月に2回~3回ずつ観た映画の短評を掲載することにしました。

評価は5点満点。

★が1点。☆が0.5点です。

 

 

1. 「ミッシング」(2024年 日本)

監督:吉田恵輔

キャスト:石原さとみ / 青木崇高 / 森優作           

評価:★★★★             

<短評>

6歳の娘が誘拐され,夫婦がその行方を捜すプロセスを描いた映画。母親は時として常軌を逸した行動に出るほど追いつめられているが,父親は比較的冷静。その夫婦のあり方,さらにその行方不明事件を報道する地方TV局員との交流,SNSによる母親への誹謗中傷など様々なことが描かれているが,それらが散漫にならないようにまとめられている。石原さとみの熱演とそれを受け止める青木崇高,森優作の冷静な演技が見物。

 

 

2. 「その瞳に映るのは」(2022年 デンマーク)     

監督:オーレ・ボールネダル      

キャスト:バートラム・ビスゴ・エネボルドセン / エスター・バーチ            

評価:★★★★

<短評>          

史実に基づく映画。1945年3月,ナチス占領下のコペンハーゲン。イギリス空軍によるコペンハーゲンの中心部にあるゲシュタポ指令部(シェルハウス)空爆作戦(「カルタゴ作戦」)が失敗して近くの小学校を誤爆。そこに至るまでの様々な人たちの姿を描いた群像劇であるとともに誤爆直後の混乱を描いた作品。ラストの映像が秀逸なので,★1つ追加して4点。

 

 

3. 「ザ・メニュー」(2022年 アメリカ)  

監督:マーク・マイロッド          

キャスト:レイク・ファインズ / アニヤ・テイラー=ジョイ            

評価:★★★   

<短評>

富裕層しか入店できない孤島にある超高級レストランが舞台。シェフが「食べるのではなく,味わってください」と言うが,これがテーマ。その夜の客はカネはあるが,料理など味わえない人間ばかり。ただ,そのテーマを描くためにこの展開は必要なのか?

感想は「大山鳴動してネズミ一匹」

 

4. 「騙し絵の牙」(2021年 日本)            

監督:吉田大八  

キャスト:大泉洋 / 松岡茉優         

評価:★★★☆

<短評>

「映画.com」の文章を借りると,「出版業界を舞台に、廃刊の危機に立たされた雑誌編集長が、裏切りや陰謀が渦巻く中、起死回生のために大胆な奇策に打って出る姿を描いた」作品。終盤,2転,3転のドンデン返しがあって,それなりに楽しめるが,よくできたテレビドラマといったところ。「古くて陳腐なものVS新しくて面白いもの」という構図で物語が展開されており,その構図が単調すぎる。

仕事はカネを稼ぐための手段というよりも「遊び」に近いものだった。(森永卓郎)

 

 私は寝室に14インチのテレビを置いている。そのテレビはあまり見ることはないのだが,冬は目が覚めても寒くてすぐに寝床から出るのが億劫になり,テレビのスイッチを入れて1時間ほど時間を過ごしてから起き出すのが習慣化してしまった。で,日曜日の朝はたいてい橋下徹が司会をしているフジテレビの報道番組を見るのだが,8日の朝はテレビのスイッチを入れると同時間帯のTBSの「がっちりマンデー」が放映されていて,内容が先日亡くなられた森永卓郎さんの追悼番組だったのでそのまま見ることにした。森永さんはこの番組のレギュラーだったようで過去の映像を振り返りながら司会の加藤浩次と進藤晶子があれこれお話しをするという構成になっていて,番組の最後に森永さんの仕事に対する姿勢として上の「ことば」が紹介されていた。

 森永さんが亡くなったのは1月28日だが,SNSでは今でもその死を惜しむ声が多く見られる。たしかに森永さんのガンが発見されてからのこの1年ほどの闘病生活中に執筆された本は彼の遺言のような内容で(といっても,私は全てを読んだわけではないが),それに共感する人が大勢いるのだろう。ただ,私は森永さんが出演するラジオ番組をよく聴いていたリスナーの一人として,上の引用に表されているような仕事に対する彼のスタンスにハッとするとともに,少し反省もさせられたのである。そうだよね。たしかに彼は仕事を遊びとして楽しんでいた。だから,どんなにバカなように見えることであっても全力投球できたのだろう。だとすれば,彼の壮絶な戦いのように見えた最後の一年の執筆にかける思いにもどこか遊びの感覚があったのではないだろうか。ただ一点,これは決定的なことだが,仕事で遊ぶには相当な才覚が必要とされる。私にはどう見てもその才覚がないことは確かだが,残りの人生,肩の力を抜いてやりたいことだけをやっていこう。

 

森永卓郎氏のご冥福をお祈りします。合掌。

定年って生前葬だな。(内館牧子『終わった人』より)

 

 内館牧子のこの小説は映画化もされており,この「ことば」を聞いたことがある人も多いのではないだろうか。物語は定年を迎えたエリートサラリーマンがその後の人生において自分が打ち込めることが見つからず,スポーツジムに通ったり,見たくもない映画を見に出かけたり,あれこれ趣味を見つけようとするのだが,打ち込めるものが何も見つからず…,という話である。結局,彼にとって仕事が人生の全てであり,それがなくなった途端「終わった人」になってしまうのである。

 多くの人たちは人生のかなりの時間を仕事に費やす。だから,仕事についてどんな考えを持つかは,生きていく上でとても重要なことである。「仕事が生きがい」と言う人も大勢いることだろう。それはそれで結構なことである。しかし,私は,高齢者になって仕事をやめた現在に至るまで,「仕事だけが自分の人生だ」というマッチョな考えを持ったことは一度もない。もちろん,自分が関わった仕事に対しては,自分なりに全力を尽くしたとは思っているし,仕事の瞬間瞬間に喜びを感じたこともある。しかし,その喜びがなくなったら人生が終わってしまうなどと思ったことはないのである。概ね,仕事は私にとって時間をカネに変える行為以上のものではなかったのだと思う。

 もちろん,仕事に人生の意味を求めることを悪いと言うつもりはない。しかし,仕事が与えてくれる意味って何なのだろう?誰か他者の役に立つことをしているという意識が持てるということなのだろうか。それなら,ボランティア活動でよいではないか。いや,生きていかなくてはならない以上,お金を稼いだ上で他者の役に立つことをしているという意識が持てるということではないか。そうだとすれば,エッセンシャル・ワーカーと言われる人たちの賃金は低すぎないか。「仕事」について考え出すと私はいつも困難に逢着してしまい,結局,この世界は仕事を中心に回っており,仕事は金を稼ぐ手段であるということに収斂してしまうのだ。私たちが,仕事が与えてくれていると思っている意味は,多くの場合,組織が与えてくれる意味に寄り添っているに過ぎないのではないだろうか。おそらくこの意見に賛成してくれる人は少ないだろうが,その程度の冷めた目線で考えることも必要ではないだろうか。これが私のスタンスである。

 

今朝ブランチを食べながらTVのスイッチを入れると「ぶらり途中下車!」という番組が放映されていた。この番組は時々見ることがあるのだが,テレビタレントが東京を中心とした関東一円の鉄道の沿線の駅に降り立ち,その町にあるいろいろなお店を紹介するという比較的単純なコンセプトの番組である。今日の旅人はかとうかず子で,中央線沿線の町を紹介していた。で,かとうかず子と言って今でも思い出すのは私が若かった頃に頻繁にテレビで流れていたタバコ(PARTNER)のCMである。当時,私はセブンスターを吸っていたのだが,このCMが気に入って一時期PARTNERにした覚えがある。もっとも,今日ではテレビでタバコのCMなど流したりしたら炎上必至でしょうね。昭和は遠くなりにけり…。

 

 

 

 

 

 

 

 

おれは,もう,日本へ帰りたいよ。小さな片隅の平和だけをバカみたいに大事にしたいなあ。もういいよ。もうたくさんだ。(開高健『ベトナム戦記』より)

 

 『ベトナム戦記』は開高健が1964年から65年のベトナム戦争が激化していた頃の100日間にかけてサイゴン(現ホーチミン市)から『週刊朝日』に毎週送稿したルポルタージュをまとめた書物である。上の言葉を発したのは文芸評論家で同時期に読売新聞の特派員としてベトナム戦争を取材していた日野啓三である。開高と日野はある日の夜明けにサイゴン中央市場の広場で行われたベトコン青年に対する銃殺刑を軍用トラックのかげから目撃する。そのあと彼らは円形広場のふちにある汚い大衆食堂に入ってコカ・コーラを飲み,日野はうなだれて上の言葉をつぶやいたのだ。開高は書いている。「私は吐気をおさえながら彼の優しく痛切なつぶやきに賛意をおぼえ,生ぬるく薬くさい液を少しずつのどに流しこんだ。ときどき液は胃からのどへ逆流しようとした。人間は何か《自然》のいたずらで地上に出現した,大脳の退化した二足獣なのだという感想だけが体のなかをうごいていた。」

 

 戦争とは互いの「正義」と「正義」のぶつかり合いである。開高は書いている。「彼の信念を支持するかしないかで,彼は《英雄》にもなれば《殺人鬼》にもなる。それが《戦争》だ。」したがって,このベトコン青年は《殺人鬼》として殺されるべくして殺された。だが,開高は続けて次のように言う。「しかし,この広場には,何かしら《絶対の悪》と呼んでよいものがひしめいていた。」

 

 想像力の翼を伸ばして,私はもし自分がその場にいたらと考えてみた。おそらく私はそこにある《絶対の悪》に耐えきれず,ほぼ確実に日野啓三と同じことをつぶやいていただろう。いや,言葉を発することすらできなかっただろう。