされており、そのため、始皇帝から無理難題を吹っかけられていたともいわれています。

 そのため、徐福は、秦の圧政から逃れるために一族郎党を引き連れ、亡命したという説や、始皇帝を騙して莫大な富を得て他国へ逃げた稀代の詐欺師だという説もささやかれているところです。


 そのような出航の経緯はさておき、徐福始皇帝に具申した東方の三神山とは、渤海の遥か当方の絶海にある不老不死の仙人が住んでいると伝えられている伝説上の山で、蓬莱(ほうらい)・方丈(ほうじょう)・瀛州(えいしゅう)を指すのですが、瀛州は後に日本を指す名称として用いられるようになっており、徐福が目指したのが日本であったのではないかと考えられています。

 実際、北は青森から南は鹿児島まで、日本の全国津々浦々に、徐福が渡来したという伝説が残されており、日本だけでなく、中国朝鮮にも、徐福が日本に渡来したという伝説が語り継がれています。

 その中でも、仮に徐福が日本に辿り着いていたとしたら、その辿り着いた地として特に有力視されているのが、和歌山県新宮市と、佐賀県佐賀市なのですが、新宮では、東方の三神山の1つである蓬莱山が、熊野を指すと考えられており、新宮市内には、熊野川河口にある蓬莱島や、蓬莱島にある阿須賀神社を始め、徐福にまつわる名跡が多く点在しています。


 
徐福は、出航に際し、仮に不老不死の薬を持ち帰ることに失敗した場合、徐氏一族は始皇帝から迫害を受けることが確実であるため、親族には、「以後、徐姓を名乗らないこと」「各地に点在して住むこと」を指示していたとされており、そのこともあって、徐福の実在自体、確認が取れなかったのですが、近年の研究で、斉の琅邪群の近くに、徐阜村という村があり、乾隆帝の治世の前までは、徐福村と呼ばれていたことが判明し、徐福の存在がほぼ確実であるとされるに至りました。
 ちなみに、この徐福村には、前述の
徐福の親族に対する指示を裏付けるかのように、徐姓の住民が一人もいなかったそうです。

 このように、徐福の実在はほぼ確実ではないかといわれているので、その徐福が本当に日本に辿り着いていたのか、仮に辿り着いていたとしたら、それがどこであったのか、興味の尽きないところです


◇神倉神社

 
徐福公園を後にした私たちは、徒歩で熊野速玉大社飛地境内摂社である神倉神社へと向かいました。

神倉神社①(鳥居)
(神倉神社/鳥居)  

 神倉神社の鳥居を潜ると、鎌倉積みの急な石段に一瞬怯みます。

 しかし、この程度で怯んでいては、これから挑む
高野道は踏破できませんので、足慣らしに、軽快に登ってみました

 ちなみに、この石段は、源平合戦における熊野の功を賞して、建久4年(1193年)に鎌倉幕府初代将軍:
源頼朝が寄進したものと伝えられています。

 その急な石段を
538段登り切ると、参道は緩やかになり、それをしばらく歩くと、神倉神社社殿に辿り着きます。

神倉神社②(拝殿及びコトビキ岩)
(神倉神社/拝殿及びゴトビキ岩)

 社殿の隣にある巨大な岩が、神倉神社御神体であるゴトビキ岩です。
 社殿の脇から仰ぎ見る
ゴトビキ岩は、圧巻でした。 

 その
社殿ゴトビキ岩を拝んだ後、社殿を背にして振り返ると、新宮市街の絶景が眼下に広がっていました
 

神倉神社③(神倉神社からの眺望)
  (神倉神社/眺望)

ところで、神倉神社御神体は、ゴトビキ岩ですが、神倉神社御祭神は、天照大神(あまてらすおおみかみ)と高倉下命(たかくらじのみこと)です。


 天照大神は、言わずと知れた皇室の祖神であり、皇大神宮(伊勢神宮内宮)の主祭神でもある日本神話の最高神ですが、高倉下命は、あまり聞き慣れない神かもしれません。
 高倉下命は、どのような神でしょうか


 神日本磐余彦(かむやまといわれびこ。後の初代天皇:神武天皇)は、九州の日向(現在の宮崎県)を発ち、大和を征服し、橿原宮で初代天皇に即位します。世にいう神武東征です。

 しかし、この神武東征は、苦難の連続でした。
 神日本磐余彦は、熊野で悪神の毒気により倒れてしまいます。


 そのとき、高倉下命は、次のようなを見ました。


 天照大神高木神が、葦原中国(あしはらのなかつくに。日本のこと。)が騒がしいので、建御雷神(たけみかづちのかみ)を遣わそうとしたところ、武御雷神は、「私がいかなくとも、国を平定した剣があるので、それを降ろせば良い。」と述べ、高倉下命に、「この剣を高倉下命の倉に落とし入れることにしよう。お前は、朝目覚めたら、天津神の御子(みこ)に献上しろ。」と言いました。


 ここで、天津神(あまつかみ)とは、高天原から降臨した神々の総称で、その最高神が、天照大神なのですが、神日本磐余彦は、天照大神の子孫とされていますので、「天津神の御子」とは、神日本磐余彦を指します。

 ちなみに、天孫降臨以前から日本にいた神々は、国津神(くにつかみ)というのですが、高天原から降臨した神であるにもかかわらず、天照大神の弟である素戔嗚尊(すさのおのみこと)や、素戔嗚尊の子孫である大国主神(おおくにぬしのかみ)は国津神とされています。


 それはさておき、そのような夢を見た高倉下命は、目覚めてから倉を調べたところ、倉の中にが置かれていたので、それを神日本磐余彦に献上したところ、神日本磐余彦は覚醒し、大和を制圧することができたのです。


 高倉下命は、いわば、神武東征功労者の一人というわけです。


◇次回予告

 
神倉神社の参拝を終えた私たちは、徒歩で熊野速玉大社へと向かったのですが、次回は、そのお話からさせていただこうと思います


 本日も最後まで読んでいただき、ありがとうございましたm(__)m 

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