秋分の空を文殊の剣が突く

 

「雲の峰」2023年11月号青葉集掲載。

9月20日は空の日。1911年9月20日、山田猪三郎が開発した山田式飛行船が東京上空を一周したのを記念して、この日を「空の日」と制定した。そこで今日は空に関する句をご紹介したい。この句を詠んだ場所は、恐らく安倍文殊院か。秋分の抜けるような青空を突くように、文殊菩薩が宝剣を立てている。真っすぐ立てられた剣に威厳を感じて詠んだ句。

この剣は知恵の剣と言い、広辞苑によると、「煩悩を断ち、生死の絆を断つ」とされている。一見何もない青空に見えるが、よく見ると人の煩悩に溢れているという事か。人間は、つい自分の事を優先して考える。ひどい時には、それがために周りが全く見えなくなる時がある。私もよくそれを指摘された。そんな行動が、無意識のうちに人を傷つけているのかもしれない。文殊の剣に断ち切ってもらって、襟を正して生活せねば。

 

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穏やかな高石垣や雁渡し

 

「方円」2014年11月号清象集掲載。

「雁渡し」とは初秋から仲秋にかけて吹く北風の事。「青北風(あおぎた)」とも呼ばれるが、この頃に雁が渡って来る事から、この名が付けられた。もともと漁師によって使われた言葉で、この風が吹き出すと、潮も空も急に秋らしく澄み渡るという。そんな本格的な秋の空の下、立派な石垣がそびえている。この情景は覚えていないが、お城ではなく、恐らく斜面に建てられた農家か寺院か。戦いや防御のために作られたものではないと思われる。立派だが穏やかな光景と爽やかな風に秋を感じて詠んだ句。

今日、9月17日は仲秋の名月。この時期はもう少し涼しかったような気がするが、年々暑さが増している。ご近所の生垣などは、未だに百日紅が満開で、真夏の装い。夾竹桃まで咲いていた。一方、畦道にはそろそろ彼岸花が咲き始め、休耕田には土を痩せさせないために植えられたコスモスが咲き始めている。そして夜には虫も鳴く。徐々に夏と秋の境目がわからなくなっている。そう遠くない将来、日本の四季の様子が変わってしまうのではないか。そんな気がしてならない。俳句を楽しむ者としては、日常のちょっとした自然の変化を目ざとく見つけて、句として残しておきたい。

 

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元句:棄て畑に命の色や式部の実

校正後:棄て畑に命の色の式部の実

 

「雲の峰」2023年11月号青葉集掲載。

式部の実とは紫式部の実の事。山野に自生し、観賞用としても植えられる。秋に紫色の丸い実を実らせる。その鮮やかな紫が特徴的で、好きな季題でもある。よく行く散歩コースの途中に休耕田があり、植えられたのか自生しているのかわからないが、畦に紫式部が生えている。それが道路より少し高いところにあり、紫の実がよく見える。何も収穫がない荒れた畑の中で、紫式部が実る一角だけ、命の色が輝いて見える。そんな光景に安心して詠んだ句。

今回は主宰の校正が入った。上記の解説の通り、私としては「命の色」という言葉を強調したかったので、ここで切れ字を使った。「や」は切れ字の中で最も効果の高いもの。この場合は二句切れという事になる。それが校正後には「や」が「の」に変わっており、句切れがなくなっている。それによって、「棄て畑に式部の実が生っている」事を、全体を俯瞰して見ている句に変わっている。どちらが好みかは見る人次第。私としては「の」の連続が気になるところではあるが、それでも理にかなった校正と言える。句作の際、いかに推敲校正が必要かという事が、これでよくお分かりだと思う。

 

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秋高し漏刻の水さらさらと

 

「方円」2010年11月号雑詠掲載。

「天高く馬肥ゆる秋」とよく言うが、これは杜審言の詩の一節「秋高くして塞馬肥ゆ」から取られている。秋は大気が澄み、晴れた空が高く感じる。これを「天高し」「秋高し」と表現する。そんな秋晴れの中、大津の近江神宮に出掛ける。この神社の祭神である天智天皇が、671年に大津宮で太鼓を打って時報を開始。その10年ほど前、中大兄王子が漏刻と呼ばれる水時計を作ったとされている。現在は境内に漏刻が再現されており、今でも水が流されている。秋晴れの中、淡々と水を流し、淡々と時を刻む漏刻に、季節の移ろいを感じて詠んだ句。

2024年は、「昭和99年」だそうだ。私は昭和46年生まれで53歳。当たり前だがきちんと計算が合う。つまり、昭和の99年間の半分以上を生きた事になる。もうそんなに生きたのか。そう考えると、時の流れというものは残酷だと感じる。時間は止める事も戻す事も出来ない。生きとし生けるもの、平等に時間は経ち、年月は淡々と過ぎる。ふと立ち止まって、今まで自分は何を成し遂げたか。これから何をなしうるか。ただ淡々と生きて来ただけのように感じる。ここで人生が終わる訳ではないので、これから迎える時間を有意義に過ごしたい。

 

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かなかなの右鳴き止めば左から

 

「方円」2005年11月号雑詠掲載。

蜩。その鳴き声からかなかなと呼ばれるこの蝉は、その名の通り特に夕暮れ時に鳴く。晩夏から秋口に鳴き始めるので、秋の季語とされる。関西でよく見られるクマゼミやニイニイゼミのように、夏の盛りに暑さを感じさせるような鳴き声を出す蝉とは違い、カナカナという哀愁を帯びた鳴き声が印象的で、夏の終わりという雰囲気を醸し出す蝉として、よく俳句に詠まれている。よく行く散歩コースの途中には神社があり、境内から蜩の声が聞こえる。一匹が鳴き止めば、別の蜩が別の方向から鳴き始める。その繰り返しが暫く続く。神社中から聞こえるその声に暫く聞き入りながら詠んだ句。

実に単純な句だが、今の私には詠めない句だ。俳句を20年以上やって来て、ともすれば凡庸な句、わかり切っている情景をそのまま詠んでしまう事を避ける傾向が見られる。しかし、一軒平凡に見える句だが、この句は情景がすぐわかる。その時の状況は覚えていないが、恐らく長時間その場にいて、じっくり見聞きして詠んだ句だろう。俳句の原点はここにある。17文字という制限された中で、いかに自分の印象に残った場面を、印象深く伝えるか。これが写生句の極意とも言える。この姿勢を、改めて思い出してみよう。

 

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